日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年5月30日水曜日

◆サッカーW杯メンバー発表直前 落選を力に変えた二つの才能 本山雅志、山瀬功治((西日本新聞)




 サッカー日本代表は30日、国際親善試合のガーナ戦(日産スタジアム)に臨み、翌31日にワールドカップ(W杯)ロシア大会の代表23人が発表される。1998年の三浦知良、2002年の中村俊輔の落選、06年の巻誠一郎、14年の大久保嘉人のサプライズ選出など代表発表は数々の記憶に残るシーンを生んだ。ドラマは彼らだけに起きたことではない。サムライブルーのユニホームに身を包んだ男たちの数だけ存在する。天才と呼ばれた男、かつての代表の「10番」。現在九州でプレーする二つの才能、山瀬功治(J2福岡)と本山雅志(J3北九州)がW杯代表入りを惜しくも逃した時期を振り返った。 (向吉三郎)

■悔やまれる04年のドイツ戦直前のリーグ戦でけがをして欠場

 2006年、ジーコ・ジャパンには「天才」が豊富だった。中田英寿、小野伸二、中村俊輔、小笠原満男。司令塔タイプが多かった同年のW杯ドイツ大会代表のメンバーから漏れた本山(当時J1鹿島)もまた「天才」と呼ばれた。

 本山は最後までW杯代表争いに加わっていた。ジーコ監督が率いた日本代表にはアジア最終予選など大事な試合にほぼ全て招集され、代表発表(5月15日)直前の国際親善試合2試合(ブルガリア戦、スコットランド戦)にも呼ばれた。

 「選ばれたときに何ができるかを考えていた」と本番を見据えたが、最後の2試合は出番なし。「06年は自分のパフォーマンス的な部分もちょっと…。鹿島でレギュラーを取るための競争に気を取られていたかも」と要因を自己分析する。

 東福岡高で史上初の高校3冠を達成。1999年の世界ユース選手権では小野、稲本潤一、遠藤保仁ら「黄金世代」の一人として日本の準優勝に貢献し、同選手権でベストイレブンに輝いた。00年シドニー五輪にも出場し、鹿島の黄金時代も築いた。ただW杯出場には届かなかった。「大事な試合だった」と悔やむのが、04年12月の国際親善試合のドイツ戦。強豪とぶつかるメンバーに選ばれたが直前のリーグ戦でけがをして欠場した。

■故障に苦しむも明暗分かれた仲間たちから励まされ

 W杯代表に選ばれなかったことを「何が足りないかは考えたけど、落胆とかはなかったと思う。ポジティブにとらえる方なので」という。その後は代表で明暗を分けた仲間たちに助けられた。当時J2の北九州に移籍した16年の11月に右膝前十字靱帯(じんたい)を断裂。チームもJ3に降格し「心が折れかけた」中、靱帯再建手術を受けた小笠原らから「治るから」と励まされ、同時期に同じけがをした稲本とは情報を共有。体幹強化など新たなトレーニングに取り組んだ。

 今回の発表でも明暗は分かれる。「選ばれなかったとしても、まだそこはゴールじゃないと思って向上心を持ってやってほしい。伸びしろは設定しなければずっとある」とエールを送った。


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■かつて10番背負い南ア大会直前2年ぶり代表もアピールできず

 2010年、南アフリカ大会を前に、日本代表の岡田武史監督はチームづくりに苦心していた。5月10日の代表発表前最後のテストマッチは4月7日のセルビア戦。ここで山瀬(当時J1横浜M)は2年ぶりの代表復帰を果たした。

 ドリブルで局面を打開できる当時の代表常連組にはいなかったタイプ。同年のJ1で開幕から大きな存在感を示していた。「チームのために今の自分ができることを考えて全力を尽くして出す。代表であっても、所属クラブであっても変わらない。今もそう」。09年はリーグ戦で思うように試合に出られずに代表からも遠ざかった。目の前の試合に逃げずに結果を積み重ねたから得たチャンスだった。

 セルビア戦は後半25分からの途中出場。アピールの時間は短かった。「(代表の)発表をドキドキして待つ感じでもなかったかな」。結局代表には選ばれなかったが、この経験をマイナスとは捉えなかった。「(W杯の)対戦相手や(選手の)組み合わせもあり、それで最後に選ぶ人(監督)がいる。自分がコントロールできるものではない。全力でやった結果なら仕方がない」

■度重なるけがに戦力外通告…さまざまな経験をプラスに捉え

 01年に札幌でリーグ新人王に輝いた翌02年に右膝靱帯(じんたい)断裂の大けがを負った。04年には予選で中心として活躍したアテネ五輪のメンバーから外れ、左膝の靱帯も断裂。「試練は成長のきっかけ」。苦境をプラスの力に変えた。

 けがを乗り越えてフル代表へ。10番を背負った08年は4得点をマークするなど中心選手の一人だった。「W杯まであと半年、1年なら意識したかもしれないけど、考えていなかった」。届かなかったW杯代表を「達成できていない目標の一つ」と言い切る。

 才能を発掘してくれた札幌など所属クラブへの感謝も忘れない。「さまざまな経験を次に生かしてやってきた」。代表落選に加えて、戦力外も経験した36歳。「悔しいという負の感情をポジティブなエネルギーに変えてきたからこそ、この年齢までやれている」と実感を込めた。

▼ギラヴァンツ北九州/MF

 ◆本山雅志(もとやま・まさし)1979年6月20日生まれの38歳。北九州市出身。東福岡高3年時に全国高校総体、全日本ユース選手権、全国高校選手権を制し「高校3冠」を達成。98年にJ1鹿島に加入。2000年に初めて日本代表入り。鹿島ではリーグ優勝6回、天皇杯3回など数々のタイトル獲得に貢献した。国際Aマッチ出場28試合で0得点。MF。利き足は右。175センチ、65キロ。

▼アビスパ福岡/MF

 ◆山瀬功治(やませ・こうじ)1981年9月22日生まれの36歳。札幌市出身。北海高3年時の99年に当時J2の札幌の強化指定選手となり、2000年に正式加入。同年、湘南戦でリーグ戦初出場初得点するなどJ1昇格に貢献。03年に浦和、05年には横浜Mに移籍し、06年に初めて日本代表入り。川崎、京都を経て17年に福岡へ。国際Aマッチ出場13試合で5得点。MF。利き足は右。175センチ、71キロ。

    ◇      ◇

田嶋会長「勝つしかない」 太宰府市でトークショー

 日本サッカー協会の田嶋幸三会長が28日、福岡県太宰府市の九州国立博物館で行われたトークショーでワールドカップ(W杯)ロシア大会に向けた“覚悟”を口にした。

 高校生を中心に約250人が来場。ハリルホジッチ氏を解任して西野朗監督に託した理由という直球の質問に、田嶋会長は「少しでも勝つ可能性を求めた。いろいろと言えないことはあるが、こうなったら勝つしかない」と断言し「(H組の)2位以内に入ること」と1次リーグ突破を目標に掲げた。

 トークショーは日本代表を応援するために同日から始まったイベント「アジア代表日本2018」(西日本新聞社共催)の一環で開催。田嶋会長とともにゲストとして登壇したJ2アビスパ福岡の井原正巳監督は日本がW杯に初出場した1998年のフランス大会を主将として経験した思い出を披露。「W杯に常に携わっていたいと思った。そのモチベーションで今も仕事をしている」と語った。 (向吉三郎)

=2018/05/29付 西日本スポーツ=


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