7年半ぶりに鹿島アントラーズに復帰した内田篤人が会見などで発言している「鹿島を出るときから、体が動くうちに戻ってきたいと思っていた」という言葉は、偽らざる本音だ。
内田は2014年2月に右膝の腱を断裂。いったんは復帰し、ブラジルW杯では3戦にフル出場したものの、2015年6月、今度は右膝関節の骨棘(こつきょく)を取り除く手術を行なった。このリハビリは思いのほか長引き、公式戦復帰は2016年12月までずれ込む。2017年前半はシャルケで、後半はウニオン・ベルリンで過ごしたが、わずかな試合出場にとどまった。
復帰の途上とはいえ、小さなケガをするたびに「引退」の2文字がちらつき、「それならば少しでもできるうちに鹿島で……」と思ったという。その一方、一度は欧州のトップレベルでプレーした選手である。もう一度、欧州の勝負の土俵に上がりたいという気持ちも強い。負けず嫌いな内田は2014年以降、ふたつのアンビバレントな思いを抱えながらプレーしてきていた。
日本に帰るか、帰らないか。それは内田にとって常に大きなテーマだった。
2017年8月のことだ。シャルケでの最後の練習に参加した帰路の出来事だった。内田のもとに欧州のあるチームとの交渉が決裂したとの連絡が入った。この時点では「最後の砦」と思っていたチームとの破談だった。
だが、内田は落ち込むそぶりは見せなかった。もちろんその内心まではわからない。だが、さっそく次の動きに移ろうとしていた。つまり、帰国の決意を固めようとしていた。
「さ、引っ越しだ、引っ越し」
そんなことをさらっと言いながら、内田は仲間のひとりに電話をかけた。
「篤人くん、どうしたんすか?」
電話の相手は清武弘嗣だった。ドイツは夕方。日本は日付が変わる直前といった時間帯だっただろうか。
「キヨ! ただいま!」
内田はそのひと言で現在の状況と心境を伝えた。清武は絶句し、数秒の間の後、絞り出すように言った。
「まじっすか。さらっと次、決まると思っていましたけど……」
楽しげだが、どこかぎこちないやりとりは数十分も続いた。
もちろん帰国やJリーグへの復帰は何も悪いことではない。だがこのときの内田の場合、負傷から復帰こそしたものの、まだ十分に試合出場を果たしていない。つまり、勝負をしたうえで帰国を決断したというわけではない。だからこそ清武は絶句し、内田は電話をすることであえて帰国に自分を向かわせようとした。そうしないと、帰国へと気持ちが動かなかったのだろう。ドイツでのプレーに未練があったということだ。
その後、ウニオン・ベルリン移籍の話が決まり、内田はさらに半年間、ドイツで再チャレンジをすることになる。結局、そのウニオン・ベルリンでも先発出場1試合、途中出場1試合にとどまったが、内田の気持ちのなかには「ドイツでやりきった、2部にいってまでチャレンジした」という納得の手応えが残った。
鹿島で会見や練習に臨む内田の表情がとてもすっきりしているのは、このあたりの精神的な整理がついているからだろう。「欧州だから」「日本だから」ということではなく、プレーできる環境でまずは試合に出るという優先順位もはっきりした。
もちろん勝負はこれからだ。
「体が動くうちに戻ってきたいと思っていた」
内田はプレーでこの言葉を証明しなくてはならない。そんな内田を見たいと渇望する人は少なくないはずだ。
内田篤人から突然の電話に絶句した清武弘嗣。日本復帰話は前にもあった