【思い出の地/ザ・ミュージアム】 各界で活躍するプロたちの軌跡をたどる『思い出の地』の第4回は、サッカーJ1鹿島の主将MF小笠原満男(38)が高校3年間を過ごした岩手・大船渡市を紹介。部活や恋愛など青春の思い出が詰まった港町は、2011年の東日本大震災で大きなダメージを受けた。苦難を乗り越え、復興の道を歩む大船渡は、不屈の闘将の原点だ。 (取材構成・一色伸裕)
入り組んだリアス式の海岸線が風光明媚(めいび)な陸前。三陸海岸から吹きつける冷たい海風に、吐息も白く曇る。
「ここ(大船渡市)の復興は早い方だけど、陸前高田とかにはまだ津波の跡が残っているんだ」
小笠原が寂しそうに語った。生まれ故郷・盛岡市の親元を離れ、大船渡高サッカー部の斎藤重信監督(70)=現盛岡商高総監督=の自宅に下宿した。大船渡市は「育ててもらった場所」であり、特別な町だ。2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた。小笠原は高校3年間を過ごした“第二の故郷”の復興を強く願う。
高校時代は朝から晩までボールを追いかける日々。「サッカーの思い出しかない」と小笠原は話すが、そこは高校生。甘酸っぱい青春の記憶もいっぱいだ。00年8月に結婚した夫人のかおりさんは、当時のサッカー部マネジャー。電車で約1時間の隣町、陸前高田市から通学していた同級生だった。
部活に熱中していた2人にとってデート場所は学校だった。同僚の今野当(あたる)さん(38)は「よく2人でいましたね。もう時効だからいいますけど、部室で仲良く話していましたよ」と当時を懐かしむ。
練習に真剣に打ち込み、終了後はかおりさんを最寄り駅まで送ると、下宿の門限に間に合うように帰宅。会えないときもあったが、そんなときは今野さんの実家が経営する旅館に仲間で集まり、恋愛話やサッカー話で盛り上がった。
思い出が詰まった町を襲った大震災。大船渡、陸前高田はその面影すら失った。あれから間もなく7年。復興へ一歩ずつ歩みを進める一方、被災地にも当時を知らない子供たちが増えている。時間とともに記憶が風化しつつあるのも現実だ。長年、被災地の支援を続ける小笠原は「地震、津波を語り継いでいく必要がある」と強く説きつつ、「サッカーができる喜びを感じてくれている」とボールを蹴る子供たちに優しい視線を送る。
自身を育んでくれた大好きな大船渡の町で、サッカーで思い出をつくり、巣立っていく。小笠原は子供たちと自身を重ね合わせ、これからも故郷を見守り続ける。
★恩師は見た
小笠原の恩師・斎藤重信監督は、下宿していた複数の生徒をわが子のように育てた。自ら朝昼晩の食事をつくり、サッカーや恋愛、進路など「人生の壁」にぶつかる子供たちを支えた。“父親”として小笠原のこともすべてお見通しだった。「こそこそやっていたつもりだろうけれど、知っていたよ。送られてくる電話の明細をみるとマネジャー(かおりさん)の家の番号ばかりだった」。“息子”の恋愛の行方をそっと見守っていたという。
★人工芝のグラウンド作りました
東日本大震災後、小笠原は大船渡高時代に苦楽をともにした同僚・今野さんらと『東北人魂・岩手グラウンドプロジェクト』を立ち上げた。津波で被災した大船渡市旧赤崎小跡地に、昨年12月27日、天候に左右されない人工芝のグラウンドをオープンさせた。「被災地を見ることのない全国の子供たちも招待し、なにかを感じてほしい。地元の活性化につながればと思う」と復興への熱い思いを語った。
★取材後記
多くを語らない不言実行の男。それが小笠原だ。内に秘めた闘志を持ち、ピッチでは体を張ったプレーで仲間を鼓舞する。
口数は少ないが、勝負にこだわるその言葉には力がある。昨年9月のJ1新潟戦。2点を追うハーフタイムの更衣室で「相手の方が勝ちたい気持ちを出しているし、そこからして相手に負けている」と発破をかけた。すると、チームは4-2の逆転勝利を収めた。
万事において妥協を許さない。勝利のためには己にも仲間にも高い要求をする。小笠原の“闘将”たるゆえんがそこにある。 (伸)
小笠原 満男(おがさわら・みつお)
1979(昭和54)年4月5日生まれ、38歳。岩手・盛岡市出身。大船渡高3年時に全国高校選手権で16強に入り、大会優秀選手に選ばれる。98年Jリーグ鹿島に入団。同年4月15日のG大阪戦でリーグ戦初出場。2006年8月に当時セリエAのメッシーナへ移籍。07年鹿島に復帰し、リーグ3連覇などに貢献。09年にはJリーグMVPを獲得した。日本代表としてW杯には02、06年大会に出場。J1昨季19試合3得点、同通算511試合69得点。代表通算55試合7得点。1メートル73、72キロ。
“不屈の闘将”鹿島・小笠原の原点 青春の記憶が岩手・大船渡市に凝縮