http://www.theworldmagazine.jp/20150628/05feature/8814
一度はサッカーから離れたが、プロとなり、ついには日本代表となった。photo/Getty Images
ガンバのジュニアユースに入団し、宇佐美にはかなわないと思った
──サッカーをはじめたキッカケを教えてください。
昌子 家族がサッカーをやっていたので、自然と家のなかにボールがありました。記憶にはないですが、写真をみると2歳のころからボールを蹴っていたみたいです。幼稚園では園長先生がGKをやってくれていました。この園長先生は身体が大きくて、子ども用の小さなゴールの前に立つと隙間がなく、なかなかシュートが決まらないから点を取ったときは大きな喜びがありました。おかげで、高校の途中までFWをやっていました(笑)。
──お父さんが指導者で、サッカー協会(JFA)にも知り合いが多いそうですね?
昌子 S級ライセンスを持っていて、いまは姫路獨協大学で監督をやっています。その父からは、『お前の運動神経のよさは母譲りだ』と言われます。若いころの母は全国大会に出場するような選手で、50歳を超えたいまも現役でサッカーを続けています。姉もリフティングが上手い。昌子家はまわりから『スポーツ一家』と言われています。
──小学生のときは地元のFC FRESCA(FCフレスカ)でプレイし、中学時代はG大阪ジュニアユースに所属していましたね?
昌子 FCフレスカは近所にあり、兵庫県では強いクラブでした。ボクは4年生のときに6年生の試合に出ていました。県大会で得点王になったこともあります。トレセンに呼ばれる常連で、それなりに有名な選手でした。中学進学のときは、ガンバに同年代の有名選手が集まると聞いていました。関西でトップレベルの選手はガンバに行くのが当然だったので、迷うことなく決めました。
──G大阪ジュニアユースではどんな日々を過ごしていたのですか?
昌子 各県から同い年のスーパースターが集まっていました。FWだけでも宇佐美貴史、大森晃太郎など……。宇佐美のことは小学生のころから知っていましたが、他県まで知れ渡るほど有名ではなかった。それが、同じチームになってみたら飛び抜けて上手かった。一生かなわないと思いました。実際、宇佐美には勝てないし、試合にも出られなかった。小学生のときは自分が上手いと思っていたので、その状況に耐えられなかったのかな。サッカーがつまらなくて、嫌になってしまった。はじめての挫折です。2年生の途中から練習に行かなくなり、サッカーから距離を置きました。友だちと遊ぶのが楽しくて、一歩間違えていたらプロになっていなかったです。
──その状況からどうやって米子北高へ進学することになったのでしょうか?
昌子 あるとき、父が知り合いのコーチから『源はどうするんですか?』と声をかけられたそうです。鳥取県の米子北高でコーチをしている中村真吾さんで、直接電話をもらいました。しかし、誘ってくれた当初はまだサッカーが嫌いな時期で、行きたくなかった。それでも、進学するならここかなと感じて、練習見学に行きました。またサッカーをやるなら、今度は試合に出たい。試合に出られるのはどこかと考えたときに、米子北高が一番の選択肢でした。
鹿島加入2年目の2012年にはナビスコ杯優勝に貢献。同期には柴崎がいる。photo/Getty Images
米子北高でFWからCBへ転向しプロ入りの道が開けた
──米子北高ではサッカーを嫌になりませんでしたか?
昌子 親元を離れての寮生活で、最初はホームシックでよく母に電話していました。サッカーというよりも、新しい土地での生活、寮生活が嫌でしたね。あるとき母に『帰りたい』と告げたときは、『本当に我慢できなくなったら私が一緒に米子に住むから』と言ってくれました。これはうれしかったですね。結局、母は来なくてずっと寮生活でしたが……。でも、ボクはもともと人見知りではないので、誰も知らない状態からサッカー部に友だちができて、一般の生徒とも徐々に仲良くなっていきました。だんだん高校生活が楽しくなっていきましたね。
──高校入学時はFWですよね?
昌子 そうです。新入部員だけで島根県の立正大淞南高と練習試合をしたときは、ハットトリックもしました。相手から『アイツはやばいぞ』と言われていましたよ。部内で一番上手かったと思う。練習で先輩を抜いたりして、天狗になり、気取っていました。でも、それで自信を取り戻せました。高校にも宇佐美みたいなスーパーな選手がいたら、また心が折れていたかもしれません。同時に、米子北高はとにかく厳しかった。部訓として挨拶をしっかりする。謙虚に取り組むというのがあって、3年間で人として当たり前のことを学びました。大人になったのかな。ちゃんと挨拶をするようになり、女の子がいても格好つけることがなくなりました。親に反抗することもなくなりました。
──CBに転向した経緯を教えてください。
昌子 1年生で国体の鳥取県選抜に選ばれたときは、まだFWでした。ある日、国体選抜とガイナーレ鳥取(当時JFL)の練習試合があって、前後半でメンバーを入れ替えました。当時の国体選抜は米子北高の中村コーチが監督を務めていて、後半になってCBがケガをしたときに『いまだけCBで出てくれないか』と言われました。ボクは前半にFWとして出ていましたが、教え子で近くにいたので頼みやすかったのだと思います。いわば、突発的なアクシデントで出場することになった。このときガイナーレにはコン・ハメドというコートジボワールから来た身体能力の高い外国籍選手がいて、その選手とマッチアップして1対1の攻防で互角以上の戦いをしました。すると、次の日に中村コーチから『CBに向いてる。CBになれ』と言われました。すごく嫌でしたが、断われなかった。それからは、一度もFWをやらせてもらえなかったです。
──しかし、CBへの転向は正解だったのではないですか?
昌子 その後、CBをはじめて2か月で迎えたインターハイ(2009年近畿まほろば総体)で準優勝したのですが、そこに鹿島のスカウトの椎本邦一さんが来ていました。一回戦で茨城県の水戸商と対戦したときに、地元・茨城の選手を目当てに見に来ていたんです。それが、このときにボクが稀に見る絶好調で、さらにはCBをはじめてまだ2か月だということで関心を持っていただきました。同年の高円宮杯全日本ユースでも快進撃を続け、ベスト8まで勝ち進んだ。ボクにとっても米子北高にとっても、CBへの転向は大正解でした。
──鹿島へ入団するとき、プロになるときは迷いませんでしたか?
昌子 高校3年生でU-19代表にはじめて呼ばれたのですが、このころからプロになりたいという気持ちが少しずつ芽生えていました。ただ、父は仕事柄、プロの厳しさを知っていたので反対でした。母は大学進学を希望していたので、両親は話し合ったそうです。プロになっても、成功しない選手はたくさんいます。やる気をなくし、能力を落としてしまう選手もいます。最終的にはボクが決断することでしたが、食べていけなくなるとか、戦力外になるとかは考えていませんでした。無防備なまま厳しい世界に飛び込もうとしていたので、家族は心配してくれていました。『本当にわかっているのか』という確認です。それでもプロになりたかった。鹿島に行きたいという気持ちでした。何事においても、熱意を感じなければ父は許可を出さない人です。OKしてくれたということは、ボクの熱意が伝わったのだと思います。
フィジカルの強さには定評があり、競り合いには絶対の自信を持つ。photo/Getty Images
大岩剛の指導を受けて成長。プロ入り4年で日本代表に
──数年をかけて鹿島でレギュラーポジションをつかみ、日本代表にもなりましたね?
昌子 加入1年目から試合に出られるとは、まったく思っていませんでした。誘ってくれた椎本さんは、『3年目からが勝負だ』と言ってくれていました。まずはプロの世界に慣れて、力をつけろと。これまで多くの方にお世話になってきました。加入当時は奥野僚右コーチ、石井正忠コーチがいて、さらには大岩剛さんがコーチになって1年目で、マンツーマンで指導していただきました。3年をかけてクリアの仕方、ステップの踏み方、次のアクションまでの動きなどをみっちり教わりました。剛さんの経験をすべて叩き込んでもらった感じです。だからボクは、大岩2世だと思っています。実際、プレイスタイルが似ているとも言われます。剛さんはボクの師匠というか、鹿島のお父さんです。プロ人生のなかで、剛さんの存在はとても大きいです。
──日本代表に初招集されたのは、入団4年目の昨年でしたね?
昌子 定着したわけではないので、もちろん満足はしていないです。常にここからが勝負だと思っています。ただ、自分自身がどうなっても受け止められます。鹿島でしっかりプレイしなければならないことに変わりはない。しばらく代表から遠ざかっても、何年かぶりに復帰というのはよくあるので、常に全力でプレイするのみです。それでも、鹿島に加入して5年目を迎えて、いまは下に何十人もいます。22歳は中堅です。ボクらが小笠原満男さんを代表選手だと意識したように、下の選手は代表選手としてボクを見ています。しっかりやっていなくても代表に選ばれるんだとは絶対に思われたくない。代表を経験したことで、サッカーに取り組む姿勢をより考えるようになりました。プロは厳しい世界ですが、自分次第でどうにでもなります。何らかのカベに当たったときに、逃げてしまうか、しっかりと乗り越えるか。這い上がった選手が、代表に選ばれるのだと思います。ボクは自分の能力を信じています。1対1の競り合いでは誰にも負けたことがありません。試合中にボディコンタクトがあったときに、バランスを崩して尻餅をついたことがない。常に『抜いてみろ』という気持ちでプレイすることを大事にしています。
インタビュー・文/飯塚 健司
theWORLD163号 6月23日配信の記事より転載