http://www.sanspo.com/soccer/news/20140528/jpn14052812100019-n1.html
指宿合宿でのハードトレーニングが響いたのか、27日にキプロス戦に挑んだ日本代表は立ち上がりから非常に重く、連動性を欠いた。パス回しは各駅停車になり、効果的な攻めを思うように見せられない。右FWで先発出場した岡崎慎司(マインツ)が「今日は攻めに時間をかけすぎていた部分があった。チームとしても迫力がなかったと思います」と反省の弁を口にした通り、ザッケローニ監督のいうインテンシティー(回転数、強度)を見せることができていたのは、前半の11人では長友佑都(インテルミラノ)くらいといっても過言ではなかった。
2月9日のハノーバー戦で右太もも裏を負傷した内田篤人(シャルケ)も、3カ月半ぶりの公式戦復帰を果たしたが、序盤は慎重にプレーしている印象が強かった。再発の可能性を危惧していたのか、普段より球際も間合いを空けたり、攻撃参加を自重するなど、コンスタントに試合に出ているときに比べると一つひとつの動きがやや物足りなかった。「今日は何となく45分間だろうと思った」と本人も話した通り、この日はピッチに立てる時間も限られていた。前半のうちに明確な仕事をしなければ、自信を持ってブラジル本番へ突き進んでいけないという危機感もどこかにあったはずだ。
そんな内田に絶好のアピールの機会が巡ってきたのが、前半43分だった。中央前目の位置に上がっていた山口蛍(C大阪)が岡崎へタテパスを送り、岡崎がダイレクトではたくと、香川真司(マンU)が反転してシュートへ持ち込もうとした。これがブロックされた瞬間、内田はこぼれ球が来ると確信し、前線に走り込んで負傷した右足でゴール。2008年6月のバーレーン戦(埼玉)以来、6年ぶりの代表2点目をマークした。
「自分はちょっと高い位置に行き過ぎたかなと。でも何回もあそこにこぼれるのを見ていたんで(狙ってました)」と彼自身にとってしてやったりの一撃。ようやく復活を遂げることができたという実感を、内田は持てたのではないだろうか。
とはいえ、ここまでの道のりは紆余曲折の連続だった。同じく負傷で離脱した欧州組の長谷部誠(ニュルンベルク)、大津祐樹(VVVフェンロ)とともにJISS(国立スポーツ科学センター)に通うリハビリ生活はとにかく過酷だった。その内田をブラジルワールドカップの舞台に立たせるために、本当に多くの人々が奔走した。治療をしてくれたドクターや日本代表のトレーナーはもちろんのこと、JISSで負傷からの復帰を目指す他競技の仲間たちにも励まされた。
「自分たちは恵まれてると思いましたね。お金の面もそうですし、こうやって注目してもらってるのに、まだまだ頑張り足りない。他のマイナーなスポーツの選手は注目がない中で自分よりも大きなケガをしてるのに頑張って毎日リハビリしていた。その姿を見て、心打たれる部分は沢山ありました。そういう人たちのために勝ちたいと心底、思いました。4年前よりその責任感を感じてます」と内田は指宿合宿前の欧州組自主トレの場でこうしみじみと語っていたほどだ。
キプロス戦の決勝点となったこのゴールは支えてくれた多くの人への恩返しの一端にはなったはずだ。が、内田はさらに自分のパフォーマンスの質や量を上げていく必要がある。1年前のコンフェデレーションズカップ・ブラジル戦(ブラジリア)でネイマール(バルセロナ)と堂々とマッチアップした頃に匹敵する動きを見せるためには、相手に体をぶつけてボールを奪い取れるようなタフさと逞しさ、粘り強さが求められる。現時点のレベルではその領域には達していないだけに、6月14日の初戦・コートジボワール戦(レシフェ)までにさらなるパワーアップを図ることが肝要だ。
6月2日のコスタリカ戦、6日のザンビア戦で出場時間を徐々に伸ばし、勝負の本番をベストコンディションで迎えられれば、日本代表にとっても鬼に金棒。そのためにも、残されたアメリカ・タンパ合宿、そしてブラジル・イトゥでの直前準備を大事にしてほしいものだ。(Goal.com)
文/元川悦子
1967年長野県松本市生まれ。94年からサッカー取材に携わる。Jリーグ、日本代表、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は練習にせっせと通い、アウェー戦も全て現地取材している。近著に「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由」(カンゼン刊)がある。