日刊鹿島アントラーズニュース

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2014年11月19日水曜日

◆5カ月ぶりに代表復帰した内田の苦悩と決意/No Ball, No Life(サンスポ)


http://www.sanspo.com/soccer/news/20141118/jpn14111819000012-n1.html



 明らかにイラついていた。

 約5カ月ぶりに日本代表に復帰したDF内田篤人(シャルケ)のことだ。ブラジルW杯後、日本代表はハビエル・アギーレ監督の新体制に移行。内田は右膝の状態が思わしくないこともあって、9、10月には招集が見送られていた。11月になってようやく、初めてアギーレ・ジャパンのメンバーに名を連ねた。

 不動の右サイドバックの復帰に、報道陣はもちろん歓迎ムード。だが、合宿初日の11月10日、取材エリアに緊張が走った。内田が開口一番、不満をぶちまけたのだ。「W杯が終わってから代表のことはしゃべってなかったのに、新聞では最近しゃべったかのように書いてあって。しゃべらなくても皆さん記事書けるし、しゃべらなくてもいいかなって」。伏線があった。ブラジルW杯の敗退が決まった6月24日のコロンビア戦後、「代表引退を考えているのか」と問われ、「考えてます。日本に帰って、少し休んで考えたい」と答えた。11月の代表復帰については、日本協会が招集メンバーを発表する前から、一部で報道が先行していた。「復帰するだのしないだのって、どんどん大きくなって」。戸惑いがあった。

 クラブと代表の往復による過密日程。痛めている右膝の状態。W杯が終わっても簡単に「4年後を目指す」とは言えない事情があった。現役や代表を続けるか、それとも退くかは、選手にとって最もナイーブな問題の1つ。それなのに、自分の口で話していないことが既成事実化すれば、違和感を覚えるのは当然だった。

 その後も“核心”を明かさない日が続いた。試合出場への見通しは「医師と話し合いです」。新体制での練習について問われても「試合をやらないとわからない」。事実ではあるが、のらりくらりとかわされる。終始そんな調子だった。今後も日本代表として活動していくのか。取材をしても確信は持てなかった。

 内田は一貫して「理想のスタイルの先にある勝利」ではなく、「勝利のためには何が必要か」を訴えてきた選手だ。鹿島でJ1の3連覇や、シャルケで日本人初となる欧州チャンピオンズ・リーグ4強を経験し、高いレベルでの「勝ち方」を知る。アギーレ監督も「ぜひ、呼びたい」と早くから招集を熱望していた。「自分たちのサッカー」を掲げながらもブラジルW杯で夢破れ、再スタートを切った今の日本代表に、必要な存在であることは明らかだった。

 変化が現れたのは、ブラジルW杯に出場した多くのメンバーと戦った14日のホンジュラス戦後だった。6-0で大勝した試合にいきなりのフル出場。安定した守備、ゲームを組み立てるパス、そして効果的なオーバーラップなどで及第点の働きを見せると、内田はこの合宿で初めて「代表での今後」について言及した。「今日は勝てましたけど、これから先勝てない時期もあるだろうし、ずっと勝つかもわかんないし。そんなのわかんないんで。うまくいく時は別にどうでもいいですけど、うまくいかなかった時にどうするか」。大勝にも浮かれることなく現実を見つめる、内田らしい言葉の中に、未来への思いをちりばめた。

 やり残したことの多さを思えば、もしかしたらとっくに決意は固めていたのかもしれない。もちろん、代表活動を続けるにあたっての懸念材料が解決したわけではない。今も右膝はギリギリの状況。シャルケでも痛み止めの服用は欠かせない。それでも、内田がこの先を見据えていたことは間違いなかった。では、次のW杯についてはどう考えているのだろう。代表を続けていくのであれば、4年後へのモチベーションの存在を聞かずにはいられなかった。

 「今まで通り淡々とというか、コツコツやるタイプなんで」。返ってきた答えは実にシンプルだった。環境が変わっても、内田の中には変わらないものがある。今まで通り、淡々と。ずっとそうしてきたように毎日を過ごしていく。必要とされる限りは「日本代表・内田篤人」で居続ける。その宣言のようにも聞こえた。(伊藤昇)

伊藤昇(いとう・のぼる)

 2009年入社。2012年ロンドン五輪で水泳やバレーボールを担当し、その後サッカー担当に。J1鹿島、日本代表、なでしこジャパン、五輪世代の代表などを担当する。食べ歩きと雪山をこよなく愛すが、増え続ける体重が今の悩み。

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