日刊鹿島アントラーズニュース

Ads by Google

2024年7月17日水曜日

◆「妻も幅広く…」新婚・町田浩樹26歳が語る“起業と日本代表DF”の二刀流「英語の契約書チェック」「最近は“マチなら大丈夫だろう”と」(Number)






「アジアカップのときは『コイツをこの場面で使うのは怖いな』と考えられていたのだと思います。でも、最近は『マチなら大丈夫だろう』と森保監督やコーチのみなさんが思い始めてくれているのではないかとも感じていて。」

全文はこちらから
◆「妻も幅広く…」新婚・町田浩樹26歳が語る“起業と日本代表DF”の二刀流「英語の契約書チェック」「最近は“マチなら大丈夫だろう”と」(Number)






 日本代表DF町田浩樹インタビューの第2回。自身のSNSで結婚発表した翌日の6月13日、知られざるオフザピッチの素顔に迫った。〈全3回の第2回/第1回第3回も配信中〉


 6月12日、26歳の町田浩樹はインスタグラムで結婚を発表した。

 そこに添えられていたのが、現在住むベルギーにある世界遺産グランプラスの前で撮った、純白のウエディングドレスを着た妻との写真だった。

「あそこに人がいない時間は早朝しかないので。あれを撮ったオフの日は朝の3時起きでしたね」



 早朝3時に起きてヘアメイクをしてもらい、5時に撮影は始まった。「世界で最も豪華な広場」と称される広場で、2人きりで撮った写真はきっと一生の記念になる。


妻も事業を…すごく理解してくれるんです


 鹿島時代の先輩である西大伍のYouTubeで〈僕はベルギーにいたので、1年間LINEと電話だけで〉とハートを射止めるまでの経緯を明かしているが……。

「妻も、幅広く事業をやっていたりするので。自分の活動にもすごく理解をしてくれるんです」

 これまでにプレーしたチームのカラーを中心に作られた花束を受け取った町田は、パートナーへの思いをそう明かした。

 ヨーロッパのカレンダーに合わせて、7月に始まり、6月に終わった2023-24シーズンを漢字一文字で振り返ると、こうなる。

「『充実』の『実』ですかね」

 種をまき、芽を出して、花が咲き、実がなった。そして今度は、その実が種となって次のサイクルを始める。そんな循環を想定しているからこそ『実』を選んだ。心から『充たされた』と感じるのはまだ先でいい。

 なぜ、そう考えるのか。

「ベンチャー投資もしたし、会社も設立しました。何より、日本代表にデビューして、アジアカップにも参加した1年でしたから」

 サッカー選手としての学びは後ほど詳しく触れるが、町田は、ピッチを離れたところでも2つの新しい取り組みをスタートさせた。

 1つ目が、ベンチャー投資だ。

 投資先となったのはスタートアップ企業のMurasakiだ。ブロックチェーンゲームを開発する会社で、GameFiを扱っている。GameFiとは、あるゲームをプレーすることで、NFTや仮想通貨を得られる。スポーツベッティングの新しい形とも言える。

 GameFiとして代表的なのがファンタジースポーツのゲームだろうか。スポーツ界に実在するアスリートをゲーム上で集めてチームを作る。それは仮想のチームであるが、登場する実在する選手たちの現実世界での成績やパフォーマンスがリアルタイムに連動して反映されるのがポイントだ。


なぜ町田は投資をしようと決断したのか


 Murasakiの代表取締役の一人である村田晋之佑は、ベルギーのシント・トロイデンで、かつてCOO(最高執行責任者)として働いていた経験がある。

 村田と知り合ってから投資を決めたのには、明確な理由があった。

「日本と海外のスポーツ界とを比較して、日本が追いついていない分野がありますよね。そういうところで何か手助けできればなということでジョインしたんです。スポーツベッティングについては色々な意見はありますけど、近年はカナダでも合法化され、G7ではスポーツベッティングを合法化していない国は日本だけらしいんですよね。

 そういう規制によって……たとえばホリエモン(堀江貴文)などもよく主張されていますけど、『富の海外への流失』が起きてしまっていますよね。それはやはり、もったいないじゃないですか? 僕が投資することで、注目も集まれば良いなと思ったんです」


契約書を一つひとつ英語でチェックしていった


 スポーツベッティングはもはや、サッカー界と切っても切れない関係にある。ベルギーのジュピラーリーグでもおよそ半分のチームで、スポーツベッティングの会社がユニフォームの胸スポンサーを務めている。先日、日本代表の鎌田大地が移籍したことで注目を集めるイングランドのクリスタルパレスの胸スポンサーも、ベッティングの会社だ。そうした状況を知ることで、町田は投資する意味を感じていった。

 ただ、投資を決めてから思わぬ苦労があった。契約書は全て英語だ。契約の際には弁護士に間に入ってもらうとはいえ、契約書を一つひとつ英語でチェックしていった。

「さすがに大変でした」と振り返るが、それでも最後まで頑張ろうと思えたのには理由がある。

「日本を出て海外で暮らすことで、日本の良さがわかりますけど、逆に、日本に物足りなさを感じる部分も出てくるじゃないですか。今回のことはそれを感じたからなんですよ」


サッカー少年少女のために…起業もした


 そんな町田がこの1年でスタートさせたもう1つの取り組みが、未来のサッカー少年少女たちの支援をするプロジェクトだ。この活動を始めるために、自身の会社も立ち上げた。

 まず、アンバサダーという形で関わることにしたのが「UNLIMITED GOALS 2024」というプロジェクトである。

 これは12月にバルセロナで行なわれる国際大会に、山梨県の小学5年生を無償で派遣するプロジェクトである。彼らが参加するのは一部では「小学生年代のチャンピオンズリーグ」とも言われる「TICTAC CUP」だ。U11やU10の子どもたちが参加する大会で、EURO準決勝で衝撃ゴールを決め、中学を卒業したばかりのヤマルや、カタールW杯メンバーのガビもかつて参加した。

 鹿島アントラーズユースの先輩から誘われ、町田が参画を決めたのには理由がある。

「僕は、小学6年生のときにオランダで行なわれるサッカー大会に出てチェルシーやアヤックスの下部組織のチームと対戦して、1-8で負けた経験もあります。中学生のときにはブラジルで『ジーコカップ』という大会に参加しましたし、高校ではスペインへ行き、バルセロナB(バルセロナのセカンドチーム)と試合をしたことがありました。

 ただ、それは鹿島のバックアップがあったから経験できたわけで、僕は恵まれていた方だと思うんです。だから今度は、Jリーグの下部組織に入れていないような子たちに似たような経験をさせてあげたいんですよね。僕もそういう経験を通して、身体の大きさや脚の長さ、技術レベルの違いを本当に、身に染みて痛感しましたから」


無償派遣にディテールまで…お飾りの参加ではない

 ポイントとなるのは、「無償派遣」だ。

「海外留学や海外の大会に参加しようとすると、普通に考えて、親御さんにかなりの負担がかかりますよね。だから、子どもの実力というより、家庭環境に左右されることになってしまう。才能があったとしても経済的な理由で参加できない子がいたら、やはり、もったいないじゃないですか。だから、スポンサーの方々にも協賛していただいて、こういう活動になりました」

 大会に派遣されるのは、山梨県内のチームに所属する10人程度の子たち。選手のセレクションは8月末から9月2週目までに始める予定になっている。そして、協賛スポンサーの「星野リゾート リゾナーレ八ヶ岳」の施設を借りて10月に最初の合宿を行ない、そこから月に1、2回集まって練習をした後、12月中旬にバルセロナで行なわれる大会に参加する予定だという。

 ただ、町田は単なるお飾りとして参加するわけではない。サッカー選手としての立場からディテールにもこだわった。

「山梨県で活動する1つのサッカーチームをそのまま派遣するほうが、ひょっとしたら手間がかからないかもしれません。でも、プロサッカーの世界では、パッと集まったときに、自分の能力を発揮したり、周りの良さを引き出すことが求められますよね。代表チームの活動などはまさにそうですし。だから、このような形にさせてもらったんです」

 まずは山梨県でスタートさせるものの、将来的には町田の故郷である茨城県をはじめとして、この取り組みを全国に広げていこうとしている。夢はふくらむばかりだ――。


アジア杯で味わった「歯がゆさ」


 ただ、町田がそうやって様々な取り組みに身を投じることができるのも、本業であるプロサッカー選手としての活動で結果を残しているからに他ならない。

 この1年を振り返ると、9月に日本代表デビューを果たし、今ではDFの定位置をめぐってチームメイトと日本史上最高レベルのレギュラー争いを繰り広げるまでになった。

 しかし、今年のアジアカップでは、最終戦となった準々決勝のイラン戦で、最後までピッチに立つ機会を得られなかった。

 練習からそれなりの手応えもあったし、その前の2試合では安定したパフォーマンスを披露していた。クラブレベルでも、アジアカップのおよそ1年前に行なわれたELのレバークーゼン戦では、イランのエースストライカーであるアズムンが途中出場してきたが、しっかり対応できた感覚があった。「アズムンとはいつかアジアで戦うことになるはずだ」と意識しながらプレーしていた。

 あれから時間が経った今、町田はこう振り返る。

「感じたのは悔しさというより、歯がゆさというか。ピッチに立たないと何もできないので。ただ、あの状況で、自分をピッチに立たせるという選択肢が監督の頭になかったということですから。自分は、まだまだ、だったなと……。信頼が足りなかったということですよ」

 ピッチに立った者には悔しさが残った。それとともに、1分もピッチに立てない者として、直接チームの役に立てない無力さや歯がゆさを覚えた。


森保監督やコーチが「マチなら大丈夫だろう」と


 苦い経験をさらなる成長のためのモチベーションに変えているわけだが、あの大会以降は変化も感じている。

「アジアカップのときは『コイツをこの場面で使うのは怖いな』と考えられていたのだと思います。でも、最近は『マチなら大丈夫だろう』と森保監督やコーチのみなさんが思い始めてくれているのではないかとも感じていて。何か明確なキッカケがあったわけではないですけど、雰囲気などから感じ取れるものがあるというか。

 なんだろうな……。練習での序列とかもあるかもしれないですね。今まではずっとサブ組にしかいなかったのに、たまに、スタメン組に入るとか。そういう変化はあるかもしれないです」

 この1年で、代表デビューを果たし、そこから出場試合数も10まで伸ばした。プレーの精度も上がったし、最先端のサッカーについて学んだ。この1年で、周囲にそう思わせるだけのものは積み上げてきたという自負がある。

 そして、日本にいたときに置き忘れてきたものも……。

つづく



Ads by Google

日刊鹿島

過去の記事