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中田浩二(なかた・こうじ)
1979年滋賀県出身。小学校時代にサッカーをはじめ、帝京高校の3年時には全国高校サッカー選手権で準優勝。1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに加入し、数多くのタイトルを獲得。その後、オリンピック・マルセイユ(フランス)、FCバーゼル(スイス)を経て、2008年7月に鹿島復帰。2014年シーズンをもって現役引退。日本代表では、国際Aマッチ57試合に出場し2得点。ワールドカップは2002年日韓大会、2006年ドイツ大会に出場。引退後は、鹿島アントラーズのCRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)に就任するとともに、解説者として『やべっちFC』などに出演。
9月1日からスタートしたサッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」。第1戦でまさかの敗北を喫した日本代表は6日(水)にアウェイでタイとの一戦に臨む(テレビ朝日系列で地上波生中継)。厳しい戦いが予想されるが、元日本代表で、現在は鹿島アントラーズCRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務めている中田浩二さんは「高い壁にこそ挑む価値がある」とエールをおくる。
高校入学と同時に、いきなり試練が訪れた。
1993年10月28日、いわゆる「ドーハの悲劇」が起きた日。中田さんは鳥取県でサッカーに打ち込む中学2年生だった。日本代表があと一歩で夢に届かなかった現実を、多感な時期に目の当たりにしたことで感じたことも多かったのでは…と思いきや、なんと見ていなかったと明かす。正確にいうと、地上波の中継がテレビ東京系列、NHKはBSでの放送だったため、視聴する環境になくて見ることができなかったのだ。
「鳥取にいた時は、日本代表はすごく遠い存在でした。確か僕が中学2年の時にJリーグがスタートしたんですけど、そのころは自分が将来プレーするイメージなんてまったくなかったんですよ。華やかな世界だなとは認識していましたけど、自分が足を踏み入れることはないだろう、と思っていましたね」
小学生からサッカーを始めて、中学生まではFW(フォワード)としてプレー。鳥取で指折りの点取り屋だった中田さんは、名門の帝京高校に進学する。まだネットがない時代、情報を得るのはテレビや雑誌がメイン。良くも悪くも“何も知らない強み”を胸に上京してきたが、全国から集められたチームメイトたちの実力を思い知り、さっそく苦みを味わうことになる。
「鳥取県の中学生の中では足も速かったですし、技術もそれなりにあった…と思っていたんです。言ってみれば、“お山の大将”だったんですけど、僕自身は帝京でもやれる自信があった。それが実際に行ってみると…推薦で入ってくる選手が20〜30人いて、しかも、ほとんどがFWなんですよ。みんな体も大きいし、足が速くてボール扱いも巧い。その連中と紅白戦をやらなくちゃいけない。さて、どうしようかと。真っ向勝負をしても埋もれるだけだと思いましたし、何が何でもFWをやりたいというこだわりもなかったので、『俺、中盤でいいよ』って折れたんです。その方が試合に出られるし。FWにこだわって20~30分で交代というよりも、競合の少ないポジションでフルで出た方がいいやって(笑)」
だが、その時から自分の強み=ストロングポイントは何だろうと模索する日々が始まった。足が図抜けて速いわけでも、卓越したテクニックがあるわけでもない。だから、とにかく努力を惜しまない。その姿勢が評価されたのか、最上級生時にはキャプテンに任命されている。
「自分の実力をわかっていたから、チームメイトたちへの敬意や感謝が常にありましたし…その気持ちが自然と態度に表れていたんでしょうね。でも、とにかく必死でしたよ。地方から出てきているので、諦めて帰るわけにもいかなかったですし。親にも迷惑を掛けているし、友達には大見得を切って上京してきたわけですから、そこで何とかしなくちゃなって、いろいろと考えながらやっていました。今思うと、そんなふうに自分の状況を客観的に見つめて受け入れられたことが良かったのかなって。思春期って特に、こだわりが強かったりするじゃないですか。でも、僕にはそういうのがなかった。ポジションはどこでもいい。とにかく試合に出ることが大事で、出場したら頑張るというスタンスだったんです」
まずはチャレンジ。先のことは後から考えればいい。
結果、中田キャプテン率いる帝京高校サッカー部は、第76回全国高校サッカー選手権大会で決勝に進出。九州の雄・東福岡に惜しくも敗れたものの、中田さんの献身的なプレーと存在感は多くのサッカーファンの目に留まった。そして、高校卒業と同時に強豪・鹿島アントラーズに加入する。
「実は当初、大学へ進学しようと思っていたんですよ。大学で4年間サッカーをして、プロになれたらいいなって。そもそも、帝京に入学する時、大学に進学することを親と約束してきて家を出てきたんです。でも、鹿島から声を掛けてもらって…進路に悩みました。(帝京高校サッカー部顧問だった)古沼(貞雄)先生にも『お前は普通の選手だから』と言われていたんです。プロになった選手を何十人も見てきて、礒貝(洋光)さんのように天才と称された人を教えた古沼先生からすると、僕のように特徴のない選手が心配だったんでしょうね。ただ、それでもチャレンジしてみたいという気持ちがあった。元々、チャレンジするのが好きなんです。中学から高校へ行く時もそうでしたし、高校からプロに入る時もそう。とにかく3年間プロとしてチャレンジしてみて、ダメだったらその先を考えればいいかなと。別に甘く見ていたわけじゃないんですけど、やるからにはレベルの高いところでサッカーがしたかったんです」
同期はともに鹿島の第二次黄金期を築き、今も重鎮としてチームを支える小笠原満男、曽ヶ端準、本山雅志(現在はギラヴァンツ北九州所属)ら“ゴールデンエイジ”の面々だった。早くもJリーグで頭角を現した中田さんは、20歳以下のワールドカップ(いわゆるワールドユース選手権)の日本代表として、アジア予選に臨む。だが、またも挫折が待っていた。
「正直、僕たちの世代はいい選手が揃っていて、強かったじゃないですか。僕もユース代表には選ばれたけど、アジアユースの予選では1試合も出られなかった。そういう意味では悔しさが残る大会ではありました。ただ、見方によってはエリートだって言われるんですよ。帝京から鹿島へ行って、ナイジェリアで行われたワールドユースで準優勝して、シドニー五輪でベスト8にも入って。でも、試合にはあまり出ていなかったりもするので、その結果を受け止めながら、自分が何をやらなきゃいけないのかを考えながら、努力を重ねていったという感じですね」
ここで、高校時代に身につけた「こだわりのなさ」が、いい方向に作用する。試合に出られればポジションはどこでもいい、というスタンスが重宝されるようになっていくのだ。
「アジアユースを勝ち上がってワールドユースに行く時、監督が(フィリップ・)トルシエに替わりディフェンスにコンバートされたんですけど、別に抵抗なくできて。強いていえば、そこがストロングポイントなんでしょうね。自分の現状を知って、そのうえでプレーするという。当時はそんなふうに客観的に分析していたわけじゃないですけど、これといった武器がないなかで生き延びていくにはどうすればいいのかを模索していった結果、自分の居場所を見つけられたのかなって」
どんなポジションでもやる、という姿勢は、やがて「ユーティリティー」や「ポリバレント」というフレーズで語られるようになる。逆転的な発想が、中田さんを唯一無二の選手に押し上げていった。
(後編に続く)