日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年5月1日火曜日

◆茨城の子供らが「甲子園の申し子」に変貌した夏…「1984年の木内幸男」を語ろう(報知)





 1984年の夏休みは、特別な日々だったと鮮明に記憶している。私は水戸市内の小学4年生だった。甲子園決勝。茨城県代表の取手二が、2年生だった桑田真澄、清原和博のKKコンビを擁するPL学園を延長10回の末に撃破し、県内に初の優勝旗をもたらしたのだ。あの感激は今でも忘れられない。

みどり濃き取手の丘に

大利根の流れを眺め

想いは清き躯(み)はつよく

伸びゆくわれら

ああ西空に富士も晴れたり

取手二高 取手二高

希望に燃えたつ

若人われら

 当時NHKで繰り返し流れ、覚えた校歌は44歳になった現在でも歌える。「作詞・西條八十、作曲・古関裕而」の最強タッグによる傑作だ。鹿島アントラーズも水戸ホーリーホックも茨城ロボッツも、まだなかった時代。「取手二高」とゴシック体で記された水色のユニホームは、県民の憧れであり、誇りだった。

 同年秋には蔵前国技館最後の本場所となる秋場所で、日立市出身の多賀竜が優勝。翌年にはつくば科学万博「EXPO85」が開催されるなど、茨城県が輝いた季節でもあった。

 一躍、ヒーローになったのはとっぽい県立高のあんちゃんたち。それを率いたのはおなじみ、木内幸男監督だ。試合後のインタビューでは茨城弁全開のトークを展開し、「子供らが精いっぱい頑張ったんですよ」とナインをたたえていた。ベンチでの笑顔やざっくばらんな談話は茨城県民のみならず、全国の高校野球ファンの心をわしづかみにした。

 夏の選手権が100回大会を迎える今年、スポーツ報知では「高校野球『あの時』」と題して甲子園の名勝負を連載している。私は5月1日から全10回で「取手二対PL学園」を執筆させていただくことになった。先日、木内さんには予定を大きく上回る90分にわたって、激闘の裏側を話していただいた。

 「もう随分昔のことですから、覚えていませんよ」

 取材を申し込んだ際には電話でそう話していたが、熱闘の背景を語る口調は、力強かった。86歳になった今でも声には張りがあり、活力がみなぎる。インタビューは常総学院のグラウンドで行ったのだが、収録を終えるとすぐさま球場に飛び出し、チームに合流したばかりの新1年生へ打撃指導を始めた。野球への情熱は衰えていなかった。

 聞いてみたかったことの一つが、茨城の高校野球がなぜ、それまで甲子園で勝てなかったか、ということだ。あの夏、取手二が全国制覇するまで、茨城県勢は辛酸をなめ続けていた。

 「弱小ですよ。抽選会に行って、茨城のチームと当たると、相手が『やった!』って試合をやらないうちからガッツポーズしている。それが悔しくてね。茨城の野球は真面目なんですよ。だから、茨城県の県民性とは違う野球をやってやろうと思ったんです。『勝たなきゃ練習をしても意味がない』ということにしながらね」

 私は自分が水戸一高のOBであることを話した。大先輩には「学生野球の父」と呼ばれる飛田穂洲先生がいる。野球における精神性を重んじ、提唱した「一球入魂」などの言葉は今でも高校野球、大学野球の大きな礎となっている。木内さん、茨城の高校野球界には長年、飛田先生の教えがベースにあったと思います。「勝たなきゃ意味がない」という概念は当時、かなり斬新だったのではないでしょうか。そんな問いに木内さんは、こう答えてくれた。

 「茨城にも勝てるチームはあった。でも、勝つことにあんまりこだわらなかったんだ。県大会でも準決勝あたりまで行ったら『よくここまで頑張った。あとは好きなようにやっていいぞ』ってなっちゃう。『あと2つ、石にかじりついてでも勝て』とはならない。最近は言い出すようになったけどね」

 インタビューを通じて、木内さんが変革者になれたのは、高校の先生ではなく、「職業監督」だったからでは、という感想を抱いた。

 「あの時はね、みんな、甲子園の野球が面白くなってきちゃったんだ。茨城の子供らが『甲子園の申し子』に変わってきちゃったんだよ。そんなふうになったことは今まで一度もない。だから、うれしがって野球をやっていたよ」

 連載では対戦した桑田真澄さんや、取手二の優勝メンバーの皆さんの証言とともに、「木内マジック」の本質に迫っていきたい。1984年の夏へ、一緒にタイムスリップしていきましょう。名将と「希望に燃えたつ若人われら」の夏物語。ぜひご一読下さい。(記者コラム・加藤 弘士)


茨城の子供らが「甲子園の申し子」に変貌した夏…「1984年の木内幸男」を語ろう




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