なぜ日本人サイドバックが欧州で重宝されるのか (宝島社新書) [ 北健一郎 ]
この2年半、内田篤人に関する原稿は書かないできた。それは鹿島アントラーズに戻ってからの彼を取材していないからだ。
この5年間でカシマスタジアムでのホームゲームを取材した回数、1回。鹿島の練習場を訪れた回数の方がまだ多い。「今」を書く資格のない筆者にも、「過去」を記録することなら許されるだろうか。
「こっちに来て思ったこととかを毎日ノートに書いているわけでもないんだよね。書けばいいんだろうけど、俺はそういうタイプじゃない。(中略)その記事を書いてくれて、ネットで見られるようにしてくれる。最高じゃないですか! だから、あのときの俺はこう思っていたんだなと、振り返れるんですね」
CLで日本人初のベスト4に進出した戦いを振り返るNumber779号のインタビューで、内田はそう語っていた。
ならばドイツでのフットボーラーとしての生き様を記録するのは意味があることかもしれない。未来のサッカー界のために――。
ラウールを救った内田のファール。
「オレは、つなぎたい派だから」
これはもちろん手ではなくて、パスのこと。自陣の深い位置で奪ったボールを簡単に蹴ることはなく、信頼するチームメイトに送る。そんな風に語った内田は、確かに「つなぐ」人だった。
2010年、10月20日。CLのグループステージ第3節、ハポエル・テルアビブ戦。内田にとってCLの2試合目、初めてフル出場した試合でもある。
内田が衝撃を受けた外国人選手として引退会見で名前を挙げた、ラウール、フンテラール、ファルファンが関与し、鹿島での経験とつながるシーンがあった。
前半17分、右サイドの高い位置にいた内田は、ペナルティーエリアにさしかかるところにいるラウールの足下へパスを出した。ラウールはこれを受けるフリをして、スルーした。よりゴールに近いところに入っていたフンテラールがボールを受ければチャンスになると判断したからだ。
しかし、マークについていた相手CBのダ・シルバはラウールの意図をよみきり、パスをカット。右MFのファルファンは内田よりもさらに高い位置に立っていた。シャルケの右サイドはがら空きだ。
だから、ダ・シルバはそのままドリブルで持ち出し、カウンターを繰り出そうとした。すると、内田は抱きかかえるようにダ・シルバの身体を両腕でつかんだ。当然、ファールだ。抱きかかえたのは、そのファールの目的が相手を痛めつけることではなく、相手カウンターのチャンスの芽を摘むためだったからだ。
ドイツでは、この種のファールは「戦術的ファール」と呼ばれる。実行できて、当たり前。適切に犯さなければ、試合後のミーティングで映像を示されながら、雷を落とされる。
その内田の戦術的ファールは、ラウールの些細な判断ミスを帳消しにするプレーでもあった。
ラウールは内田を信頼していた。
内田がシャルケに移籍した2010年からの10年間で、ドイツの国営放送ARDが選ぶ年間最優秀ゴールを複数回受賞したのはラウールただ1人。それ以前に、彼がレアル・マドリー時代に残した功績はここで語るまでもない。
2011年11月24日にシャルケにとって最も大切なダービーをひかえた練習を終えたあとにも、ラウールが内田と肩を組んで熱心にアドバイスを送っていたのを覚えている。
「『ウッシーはたまにディフェンスのときに裏をとられちゃうから、常にボールとマークする相手を見ていたほうがいいよ』と言っていた。『たまに集中力がないときがあるから、それがなくなればもっと良くなるんじゃないかな』みたいなことも言ってたなぁ(笑)。いつもはクロスとかパス出すタイミングとかだけど、ディフェンスのことに関しても、たまに指摘してくれるかな」
期待しない者にアドバイスするほどレジェンドは暇ではない。信頼関係があるからこその苦言だった。
鹿島で「言われてきましたから」。
話を戻すと、3-1で快勝した件のCLハポエル戦の試合後。脱力気味に、少しけだるそうにも見える様子で内田は記者からの質問に答えていた。
しかし、前半17分の戦術的なファールのシーン直後の、スタンドのリアクションについてたずねると、風向きが変わった。
――あの場面、スタンドから拍手が起きていましたよ。気づきましたか?
「あぁ、そうなんですか! それがわかるというのは、『みんな、サッカーを知っているな』と。汚いプレーと言われたらアレだけど、ああいうところで自分が上がって、ボールを取られて、カウンターを食らうのはツライので。日本ではなかなか気づかれない部分で。そういうところ、目が肥えている……。良い環境でやれていますねぇ」
――カウンターの芽を摘んでおこうと?
「カウンターがというよりは、自分たちの失い方が悪いと、やっぱりめんどくさい。もどらないといけないので。イエローをもららない程度に。あまり公共の場では言えないですけど(笑)」
――あれは「戦術的ファール」と言われ、ドイツでも高く評価されるわけですから、それができたというのは……
「まぁ、そうですけど、それは日本にいたときにも言われてきましたから」
CLという世界最高峰の戦いで、たった1つのファールの価値をわかってくれるシャルケファンに感動を覚えた。ドイツでやる喜びを見出したと言い換えることもできる。
では、なぜ、そんなプレーができるのかと言えば、Jリーグの名門鹿島アントラーズで鍛えられたからと胸を張った。
海外へ行く前に日本でできることがある。
CLという世界最高峰とJリーグを内田は「つないで」見せたのだ。
だから、引退会見でこう話したのもうなずける。
「海外に行きたいのはわかりますが、チームで何かやってから行けばいいのになと思います。それができないなら移籍金とか置いていけばいいのになって思います。間違ってますか? よく『海外に行きたいです!』って俺のところに話をしに来る選手もいますが、そんなに甘くないよっていう。行きたきゃ行きゃいいけど今すぐ。どうせすぐに帰ってくるんだろうなって思います」
海外の魅力はもちろんある。内田は誰よりもそれを知っている1人だ。
でも、日本で学べること、学ぶべきことはある。そして、やるべきことがある。
置かれた場所で花を咲かせられないものは、海外に場所を移したところで、大輪の花を咲かせることはできない。
そんな教訓を彼なりの表現で表わしていた。
人生で最も重要な試合の後にも。
思えば、現役時代で最も印象に残った試合として挙げた2010-11シーズンのCLのラウンド16、バレンシアとのセカンドレグ。あの試合の後にも、CLについて話していたはずが気がつけば鹿島について語っていた。
15分あまりの取材時間で、内田の口から「鹿島」というキーワードが出たのは7回。例えば、こんな感じで。
「『鹿島』なんかでも、1-0で勝つ試合が多いですけど、最後は守ります。でも、ある程度の時間はずっと攻めている。守りに入ったら、きついから。攻めて、攻めて、ジャブジャブで。相手が出てきたら、最後みたいにカウンター。うまくはまれば。今日ははまったんじゃないですか」
「『鹿島』のときなんかは、みんな(小笠原)満男さんとか監督がバランスをとってやってくれて、ゲームなんかでもやってくれますけど。こっちも個人個人、サッカーを知っている人が多いので。みんなで助け合いながらですから」
「頭が上がりません、ラウールさんには。『鹿島』のマルキ(マルキーニョス)とかは特にそうだったんですが、前の選手があれだけ走ってくれると、俺らも脚が動くというか。それがましてや、ラウールですから。まぁ人に刺激を受けながら、助けてもらいながら。またひとつ、ベスト8まで来れたので。またみんなで助け合いながら。もう1つ、2つ……」
「『鹿島』がなかったら、今の俺は考えられないし。現場の人だけじゃなくて、フロントだったり、そういうところが大事だなと。この前も大宮(アルディージャ)に引き分けたりしていたので、良い報告がみんなに届けば。『鹿島』のみなさんに、よろしくお伝えください!」
「本当にね、僕は恵まれていますよ。一緒に戦う集団……『鹿島』のときからそうですけど。その運は、僕、持ってますね。人を引き寄せる運は、かなり」
内田はいつも、自分の受けた恩をかみしめていた。
内田篤人はいつでもごく自然に人を助ける。
「受賞すると関係者たちに恩を売られたりする」
Number1007号のインタビューで、小説家の村上春樹氏はノーベル賞について聞かれそう答えていた。
あいつは俺が育てた。
苦しいときに私が助けてあげました。
彼とは本当に仲良しで……。
どの世界にも、恩を売ろうとする者は多い。成功者にどうにかしてかかわりを持ちたいからだろう。
でも、内田の場合は正反対だ。
現在は浦和レッズ所属で、かつてケルンでプレーしていた長澤和輝は内田の引退に合わせてこんなツイートをした。
「ドイツに渡って言葉も分からず友達もいない、そんな精神的にキツイ中で初めての練習試合がシャルケだった。
無名の大卒選手である僕に試合後に連絡先を渡して、困ったらいつでも連絡して! と。嬉しかったし、どれだけ心強かったか
ありがとうございました。#内田篤人」
長澤本人が明かしているが、内田は試合終了後に長澤に話しかけられなかったことを悔いてか、筆者にこう頼み事をしてきた。
「試合が終わった直後、長澤クンとほとんど話せなくてさ。悪かったなぁ……。オレの連絡先を渡してきてもらえる? いつでも連絡してね、と伝えて」
相手が有名か無名かは関係ない。
他にも、渡独直後で初対面にもかかわらず内田が食事に誘った選手は複数いる。ドルトムントU-23に所属していた丸岡満などもそうだ。取材に応じるハードルがきわめて高い選手が、内田の引退に際してはきっちりコメントを発したりもしている。
長澤が「無名の大卒選手」だったかどうかはともかく、相手が有名か無名かにかぎらず、いつでも自然に人のために行動するのが内田だった。
高校時代の後輩の結婚式のために、シャルケの本拠地フェルティンス・アレーナが背景に映るところにまで行って、ビデオメッセージを撮影したこともある。
内田さんにお世話になりました。
内田さんに良くしてもらいました。
内田さんに希望をもらいました。
引退の発表をしてから、そんな声が鳴り止まない。
内田には貯まりに貯まったものがある。
内田がシャルケのユニフォームを来て最後にプレーしたのは2016年12月8日だった。それは約1年9カ月ぶりの復帰戦であり、ELのザルツブルク戦でもあった。ヨーロッパの舞台で内田と同じピッチに立った最後の日本人になった南野拓実はその夜、シャルケファンが内田に向けた感情を目の当たりにして、こう誓っていた。
「(内田に)シュートをブロックされたのは悔しいですけど、日本を代表するような選手が復帰したことは、とても嬉しいですし、少しでもマッチアップ出来て良かったというか……。逆に、僕も刺激をもらいましたね。僕も、『ファンから歓迎されるような選手になっていきたいな』と」
引退会見で、信頼するスポーツ報知の内田知宏記者の質問に、内田篤人はこう答えていた。
「自分の貯金をいくら持っているかも分かっていない状態なので、奥さんはそこら辺の心配は多少していましたけど、まぁ、なんとかなるでしょう」
とんでもない、「なんとなかなる」ではすまない。内田にはプロサッカー選手として、貯まりに貯まったものがある。
一生かかっても使い切れないほどの「信頼貯金」である。
内田がつないだ信頼は、この先、必ず返ってくる。チームメイトに丁寧に「つないだ」パスが、自分の足下に返ってくるように。