東京五輪世代の「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく当連載。第8回に登場するのは、昨季広島の瀬戸内高校から鹿島アントラーズに加入した上質のファンタジスタ、安部裕葵。鹿島のスタッフはそんな高卒2年目のFWを「オッサンですよ」と紹介する。
ルーキーイヤーのときから鹿島独特の空気感やプレッシャーの中でもオドオドしそうな様子はまるで見せず、巡ってきたチャンスで瞬く間に常勝軍団の“戦力”としての地位をつかみ取った。「緊張、しないんですよね」と笑って言ってのける19歳の“オッサンぶり”に迫ってみた。(取材日:2018年3月15日)
とにかくボールに触りたかった「ドリブル小僧」
――安部選手というと、西が丘サッカー場で会ったのを思い出します。日本クラブユース選手権(U−18)の決勝。「なんで、ちょっと前にインターハイに出ていた安部選手がここにいるんだ?」と思いました(笑)
ああ、ありましたね。たまたま帰省していたタイミングでした。高校が広島なのでよく間違われますけれど、生まれも育ちも東京です。小学校が一緒で仲の良かった岡崎慎(当時FC東京U−18、現FC東京)が出ていたので行ってみました。彼はすごい。小学校時代は岡崎の「お」と安部の「あ」で出席番号も近かったので、徒競走とかも一緒に走るのですが、めちゃくちゃ速かった。
背の順になるとあいつが一番後ろで、自分は一番前。「前にならえ」とか、したことないです。(岡崎は)背が高くてかっこいいし、モテる(笑)。仲もすごく良くて、だからFC東京の下部組織に入って活躍している彼からは、本当に大きな刺激をもらってきましたね。
――岡崎選手は昔から注目選手だったけれど、安部選手は?
全然ですね。選抜とかも地区のトレセンだけです。それも小5で1個上に混ざって入っていたのに、小6では落ちましたから(笑)。(東京)都のトレセンはもちろん入っていないですし、僕よりうまい選手はいっぱいいましたよ。
――中学は帝京FC(現S.T.FC)だけど、どうして?
親がセレクションを受けなさい、と。ユースとかすごくカッコイイじゃないですか。Jリーグのエンブレムをつけてプレーしていて、それにすごくあこがれていて。でもそんなところに受かるわけもないので、部活も考えたのですが、(東京都には)学区の制限もあって難しかった。でも、逆に東京は街クラブでも強いチームがたくさんあるので、その中でも帝京FCは強いチームだったので、「そこにしよう」と思いました。
――昔はボールを持ったら離さない「ドリブル小僧」だったという話を聞くけれど。
そうでしたかね(笑)。まあ、たくさん怒られていたのは確かです。とにかくボールに触りたいタイプでした。ボールも奪いたかったので、守備でも走って攻撃でも走って、たくさん取られて、たくさん取り返してみたいな。暴れていましたね(笑)。小学校時代はボランチで、中学校でサイドをやったりFWをやったり。高校はトップ下、サイド、FW。そんな感じでした。
瀬戸内高に進学するまでの経緯、寮生活で得たもの
ナチュラルである。プライベートで高校生の選手を見かけても、基本的にあいさつ以上のことはしないようにしているのだが、まれに向こうから迫ってくる選手もいる。当時、安部のことをじっくり取材したのは一度だけ。それほど深い関係性があったわけではないのだが、西が丘サッカー場で安部のほうから話し掛けてきて、「おもしろいヤツだな」とあらためて思った記憶がある。プレーも意外性が売りの選手だが、進路の選択も意外性に富んでいる。選んだ先は、遠く広島の瀬戸内高校だった。
――広島と何か縁があったんですか?
土地としてはないですよ。ただ、中学のクラブチームのスタッフだった人が向こうに行っていたので、それで声をかけてもらえた感じですね。
――しかし、珍しい進路ではあります。
よく言われます。僕の場合は、インターハイ(高校総体)狙いですね。プロになりたかったので。僕が行く前は(瀬戸内は)インターハイに3年連続で出ていたので、すごく魅力的で。3年の時は開催地なので、見事2位抜け(※)で出られました。1位で抜けられれば良かったんですけれど、結果オーライです(笑)。
※編注:高校総体は開催地枠があり、安部が3年の時は広島県から2校が出場できた。
――東京の高校や、ほかの選択肢は考えなかったんですか?
選択肢は何個かありました。でも中学時代はそんなに力のある選手ではなかったので、名門校に行くレベルではなかった。そういうマイナーな……、自分の母校をマイナーというのはどうかと思いますけれど(笑)。
でもそういうところ(名門校)は最初から選択肢になかったですね。当然、東京に残ることも考えました。両親は寮生活には反対だったので、両親の意見を踏まえるならば、東京の高校だったんだと思います。でもだからこそ、「広島に行こう」と。
――親元を離れての生活、どうでした?
寮生活をした身として、周りにいる小さい子だったり家族だったりにも、すごく寮生活を勧めてしまうくらい合っていました(笑)。今、まだ19(歳)ですけれど、高校3年間が一番、得られたものが大きかったと思います。
とにかく僕は親から「だらしない」と言われて育っていて、(兄がいて)下の子ですし、いろいろ心配される身でもあり、何をするにも常に親の声がありました。もちろん、自分の考えもあったんですが、それを実行することはできなくて……。親の判断で何でもやっている感覚がすごく嫌でした。だから高校を選ぶときは、親の考えじゃなくて自分の考えで、自分で判断して、寮生活を選びました。
――親元を離れる効用をよく「自立」と言います。
親は絶対に支えてくれるのですが、自分のことは自分で支えられないとダメだと思います。別に親が悪いことをしているわけではないですけれど、自立しようとすると、親が近くにいることで甘えも出ると思います。ウチは中学校のときから学校に行くのも早くて、サッカー(の練習)で帰ってくるのも遅かったので、家族内のコミュニケーションは少なかったと思います。親が仕事している姿を見て、頑張っているのはすごく分かっていたので、僕もその姿を見て「やらなきゃな」と思っていました。
みんなそれぞれで頑張っている中で、自分が寮生活になったことで寂しさが出るとかはなくて、親も頑張っているし、兄貴も頑張っているから、俺も頑張る、というか。そういう意識を持てたこと自体が良かった。広島にいるから(姿は)見えないですけれど、僕が頑張ったら今はネットがあるので、(掲載されている自分の)記事を見るだけで、「頑張っているんだな」と思ってもらえる、と考えてやっていましたね。遠くても、家族にいい影響を与えられたらと思っていました。
――サッカーの面でも順風ではなかったですよね。
怒られてばかりで、本当に怒られた思い出はたくさんあります(笑)。良いことも悪いことも、何でもハッキリと言ってくださった安藤(正晴)先生やスタッフには感謝しかないです。僕がプロ志望だと知っていたので、余計に厳しくしてもらえたと思います。最初はなかなか試合に出られなかった。
2年生になったときもそうでしたけれど、でも100パーセントの力で練習していましたし、自分のレベルが上がっていることは間違いなく実感していました。サンフレッチェ(広島)ユースが広島県の中では一番レベルが高いので、そういう選手たちと試合をしている中で、そういう選手を僕は「プロ」という目標への“ものさし”にしてやっていました。
届いた待望のオファー、鹿島との不思議な“縁”
瀬戸内高校で徐々に頭角を現した若武者のもとに待望のオファーが届く。実は高校からは、ある条件以外では大学へ行けと勧められていたのだというから、そのオファーは実に不思議な縁だった。
――鹿島入りは即決だったと聞いています。
オファーが来たのは、西が丘で会ったその次の日くらいだったんじゃないかと思います。性格的に先のことはあまり考えないのですが、プロに行けないんじゃないかとかは、そんなに心配もしていなかったですね。ダメだったら勉強しようかなという感じでした(笑)。正直、(鹿島からのオファーは)驚きましたけれど。
――オファーがあるならJ2でも、という感じだった?
いや、高校からは「いきなりプロにいってもつぶれるだけだから、大学に行ってほしい」と(言われていた)。でも、「鹿島からオファーがあるなら、俺は勧めるよ」と安藤先生が言っていて、それがちょうど僕が(高校)3年生になった頭のタイミングでした。
――え、そのときはまったく話がなかったんですよね?
はい。まったくなかったですが、僕も「鹿島がいいです!」と言っていて、そうしたら本当に話が来ました(笑)。椎本(邦一スカウト)さんは、「ちゃんと僕の意見を聞いて決めてくれ」という話をしていたらしいんですけれど、先生からの電話では「本当に鹿島から(オファーが)来たから、もうOKと言っていいよな」みたいな感じでしたね(笑)。だから他のクラブからも声がかかっていたかとか、全然知らないんですよ。
――経歴も珍しいけれど、その流れもちょっとファンタジーですね(笑)。そういう「枠からはみ出る」というところはプレースタイルにも感じます。
何も考えていないですよ。感覚でやっています。やっぱり、自分にボールが入った時には何かしたいというのはありますし。今はすごく考えてやっていますけれど、考えてしまうと分からなくなってしまう部分もありますね。
僕が大切にしているのが、練習でのイメージ。今日も(練習で)5対5をやりましたれど、ああいう中でとっさに、考えずに出てくるものを一番大事にしています。もちろん、試合の流れや時間帯は考えなくてはいけないですけれど、調子の良いときはとっさに全部出てくる。そういう“感覚”は大事にしたいと思います。(大岩)剛さん(鹿島監督)も、僕に対して「お前は自分の感覚を大事にしたほうがいい」と言ってくれるので。
体重増加のため、トレーニング中。目指すはアザール?
――体も太くなったと思うんですが。
だいぶ太くなりましたね。プロに入ったときはビビりましたね。「みんなこんなにデカイんや」って(笑)。俺、ヤバイなと思って、筋トレは継続してやっています。
――体重も増えたでしょう。
はい、めちゃくちゃ増えています。(鹿島に)入って3カ月で5キロ以上増えましたね。身長もまだ少し伸びているみたいで。いま65キロくらいなので、もっと増やしたいと思っています。鹿島に入ったときは59キロでしたから、ガリガリです(笑)。いまは(エデン・)アザール(チェルシー)くらいになりたいと思ってやっています。
――デカいな!(笑)。
いやもう、あのくらいになりたいんです。75キロくらいですよね、確か。身長もそんなに変わらないのに、10キロも違うんですよ(※)。そりゃあ勝てないな、と。負けていられないですね。
※編注:安部は171センチ65キロ、アザールは173センチ76キロ。
――海外サッカーが好きそうですね。
見ますね。
――海外が好きなら、去年セビージャとやれたのはうれしかった?
はい、楽しかったですね。充実していました。あのときこそ、本当に感覚のプレーでした。サポーターの方も、あの試合での僕のプレーが僕の“ものさし”になっているので、正直ちょっとプレッシャーになるかもしれません。でも僕自身も、あれをものさしだと思ってやらなければいけないと思うので、あのようなプレーをたくさんできたらと思います。
「将来はプレミアのピッチでプレーしてみたい」
――2年後の東京五輪、自分のイメージはありますか?
ないです。
――そう言うと思った(笑)。
先のことは本当に何も考えないですね(笑)。
――海外志向が強い選手なのかとは思っていたけれど。
ああ、そうですね。海外志向はとても強いです。プレミアでやりたいですね。だから(体を)デカくしないといけない。ああいうスピード感のあるカウンターの繰り返しのようなサッカーは、僕はすごく得意だと思うので。
――うまいだけじゃなく、走れるもんね。
そうなんですよ。で、クイックネスもある。ああいう、カウンターでやり合うみたいなのが大好きなので。いつか、あの国のピッチでプレーしてみたいですね。
まだ身長が伸びているという事実からも分かるように、成長期が遅く来たために評価を得られなかったタイプだろう。中村俊輔や本田圭佑の例を出すまでもなく、このタイプはまだまだのびしろを残しているはずで、さらなる成長を期待していいはずだ。
経歴的には“雑草”に属するタイプであり、年代別日本代表に初めて入ったのも鹿島入り後のこと。Jリーグでの活動を優先したこともあり、招集されたのもわずかに3回しかない。「五輪」どころか、まだまだ代表チームに対するイメージ自体を持てていない様子だったが、見ている側からすると、日の丸の責任を負う中でどう伸びていくか、楽しみにしたい選手でもある。
今年の秋にはAFC U−19選手権、そして来年はU−20ワールドカップがある。その胸(鍛錬中)に秘める大志と、19歳にしてオッサンの境地に達しているメンタル、そして“走れるファンタジスタ”の個性を思えば、その国際舞台でのブレイクスルーは是非とも果たしてもらいたいし、その可能性は確かに持っている選手である。
安部裕葵(あべ・ひろき)
1999年1月28日生まれ。東京都出身。171センチ65キロ。キレのあるドリブル突破が特長のFW。城北アスカFCからS.T. FOOTBALL CLUBジュニアユースを経て、広島県の瀬戸内高校に進学。2016年9月に鹿島アントラーズへの加入が発表された。
17年4月1日のJ1リーグ第5節の大宮アルディージャ戦でプロ初出場を果たすと、7月22日のワールドチャレンジ・セビージャ戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出される活躍を見せ、一気にその名を上げた。18年シーズンは開幕戦で先発出場を果たしており、これからの活躍が期待される。