「暖かく迎えてくれたクラブがそういう判断をするなら、私はそれをリスペクトする。私が鹿島で過ごした時間は充実していたし、人生の一部として愛情も情熱も捧げてきた。あそこで仕事をするのは特別だった。ただ日本を去る前に、今でも街中で丁寧に声をかけてくれるサポーターに挨拶できないのは残念だった。私はSNSもやらないし、多くの人に直接会って話したかった」
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◆突如、鹿島の監督を解任されたランコ・ポポヴィッチ「温かく迎えてくれたチームがそれを望むなら...」(Sportiva)
11月11日、ランコ・ポポヴィッチは羽田空港にいた。鹿島の監督を電撃解任され、妻と共に帰国の途につくためである。せめてサポーターたちには、あいさつがしたかったというポポヴィッチの最後の言葉をお伝えする。
解任を告げられたのは、10月5日、4対0で勝利した新潟戦の直後だった。9試合ぶりのクリーンシートの喜びに浸っていたロッカールームで、吉岡宗重フットボールダイレクターにこう告げられた。「明日、社長に呼ばれているので出向いて欲しい」残り6試合、1試合少ない首位広島とは勝ち点12差でリーグ4位の位置につけていた。
「ああいう快勝だったのでサポーターも喜んでいたし、あまりに突然のことで驚きはした。私は決して優勝をあきらめていませんでした。『1%でも可能性がある限り、戦い続けて勝利をもぎ取る』。その執念を鹿島の歴史から学んでいたからこそ、最後までJリーグ制覇に向けて全力を尽くすつもりでした」
新潟戦ではチーム2位の9得点をあげていた濃野公人をケガで欠きながらも、守備をコンパクトにした3バックへの布陣変更が奏功。抜擢した樋口雄太もゴールを重ねた。最後まで闘う覚悟で臨み、手ごたえを感じていた中での突然の解任に悔しくないはずがない。その後の流れるような監督人事を見れば、元々が1年で解任ありきの繋ぎだったのかと邪推もしたくなる。しかし、愚痴も恨み言も口にしない。
「暖かく迎えてくれたクラブがそういう判断をするなら、私はそれをリスペクトする。私が鹿島で過ごした時間は充実していたし、人生の一部として愛情も情熱も捧げてきた。あそこで仕事をするのは特別だった。ただ日本を去る前に、今でも街中で丁寧に声をかけてくれるサポーターに挨拶できないのは残念だった。私はSNSもやらないし、多くの人に直接会って話したかった」
会見の機会もなく、指揮官が背中を押してくれたサポーターの前からこつぜんと姿を消してしまうのは、礼を失しているのではないかとの忸怩がポポヴィッチにはあった。志半ばにして離日する前にどんなビジョンを持っていたのか。
「最終節まであきらめずに戦う上で、新潟戦で機能した3バックを続けていこうと考えていました。前節の湘南との試合(2対3)を終えて変化が必要ななか、ケガ人も出ていたあの時のメンバーで鹿島が勝つにはこのやり方だと切り替えました。準備期間は一週間しかなかったのですが、もともと3-4-2-1のフォーメーションはオプションとして持っていて、9月の広島戦も3バックにしてから、徳田(誉)のゴールで追いつきました。
新潟戦からより攻撃的にいくという意志は、ウイングに樋口を置いたことで理解してもらえると思います。あの試合で彼は2ゴール、1アシストです。それまでなぜ使われなかったのか? 彼のステータスが落ちたわけではありません。樋口はアシストの面で良い選手と評価されていましたが、その中身を見るとセットプレーが大半でした。彼は流れの中で活きるし、そこを活かしたかった。ああいう形で結果を出してくれて私もうれしかった」
――開幕前にCBとして獲得したヨシプ・チャルシッチがメディカルチェックで問題が見つかり、入団が叶わなかった。思えば、ここからDFの層の薄さが露呈していた。
「チャルシッチのことはこのままプレーを続けることで命に関わると言われた瞬間から、躊躇なく休ませました。プロフェッショナルの前にわれわれはひとりの人間であることを忘れてはいけない。仕事よりも彼の人生の方が重要でした」
――彼は今、どんな状態?
「先週も電話で話をしました。手術はベオグラードで成功したのです。ドクターに彼の症状のスペシャリストがいたのが幸いでした。リハビリから復帰して現在はトルコのクラブ、コンヤスポルにいます。早期の対応が良かったと思います」
――あてにしていたCBが起用できなくなり、ウインドウが閉まる前に補強についてリクエストはしなかったのか。
「チャルシッチが抜けたあともチームは(補強選手の)リストを持っていました。しかし、それらの選手はわれわれのレベルには達していなかったのです。大金をはたけば、良い選手を取ることができた。しかし適正な価格でなければ、クラブのためにならないと思いました。そこで(関川)郁万と直(植田直通)にがんばってもらうことになりました」
――彼らにはどのようなことを伝えたのか。
「まず激励、そして最終ラインの設定をこれまでよりも10メートルは上げて、高い位置でキープすることを伝えました。変化を起こすときは常に不安がつきまとうけれど、恐れずにプレーしてもらいたいと。ずるずる下がらずにインテンシティを持って後ろの選手が一列目、二列目の選手を押し出すということが重要で、それは簡単な変化ではなかったが、あの二人は早い段階で対応してくれました。だからこそ良いスタートが切れました。一方で替えがきかない選手であるからこそ、レッドカードにリーチがかかった状況でもプレーをさせざるをえなかった。それは本人たちも理解していて、プレーに影響を及ぼしました。カードをもらわないこと、ケガをしないことを心掛けなければならない。そこに安易にプレッシャーをかけるわけにはいかない。そのマネジメントはなかなか難しかったです」
――鹿島アントラーズという常勝を求められるチームに着任し、ゼロから土台を作らなければならなかった。何を変えようと考えていたのか。
「まずメンタリティをどう変えるのかを考えていました。私もSKシュトゥルム・グラーツの現役時代に『勝者のメンタリティ』を(イビツァ・)オシムさんから叩き込まれましたが、鹿島に着任した当初の選手たちはかつての三冠、最多優勝を誇っていた頃とは明らかに異なっていると感じていました。ジーコスピリッツを頭では理解していたが、備わってはいなかった。鹿島のクラブの歴史を学んで来日した私はことあるごとに選手を鼓舞しました。あきらめずに最後まで戦う勝者のメンタリティ、このチームでプレーできる喜びと感謝。同じ方向へ向かおうと選手も共通意識を持ってくれました。目の前の試合をすべて勝ちにいくという気持ちを大切にして、サポーターのエネルギーをプラスにできました。その結果がホームの無敗だったと思います」
――チームが配信する試合当日の映像からもこと事あるごとに鹿島プライドとサポーターへの気持ちを口にしていた。
「サポーターがスタジアムに足を運び、われわれの背中を押してくれたことが大切でした。私はトレーニングのあとのファンサービスも1日も欠かさずに行おうと決めていました。その一体感こそが鹿島の強さだと確信していたからです。私が最も力を入れたことは、これが鹿島アントラーズだという熱量を呼び覚ますことでした。サポーターと接する中で『こういう監督が必要だ』と言ってくれた人がいて、それは私にとって大きなことでした。忘れかけていた鹿島スピリッツを戻せたと思います。だから今、メディアなどから再出発だというような、シーズン前と同じようなコメントが出るのは悲しいことです」
著者プロフィール
木村元彦
木村元彦 (きむら・ゆきひこ)
ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。