日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年5月6日水曜日

◆「オレ、もうダメだ。帰りたい」本番直前に主力から転落 14年間で唯一弱み…担当記者が見ていた10、14年W杯代表・内田篤人(報知)



内田篤人 Atsuto.Uchida


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 ポルトガルの奥地からスイス・ザースフェーへ向かった。列車で向かったのか、空路だったかは記憶にない。今から10年も前の話。2010年南アフリカW杯を控えた日本代表は、スイスで高地トレーニングを行っていた。私は本大会1次リーグで対戦するカメルーン代表の取材を終え、本紙の日本代表取材班に合流。取材初日の風景は今でも克明に回想できる。

 練習を終え、内田篤人が取材エリアに現れた。「出無精」の性格から「さっさとホテルに戻りたい」と23選手の中で先頭か、遅くても3番手までに取材陣の前に立つ。対応するのは取材エリアの最後方。10代から代表に名を連ね、先輩に配慮する気持ちがあったのだろう。定位置で待っていると、いつも私をあだ名で呼ぶ「お、うっちー」の声がかからない。

 無言のまま、前で止まり、柵に両肘を乗せて、消え入りそうな声で言われた。「オレ、もうダメだ。W杯で試合に出られないと思う。帰りたい」。主力からの転落。向けられた瞳が細かく震えていた。しばらく無言が続いた。一回り近く年下の選手に、気の利いた言葉一つかけられず、気休めにもならない「(出場)原稿は準備しているから」と伝えるのが精いっぱいだった。

 出会って14年になる。選手と記者を超えた関係があると思っている。本当にいろいろなことがあった。日本代表のアウェー戦でPK献上。DFでありながら、守備ができないと批判を受けて戦犯扱いされた。「使うのは監督だからさ」と受け流し、度重なるけがに「また、やっちゃったよ」と言って、「自分の弱みは見せたくない」を貫いてきた。この時だけを除いて。

 本大会でピッチに立つことはなく、チームは本田圭佑の活躍でベスト16進出を果たした。内田に残された思いは「あんな経験は二度とするもんじゃない」と「W杯って、どんな景色なんだろう」。大会後、ドイツ・シャルケに移籍して奮闘した。「W杯のためにやっているんじゃないからさ」と言いつつも、W杯の景色を楽しみにしているように感じた。

 2014年6月、ブラジルW杯初戦のコートジボワール戦でピッチに立った。前夜、電話が鳴った。内田からだった。「頑張ってくるよ」の言葉に返した言葉は4年前と同じ「(出場)原稿、準備しているから」。隠しきれなかった痛みと弱み。日本サッカーと同じように、選手も痛みを知って大きくなることを知った、忘れられない出来事だった。(内田 知宏)

 ◆内田篤人とW杯 10年南アフリカW杯のアジア最終予選では右サイドバックの主戦を担ったが、本大会直前に岡田武史監督が守備的な戦術にかじを切ったことで先発落ち。本大会4試合で一度もピッチに立つことはなかった。アルベルト・ザッケローニ監督が就任後、ポジションを再び奪い、アジア予選を通じて不動の地位を築いていった。14年ブラジルW杯直前、右ひざを負傷。手術を受けずに保存治療を選択して本大会に間に合わせ、1次リーグ3試合に先発出場。チームは1分け2敗で1次リーグで敗退したが、内田のプレーは高く評価された。ロシアW杯を目指していたが、右ひざの痛みなどで2年近くピッチを離れ、日本代表からは遠ざかった。

 ◆内田 篤人(うちだ・あつと)1988年3月27日、静岡・函南(かんなみ)町生まれ。32歳。2006年に清水東高から鹿島入り。右サイドバックとして07年からのリーグ3連覇に貢献。08年北京五輪代表。19歳でA代表に初選出され、W杯2度選出。10年7月にドイツ1部シャルケに移籍し、17年7月から同2部ウニオン・ベルリンでプレーした後、18年に鹿島復帰。国際Aマッチ通算74試合2得点。176センチ、67キロ。既婚。

 ◆内田 知宏(うちだ・ともひろ)1978年10月5日、埼玉県生まれ。41歳。2006年入社。大学まで野球一筋も、ほぼサッカー一筋の記者人生。


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