第7回:小笠原満男
突然の大きな揺れは、まるで「忘れないで」という忠告のようだった。
東日本大震災からちょうど10年が経とうとしていた時に、その地震は起きた。2021年2月13日23時7分ごろ、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。宮城県と福島県で震度6強を観測した。
「震災は忘れた頃にやってくる、って言葉があるけど、忘れているわけではなくても、こういうことがあるたびに、あらためて防災意識を思い出す。そんなきっかけになったかなと思っています」
現在、鹿島アントラーズでテクニカルアドバイザーとして働いている小笠原は、現役引退後、スクール、ジュニア、ジュニアユース、ユースと、さまざまな育成年代の選手たちを指導している。近況を尋ねると「練習の用意をしたり、試合の映像を見たり、スカウティング映像を見たり、会議に出たり......大変だね! 働くってのは」と、小笠原は冗談っぽく笑った。
それから、「でも」と続けた。
「選手時代、津波の映像を子どもたちに見せるために、いろんなところから映像を引っ張ってきて、切ったりつないだりして編集するのを、クラブのスタッフに教えてもらいながらずっとやっていたんです。それが今、試合の映像分析とか、そういう編集作業をすることがあるので、意外なところで意外なことが役に立ったというか。やっておいてよかったなって実感しています」
小笠原は震災後から、防災意識の重要性について、数え切れないほどの講演をこれまで行なってきている。声をかけられれば全国どこにでも出向いたし、子どもたちにはとくにしっかり胸にとどめておいてほしいと、自身が足を運ぶサッカー大会などでは必ず、東日本大震災の映像を見せながら丁寧に防災における知識を説いてきた。それは、小笠原が現役を引退した今でも変わっていない。
ふりかえれば、小笠原にとって東日本大震災からの10年は、東北サッカーの復興・発展と、防災意識の普及に奔走し、ひたすら震災と向き合い続けた10年だった。
岩手県出身の小笠原の母校がある大船渡市も、津波に飲み込まれた街のひとつだ。自身のサッカーの礎(いしずえ)を築いた大切な故郷の惨状に、いてもたってもいられず、小笠原は震災直後からひとりで被災地に支援物資を届け続けた。
しかし、ひとりでやれることにも限界を感じ、サッカー選手だからこそできる支援をしていこうと、間もなく東北出身のJリーガーを募り、支援活動を行なうべく『東北人魂』という団体を発足させた。
主に活動は、サッカーに限らず、子どもたちとボールを介して触れ合い、笑顔を取り戻してもらうことが一番の目的だった。
「仮設住宅での避難生活を余儀なくされた方が多かったですし、またその仮設住宅の建設地が小学校や中学校の校庭だったりしていたので、子どもたちが元気に走ったり、体を動かせているかどうかはすごく心配でした。スポーツ選手としては、体が動かせないことが苦痛であることは、誰よりもわかりますから」
それから毎年、年始のオフや夏のJリーグの中断期間になると、参加できる選手たちで東北の被災地を点々と周り、子どもたちとボールで触れ合った。
場所は被害を逃れた体育館や空き地などさまざまで、走り回るスペースがあればどこでもよかった。だが、やはりどうしても室内が多かった。そして、そのイベント後や合間に必ず、皆で現地の被災状況を見て回るのが決まりだった。
「いろいろ行きましたね。福島、宮城、岩手、そして秋田も。現地に行って、見て、話を聞いて。子どもたちに何が必要なのか、それをどうすれば実現できるのか。同じ東北でどうやったら助け合えるのか......。イベントの内容も含めて、選手同士でアイデアを出し合ったりしていました」
そして、回数を重ねていくごとに、あるひとつの思いが強くなった。
「子どもたちが安心して走り回れるグラウンドを作ってあげたい」
気持ちが揺るぎないものになると、小笠原はすぐにグラウンドプロジェクトを立ち上げ、グラウンド建設に向けて動いた。場所は、海沿いで東北地方でも比較的雪の少ない暖かい地域であることと、地元の小笠原の同級生や後輩が賛同してくれたこともあり、被災地でもある大船渡市にグラウンドを作ることに決めた。
それから小笠原は、シーズン中でも時間を見つけては、何度も、何度も現地に足を運んだ。イチから土地を探すところから始まったが、小笠原の情熱に押されて、やがて大船渡市の行政も動き出した。そして、実にプロジェクト発足からわずか1年で土のグラウンドが完成し、それからさらに5年後にはグラウンドの全面人工芝化が実現したのだった。2017年の年末のことだった。
「うれしかったというか、ホッとしたというか。本当に、いろいろな人の協力や、多くの方々の募金のおかげで叶ったと思っています。とくに、一緒に先頭に立って頑張ってくれた同級生には本当に感謝しています」
そのグラウンドでは現在多くの大会が誘致されており、東北人魂の冠がついた大会も行なわれている。東北人魂カップには、小笠原の提案でアントラーズのスクール選抜の子どもたちも参加している。それには、理由があった。
「鹿島って、海が近いんだけど、避難警報が来てもあんまり逃げなかったり、ピンときてなかったりというか......そういう意識が少し低いんですよね。そこで、参加チーム数が増えることもいいことだし、ちょうどいいので大会に参加してもらって、震災ってこうだったんだよって話を鹿島の子たちにも自分たちの目で見て、聞いてほしいなと思って提案しました。
最初の頃は僕が震災や防災について説明していたんですけど、毎回帯同しているコーチが同じなので、次第にコーチのほうから「自分たちでやりますよ」って言ってくれて。今はスクールのコーチが引き継いでくれています。一昨年には岩手・陸前高田に『東日本大震災津波伝承館』もできたので、そこに子どもたちを連れて行って、ガイドさんに話してもらっています」
ここ4、5年で、東北人魂の活動もフェーズが変わり、イベントではなく、よりサッカーに重きを置いていこうと前進。東北サッカーの発展のために大会を作り、子どもたちが真剣にサッカーに取り組める場を提供することに注力している。大船渡の大会はそのひとつで、主に小笠原を中心に執り行なっている。
ほかには、宮城県の松島でも開催されており、こちらは鹿島アントラーズで仙台出身の遠藤康が中心となって行なっている。どちらの大会も現地に行ける選手がいれば来てもらい、その選手たちが試合を見てMVPを決めたり、表彰式に参加したりして子どもたちのモチベーションを上げている。
「いつか一緒にボールを蹴った子どもたちの中から、この震災を乗り越えて強いメンタルを持ったJリーガーが出てきてほしい」というのは、この活動に関わった選手たちにとって、かねてからの願いだった。東北人魂を発足させるにあたり、当初現役の東北出身のJリーガーを調べたら、J1、J2併せて30人もいなかったこともあり、その思いは切実だった。
あれから10年経った今、震災当時に小中学生だった子どもたちは、もう成人したり、高校を卒業したりしている。
そんななか、最近では記事で東北出身の選手が新加入でJクラブに加入したと目にすることもあれば、大会でMVPに選ばれた子がクラブユースに入り、トップチームにいけるかもしれないと帯同のコーチから教えてもらったりもするようになった。
「もしかしたら一緒にボール蹴ったことあるかな?と思ったりもするけど、こちらから聞くもの野暮というか、変な感じだしね。でも、そうやってあの経験を乗り越えてプロでがんばっているっていうのは純粋にうれしいし、応援したくなりますね」
いかにも奥手な東北人らしい思いを述べると、小笠原は少し残念そうにこう続けた。
「ただ、もう今の小学生には、すでに東日本大震災と言ってもピンとこない子たちが多くなってきているんですよね。やっぱり、10年前に何があったかっていうのを風化させちゃいけないと思うし、こういうことはまたいつか起こるんだよって伝えていく必要がある。
その時に自分はどうしなきゃいけないのかってことを、みんなで話し合っていく必要があると思っています。10年は記念日じゃないけど、10年の節目っていうのをいい機会にして、防災意識の再確認を家族や周りの人と話し合ったりして、備えてほしいですね」
日頃から震災や津波のことを考えるのはおそらく無理だろうが、こういう節目に今一度思い起こしてほしいと何度も繰り返す小笠原は、これからの自身のスタンスもとくに変わることはないと話す。
「この先も、できれば子どもたちが活躍できるような大会を作っていって、東北のサッカーを盛り上げたいと思っていますし、何かことあるごとにまたそういう防災意識などを伝えられる場があるのであれば、話していきたいと思っています」
あれから10年----。小笠原に言わせればまだ復興とはほど遠く、「10年で、まだこれだけしか進まないのか」と、もどかしさが募る。しかし、それだけの爪痕を残していくほどの震災であったことを、この先も私たちは忘れてはならないし、そこから学んで行かなければならない。
そして小笠原はきっとこの先も変わらず、大切なことを伝え続けていくのだろう。いつの日か、完全に復興するその時が来ても......。
◆小笠原満男にとっての3.11。「東北人魂」は変わらず。被災地からJリーガー誕生を願う(Sportiva)