日刊鹿島アントラーズニュース

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2021年5月16日日曜日

◆鹿島の再建を託された相馬直樹という男。「常勝」のマインドを受け継ぐ智将の根源を探る(THE DIGEST)






 シーズン途中に解任されたザーゴ前監督のあとを受け、チーム再建に取り組む鹿島アントラーズの相馬直樹新監督の手腕に注目が集まっている。

 指揮を執るようになってから公式戦8試合を終えた時点で、5勝3分け負けなし。「アグレッシブに戦うこと。チャレンジすること。そして、持てる力を出しきること」を選手たちに求め、開幕当初の停滞ムードを一掃した。

 5月12日、前倒しとなったJリーグ第21節の名古屋戦では、アウェーゲームにもかかわらず、相手に1本もシュートを打たせず、2-0の完勝。次から次へとボールホルダーに襲い掛かる強度の高い守備と、変化に富んだ攻撃で圧倒した。

 クラブOBであり、常勝・鹿島のマインドを受け継ぐ相馬監督は現役時代、右利きの左サイドバックとして名をはせた人物だ。

「走ってナンボ、使われてナンボ」

 左SBである自身のモットーを尋ねたとき、こういう答えが返ってきたが、理論派で鳴らす相馬ならではの気の利いたポジション取りは秀逸だった。刻一刻と変わっていく状況に応じて、きめ細かく自分の立ち位置を修正する。それによって守備においても攻撃においても先手を取っていた。

「いてほしいところに、いつもいてくれる」

 同時にピッチに立つチームメイトからこうした声がよく聞かれたが、これほどのほめ言葉はないだろう。かゆいところに手が届く。献身的で、誠実なパフォーマンスは相馬の真骨頂でもあった。

 子どもの頃は真ん中でプレーするのが好きだった。周りを生かし、自分も生きるようなディフェンシブハーフ(今でいうボランチもしくはアンカー)になりたいと思っていた。

 ところが、高校1年生の時に左SBを任されて以降、いつしかそこが主戦場になった。

 大きなきっかけは静岡県のインターハイ予選だったそうだ。対戦相手の強烈な右ウイングを抑えるために“限定起用”されたことがその後のサッカー人生を大きく変えていく。

 高校サッカー界の名門のひとつ、清水東が相馬の母校だが、当時から“キヨショウ”こと清水商(現・清水桜が丘)や東海大一(現・東海大府翔洋)、静岡学園など強豪としのぎを削り合っていた。

「サッカー王国の静岡を制するものは全国を制す」と言われ、県内の高い競争力は全国レベル。厳しい環境のなかで、研鑽を積んだ。当時をこう回想する。

「僕らの高校時代は4-3-3システムで戦うチームがほとんどだったので、左SBなら相手の右ウイング、右SBなら相手チームの左ウイングというように、マークすべき選手がハッキリしていました。サイドでの1対1で、どれだけ優位に立てるか。そこがポイントのひとつでもあったわけです」

 インターハイ予選で難敵の清水商とぶつかったとき、守備力を買われていた高校1年生の相馬は左SBで起用された。

「“キヨショウ”の右ウイングは、僕のひとつ上の(三浦)文丈さんでした。世代別の代表チームで活躍していたと思いますけど、そこを何とか抑えたいというプランからその役割が自分に与えられました。結構、うまく対応できたこともあって、その後も“キヨショウ”と当たるたびに、監督から左SBをやってくれ、と。ディフェンシブハーフでプレーさせてもらう試合もありましたけど、気づけば(左SBに)定着していましたね(笑)」

 清水東を卒業後、早稲田大に進み、さらに1994年から鹿島に活躍の舞台を移し、プロ選手としてのキャリアを積んでいく。在籍中に大怪我を負い、長期離脱を余儀なくなされるなど、苦しいシーズンもあったが、トータル8回の優勝を経験。サイドアタックを基調とする鹿島の攻撃スタイルを左から支えた。

 日本サッカー界にとって初のワールドカップとなった1998年のフランス大会の代表メンバーに選ばれ、グループリーグ全3試合にスタメン出場。記念すべき日本の初ゴールは左アウトサイドの相馬のインスイングクロスから生まれている。

 長年、左SBとしてプレーしてきた自身の立ち位置は監督である今、タッチラインの外になった。現役時代と見える風景にずいぶん違いがあるだろうが、さまざまな“気づき”を選手たちに伝えていることだろう。

 相馬新監督に率いられた鹿島が開幕からの出遅れたぶんを取り戻し、どこまで巻き返していけるか。今季の大きな関心事になっている。

文●小室功(オフィス・プリマベーラ)




◆鹿島の再建を託された相馬直樹という男。「常勝」のマインドを受け継ぐ智将の根源を探る(THE DIGEST)





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