日刊鹿島アントラーズニュース

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2016年7月15日金曜日

◆日立・鹿島ダブル出場/中 1975年「住友金属鹿島硬式野球部」誕生 知事の一言で決意/茨城(毎日新聞)


http://mainichi.jp/ama-baseball/articles/20160714/ddl/k08/050/005000c



アントラーズから刺激
 あの日の面会がなければ、チームは誕生していなかったのかもしれない。日鉱日立(日鉱)の休部から約1年半が経過した1974年7月。59年から16年間知事を務め、鹿島臨海工業地帯の開発に力を入れた岩上二郎知事は、知事室で住友金属工業(住金)鹿島製鉄所の赤羽正輝所長に声をかけた。「日鉱が休部になって、県内の社会人野球は寂しくなるね」

 岩上知事は赤羽所長と面会する直前、その年の都市対抗野球への出場を決めた日立製作所(日製)野球部関係者から表敬訪問を受けていた。社会人野球が話題になったのは、その流れだったのか。知事との面会後、赤羽所長は「鹿島にも野球部をつくらないといかん」と思った。

 だが本社からは反対された。企業スポーツに理解はあったが「1競技1チーム」が原則だったためだ。野球は51年創部の名門「住金野球団」(和歌山、99年解団)が存在しており、新たなチームをつくるという発想はなかった。

 そこで赤羽所長が考えたのは、本社ではなく鹿島製鉄所がチームを持つこと。74年9月、創部を決め、75年1月に正式に発足した。住金が鹿島に進出してから約7年がたち「地域に根ざしたチーム」を目指した。発足当時、コーチ兼マネジャーを務めた松本桂一・県野球連盟副理事長(74)は「地元の高校生を中心に選手を集め育成を試みた」と振り返る。和歌山の野球団などからも選手に来てもらい、形を整えた。本社のチームは「野球団」だが、それと区別するため「野球部」とした。

 チームは徐々に力をつけた。創部2年目の76年には社会人野球の日本選手権に出場。9年目の83年には都市対抗野球に初出場した。

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 チームが成長する中で大きな刺激を受けたのは、J1鹿島アントラーズの前身、住金蹴球(サッカー)団だ。戦後間もない47年、大阪本社の同好会として発足し、56年部(団)に昇格。野球部が誕生した75年に鹿島に本拠地を移した。

 野球部も蹴球団も「地域を活性化させる」という使命があった。蹴球団はサッカープロリーグ創設の流れとマッチし、地元自治体や企業の支援を受け、91年にJリーグ入りが決定。輝かしい戦績を残している。

 93年から4年間野球部監督を務め、現在は鹿島アントラーズFCの関口一行取締役(58)は「お互いの活動が刺激になっている。スポーツで地域を盛り上げていきたい」と語る。競技は違うが流れる精神は同じ。それぞれ子供たち向けの野球、サッカー教室を開くなど、地域貢献活動を欠かさない。

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 今月2日、J1の試合前に鹿嶋市の県立カシマサッカースタジアムで新日鉄住金鹿島野球部の壮行会が行われた。青と白のユニホームに身を包んだ選手たちは、真っ赤に染まったアントラーズのサポーターの前に立ち、3年ぶりの都市対抗野球大会出場を報告した。

 アントラーズも第1ステージで優勝を決めている。両チームが結果を出し、地域は沸いている。【加藤栄】

 ■住金鹿島の誕生と発展

1968年 住友金属工業(住金)鹿島製鉄所開設

  72年 日鉱日立(日鉱)野球部休部

  75年 住友金属鹿島硬式野球部創部。住金蹴球(サッカー)団が大阪から移転

  76年 社会人野球日本選手権に初出場

  83年 都市対抗野球に初出場

  91年 J1鹿島アントラーズ発足

2000年 都市対抗野球4強(10、11年も)

  12年 新日鉄と住金が合併。チームは新日鉄住金鹿島に

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