★鹿島DF・内田篤人(1)
三浦知良(当時ヴェルディ)がセリエAに挑んだ1994年には稀有だった海外移籍が、今では当たり前になっている。中には海外で得た経験や財産を還元しようと、復帰する選手も少なくない。ドイツでプレーした7年半もの歳月を経て、今季から愛着深い古巣・鹿島アントラーズに戻った希代のサイドバック、内田篤人(30)もその一人だ。
「何か、監督が代わったらしいし」
クールな面持ちで、それでいて熱い血潮を内面に脈打たせる内田らしい言葉だった。
14日の名古屋グランパス戦で、内田は2月25日のJ1開幕戦以来、48日ぶりに復帰した。1カ月後の5月14日は、国際サッカー連盟に提出する、W杯ロシア大会へ向けた予備登録メンバー35人の締め切り日だ。
おりしも日本代表は、バヒド・ハリルホジッチ前監督が9日に電撃解任されていた。後任の西野朗新監督は12日の就任会見で、W杯代表メンバー23人の選考基準として(1)経験(2)実績(3)今後1カ月の状態の「3原則」を掲げた。
内田は経験も実績も申し分ない。残る条件はひとつ。カシマスタジアムの取材エリアで報道陣から水を向けられた内田は、冒頭の言葉を残し、さらにこう続けた。
「オレは試合に出ないと話にならない。そこはみんなとは違うし、それで(自分を)見てくれれば、というだけなので」
今年1月、鹿島へ約7年半ぶりに復帰した。必然的に、2015年3月を最後に遠ざかっている代表への復帰に注目が集まるが、内田は一貫してこう言い続けてきた。
「よく聞かれることですが、代表には全然入っていないので。鹿島に戻ったからには、鹿島のために一生懸命働きます」
その先に代表が…と問われたときには、こう語気を強める。
「オレが何かを言える立場でもないので」
痛めていた右ひざを手術した15年6月を境に、長いリハビリ生活に入った。その後の2年半で公式戦に出場したのは3度。7年間所属したシャルケから、2部のウニオン・ベルリンに出場機会を求めた昨夏以降も、状況は変わらなかった。
所属クラブで輝きを放てなければ、代表に選ばれる資格はない。誰よりも畏敬の念を抱くからこそ、簡単に「代表」の2文字には触れない。一方で古傷の右ひざの具合を聞かれるたびに、こんな反論を唱えてきた。
「皆さんは知らないと思いますけど、ドイツで練習はずっとやっていましたし、まったく問題はないと思っています」
しかし清水エスパルスとの開幕戦で先発した内田は、別の異変を覚えてしまう。(スポーツジャーナリスト・藤江直人)
【Jリーグ25周年の群像】内田篤人、クールな面持ちも胸に秘めた「代表」への思い