リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon利根川晶子●翻訳translation by Tonegawa Akiko
鹿島アントラーズを新シーズンから率いることになったアントニオ・カルロス・ザーゴは、経験豊かな監督だ。
ちなみに、ブラジル人にとって彼は「アントニオ・カルロス」だが、そのほかの国、イタリア、スペイン、トルコ、そして日本では「ザーゴ」として知られているようなので、この記事でも彼をザーゴと呼ぼう。
鹿島はブラジルで最も愛されている日本のチームであり、これまでも多くのブラジル人監督がチームを率いてきた。エドゥ・コインブラ(ジーコの兄)、ジョアン・カルロス・コスタ、ゼ・マリオ、ジーコ、トニーニョ・セレーゾ、パウロ・アウトゥオリ、オズワルド・オリヴェイラ、ジョルジーニョ。
しかし鹿島の新監督は、彼らとは明らかに一線を画している。共通点はブラジル人であること、そして攻撃的なサッカーが好きなこと。それだけだ。
これまでの鹿島の監督たちは、一様に冷静沈着で、落ち着いた人物であった。しかしザーゴは違う。ホットで性格的に強く、エモーショナルで激しく、エネルギッシュ、そしてなによりも挑戦的で危険を恐れない。
私はザーゴのことを、プロ選手としてのキャリアをスタートしたサンパウロ時代から知っている。ここで彼はリベルタドーレス杯をはじめ多くの重要なタイトルを勝ち取った。1991年からはブラジル代表にも選ばれ、その後ヨーロッパのチームに呼ばれたが、プレーしたのはスペインリーグでも弱小のアルバセテ。彼は満足ができず、ブラジルに戻って名門パルメイラスに入った。ここでのザーゴはスター選手であり、チームのキャプテンも任された。
その後、日本の柏レイソルに移籍、チームの守備の要となった。レイソル時代にも私は何度か彼と話をした。「レイソルには満足している」と言いながらも、彼はずっとヨーロッパのビッグチームを見つめていた。結局は24試合出場しただけで、またブラジルの名門コリンチャンスに移籍した。
やがて、真面目でハードでパワフルなザーゴのサッカーは、ついに彼をヨーロッパに導いた。イタリアのビッグチーム、フランチェスコ・トッティのローマに移籍したのだ。守備に問題を持っていたローマは、それを解決するためにザーゴを獲得。ザーゴは当時のローマにとって最適な選手だった。ロマニスタは、彼のハードで激しく、敵のアッタカ―に対して無慈悲なプレーを愛した。そして2000-2001シーズンには夢に見たリーグ優勝を果たす。
ザーゴとともに勝利の美酒を飲んだチームには、トッティのほかにもカフー、ヴィンチェンツォ・モンテッラ、アウダイール、ワルテル・サムエル、マルコ・デルヴェッキオ、そして中田英寿がいた。率いるのはファビオ・カペッロ。多くの者は、ザーゴが暴力的な選手だったと言うが、それは彼の元監督の言葉を聞けば勘違いであることがわかる。カペッロは彼についてこう言っている。
「ザーゴはサッカーというものをよく知っている。チャンピオンになりたいチームには必要不可欠な選手だ。彼にとってサッカーはゲームではなく、人生そのものだ。だからパスのひとつひとつが彼にとっては生死に関わる問題なのだ。ザーゴのプレーを見ているうちに、私はとても貴重な選手を持っていることを理解した。私は彼を深く信頼していた」
この年、ローマはイタリアスーパーカップも勝ちとり、ザーゴはチームの中心選手だったが、それでもローマには残らなかった。トルコのベシクタシュからのオファーが、断れないほどの高額だったのだ。トルコでも彼は多くのタイトルを勝ち取った。
彼は現役時代から、「引退したら監督になりたい」とずっと言い続けていた。そしてベシクタシュを辞めたころから、その夢に近づいていった。
ブラジルに戻り、サントスやジュヴェントゥージで3シーズン、プレーした後、2007年に引退。その1年半後には地元のサン・カエタノの監督になっていた。このチームでは何のタイトルも勝ち取れなかったが、それでもブラジルの新世代の監督の中ではトップクラスという評をメディアやチーム幹部から受けた。
ピッチでのザーゴは、決して疲れることなく、他のブラジル人のように笑顔を見せず、冗談も飛ばさず、多くの者はとっつきにくい印象を受ける。
しかし、一度でも彼と言葉をかわせば、彼が勉強家で控えめであることがわかる。ザーゴはサッカーのあらゆることに精通していて、その視点はとても先進的だ。5つの国でプレーし、そのすべてでタイトルを勝ち取った経験は伊達ではない。だからこそジーコも彼を選んだのだろう。
鹿島のサポーターにぜひ知っておいてもらいたいのは、ザーゴは最高の監督になるためにずっと準備してきた男だということだ。彼はサッカーを本当によく研究し、学んでいる
彼はまた、UEFAのプロ監督としてのライセンスを3種類持っている数少ないブラジル人でもあり、コーチとしてヨーロッパのチームに所属した経験を持つ。古巣のローマのアシスタントコーチ、ウクライナのシャフタール・ドネツクのアシスタントコーチを務め、シャフタールではチャンピオンズリーグにも出場している。ヨーロッパからブラジルに戻ると、名門インテルナシオナルの監督を務め、また、ジュヴェントゥージとフォルタレーザではチームを3部から2部に引き上げた。ちなみにブラジルではこういう”下克上”は非常に難しい。こうしてザーゴは注目の若手監督となった。
鹿島と契約を結ぶ直前まで、レッドブル・ブラガンチーノの監督を務めていた。彼はそこで多くの勝利もたらし、チームの記録を塗り替えた。ブラジル全国選手権2部リーグでは、第6節に首位に躍り出ると、そのまま下に落ちることなく31週トップを走り続け、そのまま2位のチームを7ポイント離して優勝。1部リーグ昇格を決めた。
また、サンパウロ州選手権では準々決勝まで勝ち進み、他の4チームとともに大会の最多ゴールをあげた。4チームとはサンパウロ、パルメイラス、サントス、コリンチャンスといった押しも押されもせぬ名門である。大会のあと、ザーゴは最優秀監督に選ばれた。
レッドブルは金をかけていい選手を集め、トップリーグに臨むつもりだった。チーム幹部もサポーターも希望に満ちていた。しかし、ここで思いもかけないニュースが舞い込んだ。ザーゴが次のシーズン、ブラガンチーノを率いないというのだ。新シーズンの彼の行き先は鹿島。この移籍は物議を醸した。自らトップリーグに導いたチームをどうして捨てることができるのか、レッドブルとの契約も尊重すべきだ……などの意見が噴出した。
一方で、ザーゴの鹿島行きを評価する者もいた。アジアで最強のチームへの移籍は、ザーゴのキャリアにとってアップグレードにほかならない、と。
そして、ザーゴを鹿島の監督に選んだのは、ほかでもないジーコだった。
(つづく)