「試合でのプレーは何も覚えていないんですよ。本当に」
切れ味鋭いドリブル、スペースへの飛び出しで'97年鹿島アントラーズのシーズン2冠に貢献した増田忠俊。彼にとっての、たった一度の日本代表キャップはこのゲームで刻まれた。
'98年2月15日、オーストラリア戦@アデレード。3-0。得点者中田英寿(5分PK)、平野孝(65分)、同(70分)。
中盤をダイアモンド型に組んだ4-4-2のトップ下として先発出場。63分に平野孝との交代でピッチを退いた。
試合出場までの出来事はよく覚えている。岡田武史監督の下、フランスワールドカップに臨むチームに呼ばれた。1月、オフを過ごしていたハワイに電話が入った後、鹿島の合宿を経由してオーストラリアに向かった。機内では「生き残りには、一度きりの勝負」と誓った。監督は中田英寿のパートナーを探している。そう感じた。北沢豪、森島寛晃といったポジションの近い選手とは「同じプレーをしていても仕方がない」とも。
カズ、中田……しかし試合の記憶はない。
現地に入ると、静岡学園つながりの三浦知良が気さくに声をかけてくれた。チームはやはり中田中心という雰囲気があり、先輩達も若きMFを立てる雰囲気があった。増田自身が年齢も近い中田の部屋に行くと、野菜嫌いを補うかのようなサプリメントがたくさん置いてあった。
試合の出場は当日告げられた。観客もまばらなスタンドだった。父が現地まで観に来てくれていた。合宿合流直後はチームの雰囲気を「Jリーグ選抜のよう」とも感じたが、パスポートチェックと国歌斉唱で確かにこれは、代表戦なんだなと自覚した。
しかし覚えているのはそこまで。理由はいくつかある。本人は「がむしゃらすぎて余裕がなかったんでしょう。悔しさもありますし」という。
時代背景もある。このゲーム、今では考えにくい「テレビ中継のない日本代表戦」だったのだ。フランスワールドカップ予選の「ジョホールバルの歓喜」を経て、翌年2月に招集されたチーム。当時19歳の中村俊輔も招集された。
そういった状況でも、試合は日本に中継されなかった。
周囲から試合のことを言われることも少ないし、試合の関連動画がインターネットで閲覧できるわけでもない。
もうひとつ、本人にとって“その他の日本代表”での記憶が鮮烈だったからだ。
「ジーコと共に戦える」という喜び。
若かりし頃の増田は、個人技に長けた、攻撃的MFだった。
「わざと2~3人に囲まれて、それをヒュッと抜いたりとかしてね。お客さんがわーっと沸くようなプレーをわざとしたりするような選手でした」
静岡学園出身。3年間、個人技術を徹底的に叩き込まれたが、無名のまま卒業した。全国大会出場歴なし、県選抜歴もなし。'92年の高校卒業時は、Jリーグが誕生する直前だった。名門高のつてで、日産(横浜マリノス)、全日空(横浜フリューゲルス)、住友金属(鹿島アントラーズ)に練習参加する機会を得た。いわば「テスト生」。そのうち、住金での練習で好感触を得た。母校の井田勝通監督からも「ポジションが重複する選手が少ないチーム」を薦められた。自身にとっては「ジーコと共に戦える」点が魅力的だった。
'93年に入団後、2年めから出場機会を増やした増田に、“日本代表”からの声がかかる。アトランタ五輪予選に挑む西野朗から招集を受けたのだ。'95年1月のことだった。
合宿地だったオーストラリアに行った。
同年代でスーパースターだった小倉隆史、前園真聖らがいた。しかし、当の本人にとってそれはまったく興味の湧かないものだった。
「オリンピックの価値、権威というものが全く分からなかったんですよ。そこに呼ばれるのなら、鹿島でレギュラーを獲りたい。そう思っていました」
五輪代表よりも鹿島が重要と思っていた。
当時の時代背景ならありうることだった。'73年生まれの静岡の高校生にとって、最高峰は「高校サッカー」。中高時代にJリーグは存在しない。日曜朝の欧州サッカーの録画中継には興味があった。一方、国内サッカーについて増田自身は'90年に三浦知良がブラジル・サントスから読売クラブに入団し、「日本リーグを少し観るようになった」程度。
日本代表はアジアでもがいていた。
アトランタ五輪は日本サッカー界にとって28年ぶりの本大会出場だった。だから、五輪でのサッカーを観たこともないし、イメージもない。
それ以上に、当時の増田にとっては自らのチーム、鹿島アントラーズが重要に思えたのだ。 レオナルドやジョルジーニョとトレーニングしたほうが、絶対に自分にプラスだと思っていた。当時の鹿島は4人の中盤のうち、両者に加え本田泰人という絶対的な存在がいた時代。1つのポジションを自身を含め7~8人で争うような状況だったが、それでも「鹿島でレギュラーになればフル代表に入れる」といわれた時代だった。そちらを目指したかった。
西野監督との面談で話したこと。
オリンピック代表に選ばれたことは光栄だったが、どうしても自分のなかでピンとこない。選手選考の競争に本気になりきれない。
そのうえ、現地に呼ばれても、試合での起用は限られた。増田自身、朝の散歩の時間に遅刻してしまう失態も犯した。
西野朗監督とも面談の機会を持った。
「キレが戻っていない」
そんなことを言われた。
鹿島アントラーズ始動前の合宿でもあったのだ。
しばらくは我慢の時を過ごしたが、ついに増田は西野に直訴した。
「ここで出られないんだったら、鹿島でしっかりレギュラーを獲ったほうがいいです」
つまり、日本に帰りたいと。
「それでいいのか?」と西野は聞き返した。
増田は「はい」と答えた。
翌日、現地の空港で時の日本サッカー協会強化委員田嶋幸三(現会長)に付き添われ、1人で日本に降り立った。
クラブハウスに直行すると2時間の説教。
チーム離脱。
この話題にスポーツ新聞が飛びつかないわけはない。すでに増田に対し「確執」「異端児」といった見出しが飛び交っていた。
帰国後、鹿島アントラーズのクラブハウスに直行すると、2時間の説教が待っていた。
「なんてことしてんだ! もう一生、二度と、代表には呼ばれないぞ」
クラブの上層部からこっぴどく叱られた。増田が想像するに、帰国までの間にも協会と鹿島の間でかなりのやりとりがあったようだった。
今思えば、「確かに当時の自分はちょっとナメた部分があった」と思う。自己主張が強い。'96年からチームを率いたブラジル人指揮官ジョアン・カルロスとは度々監督室に呼び出されるほど意見し、「おまえほど大変なやつはいない」と言われたこともあった。
離脱して本当に代表の価値を知った。
増田はこの時、「分かりました」と答えた。いっぽう内心でこう思った。
「だからこそ、もう一度、日本代表に選ばれよう。今度はフル代表に」
自分の感情を行動で示したことで、身近にいる自分を支えてくれていた人たちから強く意見された。その周囲の反応から「とんでもないことをしたんだな」と知った。
と同時に、逆にこんな感情も芽生えたのだ。
「スッキリしたんですよ。よし、じゃあ次に向かおうと」
周囲にはあまり見せることなく、筋力トレーニングに取り組んだ。チームメートだった秋田豊の助言を受けながら、大きな筋肉を鍛えるウェイトトレーニング、小さな筋肉を鍛えるチューブを使ったトレーニングに打ち込んだ。また、自ら課題とも感じていた後半の運動量低下をカバーすべく、ランニングも採り入れた。回り道的なテクニックを見せつけるよりも、ゴールに向かうプレーを意識づけた。鹿島にはいい手本がたくさんいた。
「なにくそ精神ですよね。今では西野さんとも言葉を交わすんですが、当時は『見返そう』という気持ちが芽生えていた。協会の方にも『生まれ変わってもう一度見てもらおう』と。良し悪しはあるでしょうが、本気になれたんです」
一方で、離脱をしたことで本当に日本代表の価値を知った。だから、もう一度戻る。そう誓ったのだった。
増田はちょっと大人になったかな、って。
そしてついに、'98年1月、増田は念願叶って日本代表に「戻った」。
'98年1月1日の天皇杯決勝で横浜フリューゲルスに3-0の勝利。4分に先制点を奪い、25分の2点めをアシストした。柳沢敦とともに新聞に「代表入り確実」とも書かれる活躍を評価されたものだった。
「サッカーに対する取り組み方が変わったことが伝わったんだなと思いました。増田はちょっと大人になったかな、と観て下さったんでしょう。同時に鹿島のスタッフの方々が協会のほうにかなり話をしてくださったのではないか、とも感じていました」
しかし、「日本代表に戻る」その目的は果たされたものの、その日本代表での2キャップめを刻むことは許されなかった。
超満員の横浜でのゴールと公式記録。
増田には、オーストラリア戦よりもはるかに強い記憶のあるフル代表での試合がある。'98月3月4日、横浜国際総合競技場で戦ったダイナスティカップの第2戦だ。
「横浜国際のこけら落としの大会だったんですよ。超満員でした。トップ下で先発して、40分にゴールも決めたんですよ。このゲームは結果が残せたこともあって、よく覚えています」
しかし、この試合の相手は「香港リーグ選抜」。フル代表同士の対戦ではない。公式記録では国際Aマッチにカウントされない。それゆえ、増田に刻まれた日本代表としての記録は「キャップ1」のままなのだ。
「中国戦、韓国戦では結局出場機会がなかったんです。そうすれば2つめが刻まれたんですが。
自分としては、力が通用しなかったとは思っていないんですよ。あの時のチームの中でも、ドリブルで仕掛ける部分では他の選手にはない特長があったと思います。でもそれを決めるのは、監督なんですよ。監督のチョイスによって決まる。ダメだったというのは現実。認めなきゃいけないことですよね」
フランスワールドカップのエントリーには残れず。その後、8月のサンフレッチェ広島戦で右すねを複雑骨折。復帰まで1年以上を要した。
「体がキレキレの状態だったんですよ。ピッチを飛んでるような感覚だったんですけどね。そういう時に限って怪我をするという」
'99年に復帰後、鹿島では小笠原満男とのポジションを争う形になった。出場機会が減少するなか、'00年に東京に移籍を決意。その後、'02年ジェフユナイテッド市原(現千葉)、'03年柏レイソル、'06年大分トリニータでプレーした。この年には腰痛に苦しめられリーグ戦3試合の出場に終わると、プロのキャリアに終止符を打った。2度めの日本代表キャップを刻む機会は、ついぞ訪れなかった。
引退後は大分で子どもたちを指導。
引退後、大分トリニータのスクールコーチなどを務めた。そのまま大分に留まり、現在は自ら設立したスクール「M.S.S.」で子どもたちに「徹底的に基本技術を身につける」とのスタイルでサッカーを教える。大分トリニータのゲーム中継時などには解説も務める。
日本代表キャップ1。これは増田にとって幸せな数字か否か。本人の人生にどんな影響を与えているのか。
「今、仕事をしていくなかで『元日本代表』という肩書がつくけど……実質上、人生のなかで日本代表にいたのは3週間から1カ月です。本当に元代表と言えるのか? そう思うこともありますよ。ただ、その当時の仲間とあの時期にやれたことは誇りに思います。代表に入ることもすごく難しいことだったんで、自信を持ってもいいことだと思いますけどね」
今の仕事でも肩書を使えることに感謝。
いまだ受け容れ方に戸惑っているのだろうか。答えは、少し長く続いた。
「キャップ1という数字はね、何かの大きな大会に出ていればもっと数字が延びたんだろうなとか、チャンスを活かせなかった当時の自分をもったいないなとか思ったりもしますよ。うんでもまあ、繰り返しになるけどそこまでの過程や、代表に入ることを考えたら……ありがたいことですよね。たとえ1であっても、本当に。
今の仕事でもその肩書を使えることに感謝しようって。だって解説の仕事でも『元日本代表』と言ってもらえますもん。恥ずかしい気持ちはあるけど、誇りは持とうって。評価してくれた人、周りの人がいてくれてこその結果ですから。そりゃキャップ100の選手とは経験は大きく違いますよ。うん、でも1を恥じていたら、今の選手にも失礼ですよね。胸を張って『俺は元日本代表』と言いますよ」
数字上は「1」しか残らない。しかし増田は若き日に主張を貫き、顧みるべきところは顧みた。弱点を補う決心に至り、それをプレーで表現し、周囲に伝えた。そうしてたどりついた「1」でもある。若いから許された。やり直しができた。周囲に支えられた結果。「1」の数字にはそんな意味が込められている。
「自分の色を出してやってほしい」
そんな立場から、現在の日本代表でプレーする選手に対してはこう思う。
「あんまり偉そうなことは当然言えないんですけど! 胸についている日の丸は当然重たいものですが、やりきってもらいたいですよね。本当にやれる選手が残る場所。それが代表ですから。
あとはできる限り、自分の色を出してやってほしいですよね。今のサッカーは監督の指示を守ることが重要視されているように見えるんですよね。昔の選手はもっと『俺が、俺が』と出ていったじゃないですか。ピッチ上の11人はパズルみたいな部分があって、組み合わせでいろんな絵が出てくると思っています。だから自分の特長を出して、子どもたちにいい影響を与えるようなサッカーをしてほしいなと思いますね」
いつの日かトップチームを率いてみたい。そんな希望もあるが、現在は大分の地でよい選手を育てることに集中する。100人を超える、大分のスクール「M.S.S.」の子どもたちにも伝えたいことがある。
「自分を超える存在が出てきてほしいですよね。つまり、日本代表キャップ2以上の選手ですよ!」
ジュニアを立ち上げて5年め、そしてジュニアユースを立ち上げ4年め、今年初めて“卒業生”を送り出す。その歩みは着実に進んでいる。この春、ギラヴァンツ北九州ユースや母校・静岡学園に進む選手もいるという。
代表より鹿島を優先した増田忠俊。「でも、1キャップに感謝しようと」