短期連載:「鹿島アントラーズの30年」
特別編:「鹿島アントラーズの2022年シーズン展望」
今年創設30年目を迎えた鹿島アントラーズ。Jリーグの中でも「すべては勝利のために」を哲学に、数々のタイトルを獲得、唯一無二のクラブとして存在感を放っている。
その節目となる年にあたり、クラブの歴史を独自の目で追った単行本『頂はいつも遠くに 鹿島アントラーズの30年』が11月に発売されて1か月余り。著者自身が改めて2021シーズンを振り返るとともに、来シーズンを展望する特別編をお届けする。
既に12月10日には来季指揮を執る監督にスイス人のレネ・ヴァイラー氏の就任も発表され、クラブは新しいシーズンに向けて走り出した。次の30年を見据え、さらなる大きな変化の時期をクラブは迎えようとしている。
2021年シーズンのJリーグが終了し、連日、契約満了や移籍などのニュースが連発している。
鹿島アントラーズでも最終戦終了翌日には相馬直樹監督以下、スタッフがクラブを去ることが発表された。
「相馬監督はよくやってくれた」
12月2日、最終戦を前に行なわれた囲み取材で、鈴木満フットボールダイレクターは何度となくそう語った。
4月、ザーコ監督を解任し、コーチから昇格する形で監督に就任した相馬は、就任後6戦負けなしでスタート。ルヴァンカップ、天皇杯はともに準々決勝で敗退したが、リーグ戦は最後の6試合を5勝1分け、4位でフィニッシュしている。
けれど、クラブ創設30周年でもあった2021年は例通年以上にタイトル獲得への強い意志を固めていたこともあってか、10月27日の天皇杯準々決勝で川崎フロンターレに3-1と粉砕されて無冠が決まった時点で、監督交代が噂されるようにもなった。
鹿島は2015年ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で優勝すると、翌2016年はファーストステージで優勝し、チャンピオンシップを制してリーグ優勝。そして、天皇杯も手にした。
監督交代を行なった2017年は最終節で勝ちきれずに川崎フロンターレにタイトルを譲ってしまう。それでも、2018年にACLを獲り(リーグ戦3位)、悲願だったアジア王者となったが、小笠原満男が引退。2019年はリーグ戦3位、天皇杯準優勝でシーズンを終えた。
その天皇杯決勝を前に、大岩剛監督の退任が発表され、鈴木満は「今までリフォームしながらやってきたけれど、それではもう間に合わない。新築するような編成を組む」と語っている。
スピリット・オブ・ジーコに代表される明確な哲学がある鹿島は、選手同士が切磋琢磨することで、お互いを育てあい国内最多のタイトルを誇る。だからこそ、高校や大学のナンバーワン選手たちが例年加入する憧れのクラブとして、君臨してきた。
優秀な選手たちが、互いを信頼し、鍛え合いながら、鹿島アントラーズのサッカーをピッチ上に描いてきた。こういうシチュエーションで効果的なプレーとはなにか? 勝利から逆算し、なすべきことを実行する。些細とも思える小さなことにこだわるから、練習中の強度や熱量も自然と高くなる。先輩の背中を見ながら、ふるまい(プレー)を学ぶ。鹿島に漂う空気はそうやって熟成され続けてきたのだ。
そういった基本的なスタンスは変わらないものの、試合の主導権を握れていないように見えるチームの改革を志したのが、2020年だった。ブラジル人監督のザーゴを招聘し、新戦力も整えた。しかし、コロナ禍ということもあり、2020年シーズンはチーム練習の機会が限られて、飛躍に必要な時間も短く、結果5位で終了している。タイトルも獲れていない。
「昨シーズン築いた土台がある」とスタートした2021年だったが、開幕戦で1点のリードが守れず、1-3で清水エスパルスに敗れると、その後は7試合で2勝2分3敗と低迷してしまい、ザーゴは解任されたのだ。
「アルトゥール・カイキやディエゴ・ピトゥカといった新外国人の合流が遅れてしまったこと」を鈴木は低迷した理由のひとつに挙げた。1月下旬には加入が発表されていたるが、国の感染防止対策の一環で入国が制限され、彼らが合流したときには、すでにザーゴはいなかった。
鹿島がザーゴに期待したのは、欧州を席捲しているレッドブルグループのメソッドだった。
レッドブルグループのスタイルとは、先日マンチェスターユナイテッドの監督に就任したラルフ・ラングニックがもたらしたものだ。
素早くボールを奪い、素早くゴールに迫る。
4-4-2(4-2-2-2)というシステムを用いるハイプレスの戦術は、ボールの位置に応じて、機能的に圧力をかけていく。そこには緻密さよりも迫力と破壊力が漂い、ポゼッションサッカーに対抗するトレンドとなっていった。
ラングニックはチームを勝たせるだけでなく、選手を育て、指揮官を育てることにも注力している。ブンデスリーグだけでなく、欧州チャンピオンズリーグで戦うドイツ人監督は多く、誰しもがラングニックの影響を受けているとも言いえる。若い指導者を見つけてチャンスを与え育てるのも彼の流儀だった。
レッドブルで学び、レッドブル・ブラジルで指揮を執っていた。ザーゴの名前が鹿島の監督候補のリストに挙がった。
ザーゴは何度も「ポゼッションサッカー」という言葉を口にし、彼が掲げた旗は「ポゼッション」に染められていく。ゲームの主導権を握るはずが、ボールを保持するうちに敗戦してしまう。勝ちきれない......そんな印象が残った。
「ポゼッションではなく、レッドブルのメソッドで主導権を握るサッカーを目指したがうまくいかなかった。チームの技術、クオリティが足りなかった」と鈴木は振り返る。
相馬監督もザーゴ時代のものを継続しながら、自分の色を出そうと試みた。攻守の速い切り替えや守備組織の再構築を図り、1試合平均得点は1.73ゴール。失点は0.8点とザーゴ体制よりも良い結果を手にしている。
2点差以上をつけられての敗戦は、ザーゴ時代の第1節の対清水戦(1-3)と第28節対福岡戦(0-3)の2試合しかない。
逆に1点差での敗戦はシーズンを通して9試合。ここで勝ち点を落としてしまったことが順位に響いたとも考えられる。同時に下位7チームを相手に8勝3分3敗というのも痛かった。
3位ヴィッセル神戸との勝ち点差は4ポイントであることを考えても、10月2日創設30周年マッチでもあったホームでの対横浜FC戦の敗戦や大分戦での2引き分けなど、落とした勝ち点の重さを感じてしまう。
「タイトルを目指しながら、優勝した川崎フロンターレと勝ち点差23ポイントという事実が大きい。下位のチームに勝ちきれないというのは本当の意味で力がない」(鈴木)
1点差で勝利したのは10試合。うちウノゼロ(1-0)は6試合だ。
鹿島らしい戦い方と言われるが、ウノゼロを美学と捉えるのは、相手や試合内容によるところが大きい。格上の相手や猛攻を凌いでということであれば、美しさはあるだろうが、自陣ゴールを固めた相手に攻めあぐねてのウノゼロではどこか消化不良気味でもある。
ただ、昨季は年間勝ち点59ポイント(優勝した川崎は83ポイント)だったことを思えば、今季69ポイント(川崎は92ポイント)と重ねられたのは、この1点差ゲームを勝てたからだろう。
ザーゴ体制時から積極的に起用された若い選手たちを相馬監督もまたピッチへ送り出した。町田浩樹、沖悠哉、関川郁万、上田綺世、荒木遼太郎、常本佳吾と20代前半の選手がチームの軸を形成し、経験を積んでいる。
「現状を変えられるのは僕ら選手。サポーターの想いを体現できるのも僕ら選手」
リーグタイトルの可能性が遠のくなかで、いら立ちを募らせたサポーターについて訊かれた上田綺世はそんなふうに語っている。
「悔しかったのと同時に申し訳なく思った」
10月27日天皇杯準々決勝で川崎に敗れた直後。ゴール裏のサポーターに挨拶した直後に流れた涙の理由を、荒木はそう語っている。
長く鹿島を取材してきたが、加入数年目の若手がこんなにも大きな責任を担っているのかと感じた出来事だ。日本のサッカー選手にとっても、ヨーロッパでプレーすることが身近になり、「ヨーロッパ」という目標を持つ子どもたちも増えた。手軽に欧州のサッカーに触れられるのだから当然だろう。それでもピークと言われる時間も選手寿命も長くなるわけではない。成長のスピードを上げようともがいていくしかない。だから、若い彼らが大人びて見えるのかもしれない。
「個人が成長して、一人で試合を決めたり、一人ひとりがチームを勝たせられるようにならなくちゃいけません。そして、チームとして変わらなくてはいけないと思います。球際や切り替え、声を出すなど、サッカーの初歩的なことを追及していても、タイトルを獲り続けるチームには僕はなれないと僕は思います。僕らを見たとき相手が恐れるようなゲームを支配できるようなそういうサッカーをするチームにならなければ、また同じ悔しい想いをするだけでしょう」
11月27日ホーム最終戦で、キャプテンの三竿健斗は「変えるべきもの」として、胸のうちを静かに語った。
「30周年だから、いち早く監督交代に踏み切った」
そんな声を聞いたことがある。果たしてそうだったのか? もちろんそんな想いもあったのは確かだろう。けれど、アニバーサリー・イヤーでなくとも、勝利のために舵を切る必要はある。たとえ、大きな変革を掲げ、その象徴的な存在として招いた監督であったとしても、だ。
サッカーは常に進化を繰り返している。ポゼッションサッカーが席捲したかと思えば、数年でそれを打ち破る戦術が当然生まれ、覇権を握る。そして今、優れた選手を集めただけでは勝てない時代を迎えてもいる。自身のスタイルを持った監督がチームを作ることが主流となった。選手の移籍が激しいのだから当然だろう。
Jリーグでも同じことが起きている。そして、順位による賞金の違い、豊富な資金力を持ったクラブの登場など、ピッチ外でも大きな変化がある。
「ベース(フィロソフィー)を大事にしながら、マネージメント力で対抗するチームを」と鈴木は語った。
変革しなければならない。
これを危機感とするならば、鹿島アントラーズというクラブは、創設以降30年間ずっと危機感と共存してきたクラブだと思っている。奇跡のJリーグ入りから始まったのだから当然だろう。
「優勝するぞ」
1993年開幕を控えたJリーグでのタイトル獲得を口にしたのはジーコだった。誰もが耳を疑ったという。それでもファーストステージで優勝できた。
「大きすぎる目標を持ったほうがいい」と鈴木はこのとき感じたと話す。
鹿島アントラーズの30年を描いた拙著のタイトル、「頂はいつも遠くに」の由来はここにある。現状から見た頂の遠さではなく、彼らは常に遠くにある頂を見ているということだ。そして、頂に近づけば、また次の頂が見えてくる......。そんな30年の歩みだった。そしてこれはこの先もずっと続いていく。
◆「本当の意味で力がない」鹿島アントラーズの厳しい現状。三竿健斗主将が語った「変わらなくてはいけない」こととは?(Sportiva)