日刊鹿島アントラーズニュース

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2016年12月23日金曜日

◆鹿島・小笠原に感じた『使命』ある人の強さ(サンスポ)


http://www.sanspo.com/soccer/news/20161223/jle16122308000006-n1.html

レアル・マドリードのバスケス(右)と競り合う小笠原。37歳になっても輝きは変わらない(AP)

 26・8%-。Jリーグの鹿島アントラーズが欧州王者のレアル・マドリード(スペイン)に挑んだ「FIFAクラブワールドカップジャパン2016」決勝の中継平均視聴率が、驚異的な数字を記録した。瞬間最高視聴率はなんと36・8%。興味本位でテレビをつけた視聴者も展開を追うごとに目が離せなくなるような熱い戦いだった。

 うれしかったのは、奮闘するMF小笠原満男の姿だ。1979年生まれ、いわゆるサッカー界の『黄金世代』。小野、稲本、高原…。綺羅星の顔ぶれのなか、寡黙で職人かたぎの小笠原が最後まで第一線で走り続けている。37歳にしてキャプテンマークを巻き、世界の舞台に立つ姿はいぶし銀の輝きだった。

 年が明ければ「あれから6年」になる。東日本大震災が起きた2011年に鹿島担当として見た小笠原の姿は、最も印象的なもののひとつだ。人が『使命』を悟り、殻を破っていく瞬間を目の当たりにしている-。取材しながら、そんな感覚を覚えた。

 震災発生直後、小笠原は寝食を忘れ故郷・岩手を、東北を、茨城の被災地を支援しようと自らハンドルを握り物資を積み飛び回っていた。目立つのが嫌いな男が先頭に立ち、サッカー界に、行政に熱っぽく働きかけ支援の輪を広げていった。寡黙な男が秘めていた情熱と真っすぐな思いに圧倒された。

2011年5月には盛岡市で炊き出しを手伝った。小笠原はその後も支援活動を続けている

 「熱」は今も変わらない。小笠原が発起人となった復興支援団体「東北人魂を持つJ選手の会」の支援で2013年、岩手・大船渡市に子供たちの遊び場としてグラウンドが完成。将来的に人工芝化や被災地でのサッカー大会開催も見据え活動し続ける。来年1月には宮城・松島でサッカー教室を開催予定。復旧期から再生期へ時は流れても、故郷への恩返しとしてずっと続けていくつもりなのだという。

 「死ぬまで現役でいたいと思うようになった」。震災直後、小笠原は自らの価値観の変化をそう話していた。自分のためだけではない。発信者の存在が大きいほど、復興のために必要なことをより広く、多くの人に伝えられるからだ。

 延長の末、敗れたレアルとの試合後、『背番号40』に善戦の充足感はなかった。「勝つことしか考えてなかったので悔しい。来年アジア王者としてこの舞台に戻って、必ず勝ちたい」と話した。持ち前の粘り強い東北人魂で、最強軍団への雪辱もいつかかなえられそうな気がする。静かな炎は燃え続ける。その軸に『使命』のある人は本当に強いのだと、小笠原の姿を見るたび感じる。

佐藤 春佳(さとう・はるか)
 サッカー、アマチュアスポーツ担当として2004年アテネ五輪、10年バンクーバー冬季五輪を取材。プロ野球では05-07年に巨人を担当し、13-15年はヤクルト担当キャップ。習い事マニアだがバイオリン、ボクシング、短歌、アーチェリーなど軒並み挫折。趣味は宝塚観劇。

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