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プロ3年目にして、鹿島アントラーズ栄光の10番を背負う安部裕葵。
昨年はU−19日本代表でもエース番号を背負い、U−20ワールドカップへの出場権獲得に貢献したが、小・中学生時代はまったくの無名で、全国大会に出場したのも瀬戸内高校3年時のインターハイが最初で最後だった。
そんな選手がなぜ、プロになり、頭角を現せたのか――。
プロになるまでの歩みと不屈のメンタリティの源を探った。
FC東京のセレクションを受けるレベルではなかった
――「まったく実力のない選手だった」ということですが、昔の話も聞かせてください。お兄さんもサッカーをしていたそうですね。サッカーを始めたのは、やはりお兄さんの影響ですか?
「そうですね。兄がやっていたので、真似して始めたという感じです。小学生時代、兄が城北アスカFCに入っていたので、自分もそこに入ったんです」
――ここに昔の記事があって、北区少年少女サッカー大会の決勝で、安部選手が4得点の活躍で城北アスカFCを優勝に導いた、と書かれています。
「懐かしいですね。覚えてます、覚えてます」
――地元では有名なサッカー選手でした?
「いや、全然そんなことないです。たまたまです。小学校6年間で僕が一番輝いたのが、この試合だっただけで」
――最終学年の決勝で一番輝いたんですね。
「そうなんです。だから、持ってましたね(笑)」
――小学校では、FC東京の岡崎慎選手と同級生だったそうで。
「同じ小学校で、仲が良かったです」
――彼は中学に進学すると、FC東京のアカデミーに入りました。一緒にセレクションを受けたりすることはなく?
「いえ、自分がそのレベルに達していないことを理解していたので、受けることすら、してないです。誰がどう見ても、セレクションに受かるレベルではなかったですから」
中学のときは親の敷いてくれたレールに乗るしかなかった
――帝京FCジュニアユース(現S.T.FOOTBALL CLUB)に加入したのは、ご両親の勧めだったそうですね。
「そうです。親に『ここ、いいんじゃない?』と言われて、セレクションを嫌々受けましたね」
――嫌々というのは?
「サッカーに対する向上心はあったんですけど、中学の部活に入るのは嫌だなと思っていて。でも、本当に大した選手ではなかったので、セレクションを受けてもどうせ落ちるだろうな、と思っていたんです。それでも両親に背中を押されて受けてみたら、受かって、自然と入る流れになりましたね」
――ご両親は、サッカーにすごく熱心だった?
「どうですかね……。ただ、心配性なので、僕の進路とか将来に対して、レールを敷いてくれるタイプですね」
――では、中学時代のサッカーに関しては、敷かれたレールに乗ったと。
「もう、乗るしかなかった。自分に力がなかったので」
高校進学で「広島はダメ」という親の反対を押し切る
――高校は広島の瀬戸内高校に進学します。ここで敷かれたレールから降りた?
「そうですね。このときが初めてです、自分の希望を押し通したのは。中学を卒業するとき、3校くらいから声を掛けていただいて。僕は寮生活がしたかったから、広島に行きたかったんですけど、親は寮生活に反対で、広島はダメだと。それに、ほかの2校のほうがサッカーで有名な高校でしたから、そっちに行け、と言われたんですけど、僕が嫌だと言って」
――そこで初めて自分の意見を曲げなかったのは、なぜですか?
「ずっと嫌だったんですよ。自分の力で生きていきたいと思っていたので。うちの家族は、兄は穏やかなんですけど、父も母も僕も主張が強くて、意見がなかなか通らなくて。だから、広島に行くことが決まったときは、やっと寮生活ができるぞって。高校時代はホームシックも一切なかったです」
――瀬戸内高校を選んだ理由として、過去のインタビューに、高3の夏に広島でインターハイが開催される。開催地は2校出場できるから、インターハイ出場を狙って選んだ、というようなことを話していますよね。たしかにプロを目指すなら、高校3年の冬の選手権ではなく、夏のインターハイがリミットだから、そこへの出場を睨んで進路を決めたというのは、賢いなと思いました。
「それだけが理由ではないですけどね。いろんな情報を集めて、自分にとってどこがベストかを考えて、最後は直感で、広島に行こうって決めました。小さい頃から、勉強がすごくできたわけじゃないですけど、先を見越していろいろ考えるのは得意でしたから」
親が働いている姿を見て、プロを目指すスイッチが入った
――小学生時代は「まったく実力のない選手だった」と話していましたが、いつ頃から本気でプロを目指すようになったんですか?
「それはたしか、中2の10月くらいだったような気がします」
――何がきっかけで?
「進路、どうしようかなって考えていて……いや、でも、結局は親が働いている姿を見て、ですね。親は自分が思っているよりもすごく働いていたし、しかも僕はクラブチームでサッカーをしていたから、お金も相当掛かっていたと思うんですよ。たぶん、そういうことを考えられるようになったのが中2の秋くらいで、自分の中でスイッチが入ったというか」
地方から出てきた成り上がりのほうが強い……僕は東京育ちですけど(笑)
――高校の3年間、「絶対にプロになる」という想いは、少しもブレることなく?
「いや(苦笑)」
――ブレたんですか?(笑)
「ブレることはなかったですけど、うまくいかないことはたくさんありました。でも、僕は小さい頃から、ダメでもいいや、っていう精神なので」
――とにかく、ぶつかっていく。
「そうです。だから、挫折を味わったこともないです。どれだけ相手にボコボコにされようが、もともとうまくいかなかったタイプなので、なんとも思わないんです。だから人生って、育ちの良いお坊ちゃんより、地方から出てきた成り上がりのほうが最終的に強いんじゃないかな、と僕は思います。まあ、僕は東京育ちですけど(笑)」
――そうですよね(笑)。でも、東京から、成り上がるために広島に行ったと。
「はい。そういったハングリーさは、この職業には絶対に必要だと思います」
実家にいたら……プロになれてないと思う
――高校3年のインターハイでベスト8に進出すると、その後、鹿島から声が掛かりました。声を掛けてもらえるという自信は?
「いや、僕は何も考えてなかったです。そもそもJ1から声が掛かるとは思ってなかったですし、J2でもJ3でも声を掛けてもらえたら行こうかなって。でも、高校の先生から『J2やJ3には行かせられない』と言われて、それなら浪人してでも勉強して、良い大学に入ろうかなと考えていたので。本当に、ダメでもいい、という考えが自分の中にはあるので、プロに行けなかったとしても心が折れることなく、前向きに人生を歩めていたと思います。そこは自分の強みです」
――瀬戸内高校での3年間で成長を遂げ、念願のプロ入りを掴んだわけですが、振り返ってみて、自分はなぜ、プロになれたと?
「難しいですね……。でも、僕は実家にいたらプロになれてないと思います。たぶん自分がプロになれた理由は、親元を離れ、自分で考えて、自分の足で人生を歩んだからなんじゃないかって。でも、それは自分の場合であって、ひとりになったらダメになる人もいて、その場合は親に厳しくされたほうがいい。だから、自分の能力を発揮できる環境を見つけることが大事だと思います。もちろん、そうした環境に身を置けたとしても、全員がプロになれるわけではないですけど、サッカーに限らず、ほかの仕事であっても、まずは自分のことを理解する。そして、どんな環境に身を置くべきかを素直に考えられれば、人生は良い方向に行くと思います」
プロになれなかったらサッカーを辞めて、良い大学に入るつもりだった
――高校を卒業する時点でプロになれなかったら、浪人してでも良い大学に進学するつもりだったということですが、その場合、大学ではサッカーを辞めるつもりだったそうですね。それは本音ですか?
「はい。そういうつもりでした」
――絶対にプロになろうと、自分を追い込んだわけじゃなく?
「もう本当に。兄も大学ではサッカーをやってなかったので、自分だけが続けるのも、っていう気持ちもありましたし。あと、親を見返したいという気持ちがすごくあったので(笑)。ここまでやったぞ、って示したかった。だから、もしプロになれなかったら、本気で勉強して、良い大学に入って、頑張ったなって。そういうメンタルは、今でもすごくありますね。親を納得させたいというか。親は超えたいですよね、絶対に」
――何くそ、というような。
「はい。そういったハングリーさは、自分には途轍もないくらいあると思います」
東京五輪もW杯も目指すのは大事なことだけど……
――では、最後に。先のことは考えないタイプだということは承知のうえで、うかがいます。1年半後に、生まれ育った東京でオリンピックが開催されます。また、昨年6月のロシア・ワールドカップを現地で観戦したそうですが、それによって3年半後のカタール・ワールドカップへの想いも膨らんだのではないかと思います。このふたつの世界大会について、どう思っていますか?
「もちろん、そういう世界大会を目指すのは大事なことだし、そこに向けてコンディションを合わせるのは、サッカー選手として当然のことだと思っています。ただ、Jリーグだろうと、クラブ・ワールドカップだろうと、アンダーの代表の試合だろうと、規模が大きい、小さいなんて考えず、すべての試合に最高のモチベーションで臨んでいて。そういう意味では、試合も練習も、あまり変わらないと思っていますし」
――練習も試合と同じテンションで臨んでいると。
「そうですね。それは自分に合った考え方なので、人それぞれでいいと思いますけど。僕は、いつか来るチャンスを掴めるように、日々準備を続けているので。その結果として、オリンピックやワールドカップといった大舞台に強い選手になれればいいかな、と思っています」
――毎日準備を怠らず、目の前の試合でベストを尽くせば、オリンピックやワールドカップは自ずと近づいてきて、そのピッチで結果を出すことにも繋がっていく。
「はい。僕はいつも、そういうテンションでやっています」
◆◆◆
まるで30半ばのベテラン選手と話しているようだ――。
インタビュー中、こんな錯覚に陥った。とにかく落ち着いていて、しっかりとした考えを持っている。また、彼自身も武器だと認めるハングリー精神や折れないメンタリティは、何度も壁にぶつかりながら、乗り越えるたびに逞しくなっていった本田圭佑や長友佑都に通じるものがある。
そのハングリー精神は、家庭環境や寮生活によって育まれた部分が大きいと思うが、実は、安部が中学時代に所属した帝京FCジュニアユースは、彼が中学2年のときにS.T.FOOTBALL CLUBと名前を変え、本田のマネジメント会社が経営に携わることになった。安部自身は「本田さんとは一度ミニゲームを一緒にやっただけで、すぐに終わっちゃいました」と交流はなかったと言うが、このとき、本田は夢を持つことの重要性について説いたそうで、その影響も多少なりともあるのかもしれない。
いずれにしても、安部に将来、ヨーロッパでプレーするためのメンタリティが備わっているのは確かだろう。鹿島アントラーズとU−20日本代表の背番号10、安部裕葵のプレーに注目しておいて損はない。