短期連載:「鹿島アントラーズの30年」
第1回:「ジーコがまいた種」
今年創設30周年を迎えた鹿島アントラーズ。Jリーグの中でも「すべては勝利のために」を哲学に、数々のタイトルを獲得、唯一無二のクラブとして存在感を放っている。
その節目となる年にあたり、クラブの歴史を独自の目で追った単行本『頂はいつも遠くに 鹿島アントラーズの30年」(集英社刊)が11月5日(金)に発売された。それを記念し、本の内容を一部再構成・再編集したものを4回にわけてお届けする。第1回は「ジーコがまいた種」。
1991年秋、日本サッカーリーグ2部が開幕する。ホームでの開幕戦、5-0で快勝した住友金属工業蹴球団の一員にはジーコがいた。住友金属は1993年からスタートする日本プロサッカーリーグ、Jリーグ入りが決まってはいたが、プロサッカークラブとは何かを知っている選手がいなかった。だから「教えを乞う」というスタンスでジーコを迎え入れた。その期待に応えるために尽力したジーコは鹿島アントラーズのシンボルとなり、クラブが30年経った今もそれは変わらない。
2部からのJリーグ入り、地方都市をホームタウンに持つ鹿島アントラーズが日本のトップクラブへと進化したのは、クラブとジーコがお互いをリスペクトし、高い目標設定を掲げ、そこへ邁進してきたからだった。ジーコに、自身と鹿島アントラーズについて訊いた。
――30数年前に来日したとき、鹿島アントラーズを作るところから仕事が始まりました。当時、こんなふうに多くのタイトルを手にするクラブに成長すると思っていましたか?
「僕はもともと、プラス思考で物事を考えるタイプなので、プロジェクトを説明され、それに取り組む人たちの目の真剣さを感じたとき、これは『すごいビッグクラブになるだろう、多くの結果を残すだろう』と思いました。当然ゼロから作るわけですが、いきなり完璧にできあがったわけではありません。まずはしっかりとしたトレーニングセンターを完成させ、同時に町の人たちを取り込んでいくことができた。支えてくれる人たちが数多くいたことが重要でした。プロスポーツの成長を促すために必要な人材が集まり、継続して仕事をして、上乗せしていければ、成長するだろう、結果がでるだろうと確信を持っていました」
――そして、1993年Jリーグファーストステージで優勝しました。
「優秀な人材は、勝てる環境を選ぶのは当然です。優勝したことでその道が見えました。そうすることでクラブも成長できるわけです。同時に育成組織の向上、その組織の土台作りも重要です。そういうさまざまなことをみんなでひとつひとつ微調整しながら作り上げていくことが未来に繋がると、当時から考えていました」
――その後、鹿島アントラーズは強豪というブランド力を手に入れていくことになります。
「当時、茨城県鹿島町といえば、住友金属の製鉄所が町の唯一の象徴だったと思います。それが今では『茨城県鹿嶋市といえば、鹿島アントラーズ』というところにまでたどり着くことができました。これはクラブに対して、鹿嶋市を含めた鹿行地域、ホームタウンの貢献があったから。その力がクラブを作り上げたことは、非常に喜ばしいことです。
正直、当時の鹿島には、娯楽が少なくて製鉄所と、アントラーズしかないという感じでした。でも、そこに充実した環境、インフラを整備したことで、ジョルジーニョやレオナルドというブラジル代表レベルの世界的な選手を鹿島に連れてくることができました。彼らには鹿島アントラーズというクラブの状況を話し、クラブやチームを成長させるために仕事をしてほしいと依頼したわけです。すると彼らも、そのために自分がどうクラブやチームに貢献できるのかを考えてくれました。
今もまだ、娯楽という意味では都会ほどではありません。でも逆にプロフェッショナルサッカープレーヤーとして、集中してサッカーに取り組める環境がここにあると思っている。だから、本当にプロとして成功したい人がいるのであれば、やっぱり、このクラブを選ぶべきだと僕は考えています。だからこそ、今後もアントラーズはよい人材を獲得するために、環境整備、インフラ整備を行ない、魅力的なクラブハウスなどを作り上げなければいけないと思っています」
――ジーコさんが勝負へのこだわりや勝負強さ、勝つことへの意識をチームへ植えつけるために大切にしたこと、心を砕いたことはなんでしょうか?
「僕が現役で培った経験や地位というものが自分自身の言葉の重みになっていることを認識したうえで、どのような発言をするかということに気を使いながら、やってきたつもりです。僕は現役時代、ブラジルで常に勝つことを求められるクラブ、そしてブラジル代表でプレーをしてきました。その後、イタリアという勝利主義の国でプレーもしました。そんなふうに自分が培った知識や経験を日本に還元するという形になり、鹿島アントラーズというクラブになったと感じています。
当然、勝つだけではなくて、負けた苦い思い、記憶もありますし、経験もあります。そんな経験をどんなふうに還元すればいいのかも当然わかっています。自分の経験をただ僕の財産として残しても何の意味がないと考えているので、できるだけ多くの人に自分の経験を伝えることは、自分の使命ではないかと思っています。だから、できるだけ、周りの人にもいろいろな話をします。それを踏まえて、自分の考えでやってほしいというのが僕の願いでした。
僕は一時期アントラーズを離れましたが、僕がいない間も『スピリット・オブ・ジーコ』(献身・尊重・誠実)というのを大切に継続し続けたことは、非常に重要だったと思っています。これからの未来、クラブに関わる人間が変わっても、その部分が揺らぐことなく、継続していかなければいけないと思っています」
――未来のアントラーズにとっても継続が力になると。
「今、アントラーズにはブランド力があり、地位やステイタスがあります。でも、今後このクラブに来る選手、監督、スタッフ......彼らに認識してほしいのは、『アントラーズに在籍しました』というのを、通過点というふうには考えないでほしいということ。これは一番強調したい部分でもあります。アントラーズに来る以上、常に結果を追求しなければならない。結果を出さなきゃいけないと、このクラブの歴史に自分の名を刻んで行かなければいけないという覚悟が必要なのです。クラブハウスにはタイトルを獲ったときの写真が数多く飾られていますが、選手ならば、自分がこの写真に残るようにしなくちゃいけないということを求めてほしい。自分が人々の記憶に永遠に残ることが重要だという意識と認識を持ってほしいというのは、今後の世代に対しての僕の大きなお願いです」
――ジーコさんご自身にとって、日本での日々はどういうものでしょうか?
「日本という国、日本の人々から学ぶことは本当にたくさんありました。そのひとつは、安全ということへの意識です。もうひとつが組織力や計画性でしょう。しっかりと計画を立てて、物事を行なうのです。そういう日本で学んだものを僕は1995年にCFZというクラブを作るときに役立てました。選手だけでなく、子どもやお年寄り、すべての人間にとっての安全を考えて設計しました。計画をしっかり練り上げて動いたことも日本で身につけたものがあったからでしょう。CFZももうすぐ30周年です。ブラジルでは経営破綻をするクラブも少なくありません。そういうなかで、ゼロから作ったクラブを運営できているのは、日本の知恵や経験が生かされたからだと感じています」
――鹿島アントラーズというクラブはどんな存在ですか?
「アントラーズというクラブは、サッカー界の僕の心の半分だなと考えています。僕はフラメンゴでの経験をアントラーズに植えつけたわけですから。僕にとって、このアントラーズは非常に大事な場所であって、第二の祖国ではないかなと実感しています。僕の人生はアントラーズのおかげで変わりましたから。
今はアントラーズで、テクニカルディレクターという仕事に就いていますが、そういう立場がないときも、アントラーズに関する要望というか、求められるものには応えたいと努力をしてきました。今後も契約の有無にかかわらず、その努力をし続けるだろうと思います。
アントラーズが与えてくれたものに対して、僕は恩返しできているのかはわからないけれど、恩返しのためにはまだまだやらなくちゃいけないことがあると考えています」
――ブラジルのご家族と離れての仕事になりますね。
「確かに子どもたちの成長を間近で見守ることはできませんし、8人いる孫を抱きしめたり、学校へいっしょに行ったり、サッカーをしたりというおじいちゃんとして、やりたいことは数多くあります。でも、まあ、幸いインターネットの普及もあって、顔も見れるし、雰囲気を感じることはできますから。もちろん、恋しさは変わらずありますよ。
でも、今僕に課せられた使命というのは、今後の鹿島アントラーズの30年をすばらしいものにするための土台作りだと思っています。そのための努力は惜しまない。アントラーズだから、家族への愛情という自分の気持ちを犠牲にしてでも、やれるんだと思っています」
◆「僕の人生はアントラーズのおかげで変わった」。ジーコが振り返る鹿島の30年と思い描く未来(Sportiva)