日本サッカー 頂点への道 [ 西川結城 ]
デーピングがぐるぐるに巻かれた右足から、その渾身のパスは放たれた。アディショナルタイムは残りもうわずか。逆サイドのペナルティーエリアに送られたボールを味方が必死につなぎ、最後は犬飼智也がヘディングで押し込んで同点に追いついた。
8月23日、カシマスタジアムでの鹿島アントラーズ-ガンバ大阪との一戦は、現役引退を表明した内田篤人のラストマッチとなった。
まだ32歳。しかしながらケガとの戦いを続けてきた右ひざはもはや限界だったという。鹿島の未来を後輩たちに託すような右足からの“ラストパス”。
劇的すぎる幕引きはピッチに立てば光沢を帯びてきた彼らしくもあり、これで見納めかと思うと寂しさが募る。そんな複雑な思いを抱いたファンはきっと多かったはずである。
内田を苦しめた右ひざのケガ
内田を苦しめた右ひざのケガ。だがそこには「誇り」というものが見えてくる。
ケガとの戦いが特にクローズアップされたのが2014年のブラジルワールドカップだった。シャルケの主力として変わらず活躍していたが、2月の試合中に右ひざを押さえて座り込んで動けなくなる。
診断の結果、右太もも裏の肉離ればかりでなく右ひざ裏の腱損傷が判明。4ヵ月後に控えるワールドカップに間に合うかどうかは微妙であった。クラブからは手術を勧められたというが、彼は手術を回避しての保存療法で早期復帰を目指すことになる。
日本に帰国してJISS(国立スポーツ科学センター)でリハビリを始め、ひと段落ついたところでドイツに戻り、日本代表のメディカルスタッフはシャルケに向かっている。シャルケと代表のドクター同士が密に連絡を取り合うなどクラブと代表がタッグを組んで内田を全面的にバックアップした。
その結果、5月12日に発表された23人のワールドカップメンバーに選出され、壮行試合となった同27日のキプロス戦で3ヵ月半ぶりにピッチに立った。前半のみの出場ながら、こぼれ球を押し込んで決勝ゴールを挙げている。
試合後のフラッシュインタビューで「今日のゴールはちょっと狙っていた」と明かし、そしてこう言葉を続けた。
「足を治してくれて、強くしてくれて、ドイツにも治療スタッフが来てくれていたので、ゴールした後、ベンチのほうに行きました」
ゴールの後、内田はベンチに向かってリハビリを支えてくれた池田浩ドクター、前田弘トレーナー、早川直樹コンディショニングコーチたちと抱き合っている。
復活を遂げたキプロス戦の舞台裏
昨年のことだった。
V・ファーレン長崎でフィットネスを担当する早川コーチに会った際、ずっと気になっていたことを聞いてみた。あのキプロス戦で抱き合いながら何と言葉を交わしていたのか、を。
彼はこう明かした。
「僕はベンチから離れてウォーミングアップエリアにいたんですけど、篤人がわざわざ来てくれて。肩を叩いて『良かったな』と伝えたら、僕の耳もとで『ありがとう』って言ってくれて……。ワールドカップの戦いはもちろんこの先になるんですけど、まずピッチに戻れたことで感謝したかったというのはあったんじゃないですかね。彼はああ見えて凄く律儀というか、とても硬派な人なので」
リハビリ期間、「篤人は自分から何をやればいいですかと聞いてくるタイプじゃない」ため、マメに連絡を取るようにしていたという。
コンディションの状況を聞いて「焦らなくていい」「ひざが痛くないようならフィットネスバイクを入れてみたほうがいい」「このタイミングになったら筋トレを入れていけばいい」などと出来る限りのアドバイスを送った。
日本代表に合流してからも、ずっと内田のコンディションを注視してきた。グラウンドでもちょっとした変化も見逃さないようにした。彼は状態のアップダウンを繰り返しながらも、何とか本大会に合わせた。
記憶に残る2014年W杯のファインプレー
残念ながら日本代表は本大会で1勝もできず、グループリーグ敗退に終わる。だが内田のパフォーマンスは光った。シャルケでのプレーを、そのまま発揮していたという印象がある。
レシフェで行なわれた初戦のコートジボワール戦、忘れもしないファインプレーがあった。
本田圭佑のゴールで先制しながらもドログバが入った途端に2分間で2点を奪われ、日本は全体的に浮足立った。後半42分、日本はコーナーキックからのボールを拾われて逆にカウンターを浴びる。
ここで内田が全速力で自陣に戻り、相手と駆け引きしながらスライディングでパスカットした。誰もが疲れているときの、もうひと踏ん張り。ここでもう1点奪われてしまえば、次の試合に向けてダメージがさらに深くなっていた。大きなプレーであった。
こうやってピンチの芽を1つずつ潰していたのが背番号2だった。スピードのあるジェルビーニョに対しても優位性を保ち、アタッカーに対して常にニラミを利かせていた。
2度目のワールドカップにして初めての出場。しかし彼のなかに「自分のため」はなかった。ベースキャンプ地でのイトゥで、彼はこのように語っていた。
「自分は人のために頑張ったほうが、頑張れるような気がする。今まではチームのためもありますけど、自分のためというか。ケガをして、サポートしてもらっているのがひしひしと伝わってきて……それは考えつかなかったこと。ケガしていいとは思わないけど、サポートしてくれる人がいるんだってこの右足を見て思えるのは、無駄じゃなかったんじゃないかって。そのためにも今回のワールドカップじゃないですか」
支えてもらっている人への感謝と恩返し。ひいては「チームのため」なのかもしれないが、勝つことが何よりも喜んでもらえると考えていたはず。「人のため」にプレーすることが、彼のモチベーションになっていた。
完敗したコートジボワール戦を終え、前を向く彼の姿があった。
「もう1回チームとして、力がグッと出せるようじゃないとダメなのかなと。せっかく4年間やってきて、(失点した)その2分で無駄にするのはもったいないですからね」
結果こそ出なかったが、内田の落ち着いたプレーと強い精神力はチームの希望でもあった。右ひざの不安を抱えながらも、彼は3試合すべてに先発フル出場を果たしている。結果を求め、最後の最後まであきらめようとしなかった。
最後の最後まで自分らしく
その後も右ひざのケガとの戦いは続いていく。
翌2015年には手術に踏み切り、復帰には1年9ヵ月も掛かった。シャルケを離れてウニオン・ベルリンに移籍し、2018年からは鹿島に復帰。本調子に戻っていかないもどかしさが彼のなかにはずっとあったに違いない。
しかし彼はブラジルワールドカップと同じく、最後の最後まであきらめようとしなかった。右ひざの回復を求め、限界まで踏ん張った。それは決して「自分のため」ではなく、支えてくれる人、応援してくれる人のためだったのではないだろうか。
ガンバ戦のあの“ラストパス”にはしびれた。
ケガが原因による引退であっても、彼はケガに屈しなかった。勝利への執念も、痛がる素振りや喜びを過度に見せないクールな表情も。
最後の最後まで、彼は自分らしくあり続けた。