日刊鹿島アントラーズニュース
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2018年3月24日土曜日
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(5)
曽ヶ端準 前編
◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sporiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
広いミックスゾーンの中央で、昌子源と話していたガンバ大阪の東口順昭は、鹿島アントラーズの曽ヶ端準(そがはた ひとし)の姿を見つけると、サッと駆け寄り挨拶をした。短い言葉を交わしたのち、両手で曽ヶ端と握手する姿が印象深かった。
鹿島vsG大阪が行なわれた3月3日のカシマスタジアムでの光景だ。
「曽ヶ端さんをはじめ、(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)が長く活躍してくれているのは、本当に力になりますからね。もっともっと続けてほしい」
試合の行方を左右するピンチを救い続けた東口は、日本代表ゴールキーパーの先輩たちの名前を口にした途端、敗戦でわずかに硬くなっていた表情が一気に破顔する。
1998年、鹿島アントラーズに新加入した”高卒6人衆”。小笠原満男を筆頭に、世代別の代表にも名を連ねる高校サッカーの雄が揃っていた。曽ヶ端もその一員ではあったが、当時はまだ代表の守護神という立ち位置ではなかった。
曽ヶ端のプロのキャリアは、市川友也に次ぐ2人目の鹿島ユース出身選手としてスタートした。その後、1998年のAFC U-19選手権、1999年のワールドユースを経て、2000年にA代表デビューを飾る。2002年日韓W杯メンバーに入り、2004 年にはオーバーエイジ枠でアテネ五輪にも出場した。
鹿島での時間が曽ヶ端の進化を促したことは言うまでもない。ポジションは違えども、同期の活躍が後押しになっているのだろう。
***
――今季で、鹿島在籍21年目を迎えましたね。
「引退する選手もいるなかで、サッカーを続けていられることに幸せを感じます。僕はカシマスタジアムの近くで生まれて、育ちました。生まれた町にプロクラブがあり、そこでプレーできるなんていう幸せを味わえる人は、そう何人もいるわけじゃないでしょう? 同じ市ならまだしも、スタジアムが徒歩圏内ですからね」
――「ここにスタジアムができるのかぁ」と、子どもの頃は思っていたんですか?
「ジーコが住友金属サッカー部へ来たのが小学生の頃。スタジアムそばの小学校へ通っていました。そして、中学時代に鹿島アントラーズが生まれた。スタジアムもそうですけど、何もないところを切り拓くような感じでスタートしましたから」
――しかも、地元のクラブが国内有数のビッグクラブというのも幸せですよね。
「確かにそうですね。強くなければ、ここまで大きなクラブにはなれなかったと思いますね」
――鹿島中学から鹿島ユースへ。やはり、プロになるなら下部組織でという気持ちが強かったのでしょうか?
「プロになるという夢みたいなものはあったかもしれないけれど、ほかのポジションなら僕は違う選択をしていたと思います」
――ゴールキーパーだったから、というのは?
「当時の部活でゴールキーパーコーチがいる環境は少なかったと思うし、地元でそれを求めるとなれば、自然と鹿島しかなかった。だから一番の理由は練習環境でしたね。僕がユースへ入った年、兄貴が進学した鹿島高校が初めて高校選手権に出場したんですよ。僕の中学の同級生も出ました。
僕らが小学生だった頃はまだプロリーグがない時代で、サッカーを始める動機なんて『選手権に出て、国立競技場に立ちたい』が一番だったから、複雑な心境でしたね」
――そしてプロ入り。もう何度も曽ヶ端選手がお話しされていますが、そこで「~ら」問題が……。
「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」
――ゴールキーパーは勝敗に直結しやすいポジションです。極端な話、失点しなければ負けることはないですから。プロとしてその重責を担っていると実感したのはいつですか?
「デビュー戦(1999年5月アビスパ福岡戦)で勝利したあと、3連敗してポジションを失いました。そこから1年以上Jリーグでの出番がなかった。自分の実力のなさを痛感しましたね。ゲームのなかで何もできなかった。いつも前の選手に助けられているところがあった。だから、試合に出られないのはある意味納得できました。3冠を達成するチームを見ながら、結果、勝利へのこだわりは自然と強くなったと思います」
――2001年にレギュラーを獲得し、そこからリーグ優勝は3連覇を含む5回、ナビスコカップが4回、天皇杯3回。個人では出場500試合達成、連続フルタイム出場試合数244試合を達成するなど、Jリーグの歴史に名を残すゴールキーパーになりました。
「昔は試合に出たら、自分がいいプレーをしなくちゃいけないと思っていました。だから、チームが3点取っても1失点したら、『あぁ~やられたぁ』と落ち込んでいました。いつもとにかく無失点にしたいというふうに考えていた。
もちろん、今もゼロにする、無失点で抑えるほうが勝利には近い形ではあるけれど、今、僕が大事にしているのは、『いかに勝ち点3を取るか』ということです。ゴールキーパーに限らず、フィールドの選手も含めてミスはあること。だから、失点しても、気持ちを持ち直せるようになりました」
――キーパーは自分のミスを取り返すのがほとんど不可能ですよね。得点をあげるという意味においては。
「可能性はゼロではないけれど、その通りですね。ゴールキーパーの後ろには守るべきゴールがある。その前に立つプレッシャーは、ゴールキーパーにしかわからないと思います」
――35歳を過ぎれば、身体に変化も生じると思います。今年で39歳になる曽ヶ端さんが、ゴールキーパーとして大事にしていることは?
「キーパーとしては技術も身体能力も重要です。年齢を重ねれば、昔と同じというわけにもいかない。だけど、それをカバーできる経験もあります。うまくディフェンダーを動かすことでも補える。この仕事の難しさは今も日々感じています」
――メンタル面での成長も大きいのでしょうか?
「メンタルは絶対に大事ですね。いつからかわからないけど、『チームの状況に左右されたらダメだ』と考え、それができる試合が徐々に増えていきました。昔なら、(攻撃陣の)簡単なシュートが決まらない。そういうのを後ろで見ていて、イライラしてしまうこともありました。それが自分のプレーに悪影響を与えてしまうんですよね。
今ではディフェンダーの選手に、昔の自分の姿を見るような気持ちになるときもあります。そんなときはひと声かけるようにしています」
――チームメイトとの関係性も変わりましたか?
「試合に出始めたころは、秋田(豊)さん、奥野(僚右)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、前にいるディフェンス陣にはさまざまな点で助けてもらいました。プレーもそうだし、守備範囲のカバーだったり、かけてもらう言葉だったり。
今は(昌子)源やナオ(植田直通)をはじめ、みんな年下です。だからといって、いつも僕が何かをしてあげているわけでもなくて……。源たちに助けられることも多いし、中盤やフォワードの選手に助けられることもあります。それはチームとして当然のこと。誰かがミスをしてもカバーできれば、ミスがミスにならない。そういう気持ちが大切だと思います」
(つづく)
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