日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年2月25日日曜日

◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)


遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(1) 
土居聖真 前編

「ピッチが凍っていて、カッチカチだった。スパイクが刺さらず浮いているような状態。みんな慎重にプレーせざるを得なかった。しかも、前半は守備がハマらなくて、難しい入り方になってしまった。でも、ハーフタイムのロッカールームでみんなが修正しようと、声を出し合っていたのが、すごくよかった」

 2月21日、韓国・水原ワールドカップスタジアム。マイナス2度の気温のなか、AFCアジアチャンピオンズリーグの第2節。水原三星に1-2で勝利した鹿島アントラーズの昌子源がそう試合を振り返る。

 ホームで戦った第1節、対上海申花戦では早々に失点し、その後、猛攻を続けながらも1点しか返せず、ドロースタートだっただけに、アウェーで勝ち点3の意味は小さくない。同時に2試合連続先発の鈴木優磨や、初戦は左、この試合では右と両サイドバックを務めた新加入の安西幸輝、昨シーズンからボランチに定着した三竿健斗など、若手選手が勝利に貢献できたのも大きな収穫となった。

「やっぱり、ゴールを決めないとね」

 柳沢敦コーチは笑顔を見せたが、その一方、羽田憲司コーチは「勝ったからよかったけれど……」と終了間際の失点を悔やんでいる様子だった。現役時代のポジション、今の担当部門によって、表情に微妙な差があった。そして、大岩剛監督は「初勝利だね」と安堵感を漂わせていた。

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 プロサッカーリーグが誕生して25年が経ち、日本代表が5大会連続でワールドカップ出場を重ね、日本サッカー界は新時代を歩き続けている。そんななか、この国で唯一変わらぬスタイルで歴史を綴るチーム、クラブがある。それが鹿島アントラーズだということに異を唱える人はいないだろう。数々のタイトルを重ねて、常勝軍団と胸を張れるキャリアを歩んできた。

 昨季はACL敗退直後に監督が交代。コーチから昇格した大岩監督以下、現体制で再スタートしたが、あと一歩のところでリーグ優勝を逃した。そして、今季は、内田篤人の復帰はあったものの、他は若い選手を補強した。それは、新時代へ向けた構想とも考えられる。捲土重来を賭けたクラブにとって新たな時代のスタートとなるのか? 

 選手、スタッフ、OBなどのインタビューとともに、過去を振り返り、現在を追い、未来を探っていきたいと思う。

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 ホームタウンの人口の少ないクラブにとって、下部組織からの生え抜き選手をトップ昇格させるのは困難だ。ましてやトップチームが強豪であれば、なおさら難しくなる。

 鹿島アントラーズはホームタウン5市の人口が約28万人。高体連出身の選手が多いのもそれが理由のひとつだろう。しかし、プロ化に伴い、学校の部活ではなく、多くのタレントがJクラブでのプレーを選択するようになった。才能の獲得競争のターゲットが若年層へ向かうスピードは、年々加速度を増している。

 昨年日本代表デビューを飾った土居聖真(しょうま)は、鹿島アントラーズジュニアユース、ユースという生え抜き選手だが、実は小学6年生まで山形のOSAフォルトナ山形FCでプレーしていた。中学進学を前に鹿島の一員となった土居は、当時クラブではレアなケースだった。




――どういういきさつで、鹿島のジュニアユースへ加入したのでしょうか?

「小学6年生の秋くらいに、最後の大会として出場したフットサルの全国大会が終わったときに指導者から『アントラーズのセレクションを受ける気があるか?』と聞かれたんです。アントラーズのコーチから声をかけたられたと。すでに、卒業後に行くクラブも決まっていたから、冗談だろうと思っていたら、後日、自宅に電話もかかってきて、『これ、本当の話なのか』って(笑)。

 当時、鹿島はジュビロと2強と言われていた。あまりにも遠い存在過ぎて、そのジュニアユースへ行けるのかというよりも、関東のクラブへ行けば、レベルの高いなかでサッカーができるという気持ちのほうが強かったですね。関東のチームは巧いだけじゃなくて、とにかく強かったので。そのセレクションに合格し、鹿島でサッカーをしたいと覚悟を決めて、母親と一緒に鹿嶋で暮らすことにしました」




――山形を出るという決断に迷いはなかったですか?

「自分でもレベルの高い場所に身を置きたいと思っていたので、山形を出ることに迷いはなかったです」

――新天地でのサッカーはどうでしたか?

「同学年のなかでは巧いほうだったけれど、僕はとにかく身体が小さかったんです。だから、中3の先輩とプレーすると、大人と子どもみたいな感じでした。スピードと技術だけでは、どうしようもない差を感じました。

 しかも、走るのが苦手でスタミナもないのに、毎日毎日走る練習ばっかりだったんです。あとは基礎練習。毎日、学校が終わると自転車で練習場へ向かいながら、『今日はボール使えるかなぁ』と考えていましたね。その練習場もクラブハウスとは違う場所で、環境が整っているわけでもない。

 とにかく、苦しかったというのが中学時代の思い出です。でも、サッカー選手としてどうこうというよりも、規律とか責任感とか、人間として大切なことを教わった3年間でした。それに、いつもビリを走っていた僕が、気づくと真ん中くらいを走れるようになったのは良かったですね、今思うと(笑)」

――ユースに上がると寮生活が始まります。

「僕の高校3年間はちょうど鹿島が3連覇したときだったので、寮で、みんなで応援していました。ゴールが決まると『ウォ~!』って、廊下を走り回ったりして。そして、シーズン前のキャンプの時なんかに、トップの練習にも参加させてもらえたんです。

 マルキーニョスがいて、モトさん(本山雅志)、野沢(拓也)さん、(小笠原)満男さん……スタメン組は本当にすごかった。早くその中でもまれたいといつも思っていました。練習参加といっても、キャンプ中だからフィジカルメニューが中心で、ゲームをやってもいっしょにできる環境ではなかったんです。それでも、プロというものを身近に、現実的に感じられるようになりました」

――わずかな時間でも刺激になりますね。

「宇佐美(貴史/デュッセルドルフ)や小野(裕二/鳥栖)、宮吉(拓実/札幌)、杉本健勇(C大阪)、小林祐希(ヘーレンフェーン)なんかが同期なんですけど、当時、年代別の代表合宿で一緒だった彼らが、トップチームに二種登録されたり、トップで練習していると聞くと焦りましたね。宇佐美は別格だったけど、ほかの選手と自分との差が大きいという感じはなかったから」

――トップチームがどういうレベルにあるのか、そういう部分にもよりますよね。

「それは理解していました。優勝を争う状況で、そう簡単にユースの選手に経験を積ませるというわけにもいかないだろうから。でも、(年代別の)代表に行って、鹿島のユースへ戻るとやっぱりレベルが全然違う。U-17ワールドカップのメンバーが固まるなか、だんだん呼ばれなくなったりして、しょうがないことだとわかっていながらも、このままじゃダメなんじゃないのかと思いました。

 僕は子どもの頃から、いつも上の年齢の人たちと一緒にサッカーをしてきたんです。敵わない相手とやることの楽しさのなかで、成長してきた。ユースでも1年生のときは、3年生とやれば、引っ張られてうまくなれると思えたけど、3年生になったら、自分のチームに追うものがなくなったような気がしました」

――ユースはトップチームのそばで練習もしています。

「はい。だから、本当に近くて遠い存在でしたね。でも、横でプレーしている別次元のトップの選手をいつも見ていました」

――そして、トップ昇格が決まります。

「高3の夏ですね。だからといって、一緒に練習できるわけではなかったんですけど(笑)。僕の代から昇格できた選手は僕しかいなくて、ほとんどの選手は大学へ進学しました。最初はわからなかったんですけど、自分がトップの試合に出るようになって、同期のみんなが自分のことのように喜んでくれているのを知って、仲間の想いを託されているんだなって感じるようになりました。とはいえ、みんななかなか連絡くれないんですけどね(笑)」

(つづく)


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