「巻き戻しできるなら巻き戻したいけど、できないものは仕方ない。結果をしっかりと受け止める。失点に絡んだことがないセンターバックはいないと思うし、痛い思いをして強くなっていく」
6月7日、東京スタジアム。日本代表の一員として3つ目のキャップを刻んだ昌子源は、自らの「マークミス」と言い切った失点と向き合いながら、しかし前を見据えていた。「次も俺で行く保証なんてない」と先発落ちの可能性に自ら言及するほどのミスだったと認めつつ、「周りから何を言われようが、引きずったら負け」と続けた。
「最後の局面は(センターバックの)僕と(吉田)麻也くんのところでやられるわけで、“そこがしっかりやらないと”という思いもある。そういうポジションでやっている自覚もありますからね」
現実から目を逸らさないこと、そして責任を一身に背負うこと――。プロフットボーラーとして7年目、日本を代表するセンターバックとして日々進化を続ける背番号3の言葉に、成長の跡が刻まれていた。
国内最多タイトルホルダーの鹿島アントラーズで、今や不動のチームリーダーとして君臨する昌子。輝きを放ち始めたのは加入4年目の2014年だった。開幕スタメンの座を射止めると、順調に出場数を重ね、同年4月にはついにアルベルト・ザッケローニ監督(当時)から声が掛かった。初めての日本代表合宿。候補メンバーではあったが、「周りの見る目が一気に変わった。厳しい言葉も浴びるようになりましたね」と変化の実感を明かしていた。ただ、主力選手としての自覚も芽生えつつあったが、まだまだ駆け出しの若手。失点の恐怖と結果への責任を、こんな言葉で表現していた。
「センターバックは大変なポジションで……。正直な話、自分が関わっていない失点でも、結局は僕らのせいというか、批判されてしまうので。正直、難しいところはありますし、嫌なポジションではあるんですけどね」
「センターバックは10本中9本止めても、1本決められたらダメ。逆にFWは1本でも決めればヒーロー。FWってええな」と冗談めかして笑うこともあった。米子北高校入学後にFWからセンターバックへと主戦場を変えた若武者は、最終ラインを預かる責任を真の意味では消化できていなかったのかもしれない。
「自分が失点に絡んでしまうと、その晩の気持ちは重くて……。チームが勝っても、自分のミスで失点すると落ち込みます。でもまあ、センターバックはそういうポジションなので、いちいち気にしていたら持たなくなりそうなので……」
21歳の若さで、鹿島のセンターバックを務める。順風満帆に見える道のりだが、昌子はもがき苦しんでいた。対人の強さ、俊足を活かしたカバーリングと卓越した統率力――。万能DFとして日々存在感を高めていったものの、「出始めの頃、ボロカスに言われていたからね」と今になって回想する通り、期待の高さゆえに厳しい言葉を浴びることも少なくなかった。失意の敗戦、自らに降り注がれる罵声。分け隔てなく誰とでも接するフランクな性格で、勝敗を問わず気丈に取材対応を繰り返してきた若武者が「何を話しても言い訳になるから」と、口を閉ざして敗戦後のスタジアムを後にする日もあった。
今となっては言える。「なんでもネガティブに捉えることは3年前くらいに終わったんでね。周りの目を気にしたりとかね」。しかし当時は、苦しかった。2014年は無冠で終了。個人としてはキャリアの転換点となる1年だったが、常勝軍団はタイトルを獲らないと評価されない。翌2015年にはクラブから託された背番号3とさらなる重荷を背負ってピッチに立ったものの、低空飛行を続けるチームにあって不甲斐なきパフォーマンスが目に付いた。「サポーターの皆さんが怒るのは当然。情けない」。そう言って唇を噛んだこともあった。そして同7月には自らを抜擢してくれたトニーニョ・セレーゾ監督が解任されてしまう。
「自分は期待に応えてきたタイプじゃないから。一段上がって一段戻ったり、そういうサッカー人生だと思う」
苦しみながらも進み続けた2015年。責任と痛恨の思いを胸に、昌子は石井正忠監督の初陣で決勝点を挙げた。そして同10月、ヤマザキナビスコカップを制覇。レギュラーとして初めてチームタイトルを掴み、“鹿島の3番”として一歩前進した。
迎えた2016年は、さらに歩みを進めた。1stステージ制覇、2ndステージの低迷。起伏の激しいシーズンとなったが、真価を問われるクライマックスで、昌子はチームリーダーとしての自覚を言葉で示した。「勝負強いと言われるのは、昔の鹿島だから。最近は大事な試合で負けている。それは全部、自分たちが招いたこと」。不退転の決意を紡ぎ、全身で責任を背負った。夏以降の低迷で不穏な雰囲気が漂っていたサポーターに向けて、「一体感を出せたら。“共闘”だから」と言葉を発する。ややもすれば批判の矛先になりかねない発言に、「ブーイングはしんどい」と漏らしていたかつての面影はなかった。
その後の栄光は改めて言うまでもない。J1制覇を果たし、今後も語り継がれることであろうクリスティアーノ・ロナウドとの対峙で世界中に己の存在を示し、そして天皇杯も制した。「優勝して言いたかった 共闘 ありがとう!!!」。激闘の日々を終えて綴った、感謝のツイート。自らに課した責任を遂行し、背番号3は強く逞しくなった。
皆さんへ1つ!— 昌子 源 (@GenShoji03) 2017年1月1日
34節が終わった後、応援の事について意見を言って申し訳ないです。
ですが、その後のCS、CWCそして天皇杯
ほんとに選手、スタッフ、サポーターが1つになり続けたと思います!
ずっとお礼が言いたかった
優勝して言いたかった
共闘 ありがとう!!!
「勝負の世界である以上、やられる人もいれば勝つ人もいる。その中で少しずつ強くなっていきたいと思う」
2017年6月。東京スタジアムで己のミスと向き合った6日後、灼熱のテヘランでサムライブルーを纏い、90分を走り抜いた背番号3の姿があった。その4日後には、慣れ親しんだカシマのピッチで完封勝利に貢献してみせた。全ては、チームのために――。満身創痍の身体を突き動かし、闘い続けていた。
鹿島では今、腕章を巻く試合もある。加入後3人目の指揮官・大岩剛からは「チームをまとめてくれ」と真っすぐな言葉で信頼を託された。J1前半戦を首位で終えた常勝軍団で、唯一のフルタイム出場。不動の地位を築き上げ、「本当に強いチームを目指しているから」と、さらなる向上を見据えている。昌子源、24歳。その進化に限界などない。
文=内藤悠史
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