<W杯を知る男たち ジーコ論・下>
06年W杯ドイツ大会で日本代表監督を務めたジーコ氏(64)は、選手時代にはブラジル代表として78、82、86年大会に出場、いくつもの名勝負を演じてきた。「ジーコ論」の2回目ではW杯への気構え、選手時代の思い出、さらに優勝候補に挙がるブラジル代表について語ってもらった。【取材=エリーザ大塚通信員】
ジーコ氏はW杯を迎える際の気構えをこう話す。「W杯に参加する、そのステータスを得たことへの責任。責任は重くなっていくし、人々は自分の能力やキャパシティーを信じてくれる。それらを背負う覚悟が必要です」。
もちろん選手と監督では違いもある。「選手なら体をつくり、技術を磨き、精神を鍛える。自身をベストコンディションに仕上げる必要がある。監督は全員に気を配らねばならない。落ち着いて決断を下さねばならない。サポートがあっても最終決断するのはいつも私でした。誰を選ぶのか、落とすのかなど、すべて私の決断です」。
選手選考は難しい仕事だった。「本当に残念だったのは、既にMF陣が埋まっていたので、1人の選手を連れていけなかったこと。(当時)浦和の長谷部誠です。MFには稲本潤一、小野伸二、中村俊輔、中田英寿、遠藤保仁がそろっていたので…。若い才能を連れていけなかった。23人しか選べないので」。
逆に選ばれる立場だった選手時代は代表発表で「アルファベット順の時はいやでしたね。Zは最後なので」と振り返る。また、幾多の栄光を重ねたジーコ氏にも、苦い思い出がある。72年ミュンヘン五輪代表に選ばれると信じていたが、落選した。「自分の世界が崩れていき、ボールを蹴ることをやめる寸前までいきました。当時まだ10代で…。予選でゴールも決めていたし、絶対に選ばれると確信していたのに」。
W杯での思い出深い試合を2つ挙げた。78年アルゼンチン大会1次リーグ初戦のスウェーデン戦。「試合終了間際、ネリーニョのCKを受けた時に主審が笛を吹いて試合を終わらせた。その時に私がゴールに決めたヘディングは笛の後だったとされ、得点は無効にされました。ゴールだったら2-1で勝利。勝っていたら次のスペイン戦(0-0)への士気も上がった。勝っていたら(C組1位となり)2次リーグで(優勝した)アルゼンチンと同組にならなかった。もしかしたらこのヘディングシュートはW杯の歴史を変えていたのかもしれません。それが無効にされたのです!」と語気を強めた。
一方、82年スペイン大会2次リーグでのアルゼンチン戦。「あの勝利は最高でした。アルゼンチンはいいベースを持ち、マラドーナもいた。そこで3-1で勝ったのです!」。ジーコ氏は前半10分に先制点を決めた。両チームとも4強入りを逃したが、「お互いにライバル視している相手だったので、とても重要な試合でした」。
最後に現在のブラジル代表について、16年夏に就任したチチ監督の影響が大きいという。「彼の存在が変化を生んだ。14年W杯終了後から彼を監督にすればよかった。2年間もロスした。でも巻き返せた。選手は14年に何が起きたか理解しています」。前回大会は地元開催ながら、準決勝でドイツに1-7と歴史的大敗を喫した。「『ブラジル』という名前は必ずしも勝利に結びつかない。尊敬はされても、敵は必要ならブラジルをたたきつぶしに来る」。それでも後輩たちの成長は感じている。「私はブラジルに対して楽観的に考えている。きっと決勝まで行くと思います」。(おわり)
◆ジーコ 1953年3月3日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。フラメンゴで活躍し、81年トヨタ杯リバプール戦で来日。83~85年はウディネーゼでプレー。ブラジル代表は76年に初選出され、通算72試合52得点。W杯では78年3位、82年2次リーグ敗退、86年8強。91年に鹿島入りし、94年引退。02年W杯後に日本代表監督になり、06年W杯は1分け2敗で1次リーグ敗退。
難しい選手選考、長谷部連れていけず残念/ジーコ論