日刊鹿島アントラーズニュース

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2019年5月12日日曜日

◆安西幸輝は三竿健斗に先を越されて奮起。 劇的変化で鹿島入りを決めた(Sportiva)






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遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(42)
安西幸輝 前編 

 マレーシア・ジョホールバルでのACL第5節、グループ最下位のジョホール・ダルル・タクジム対鹿島アントラーズ戦。鹿島は引き分けでグループ突破を決められる状況だったが、試合の主導権を握ったのはホームのジョホール・ダルル・タクジムだった。

 気温28度、湿度88パーセントという気象条件は両チーム同じとはいえ、ホームチームが有利なのは言うまでもない。相手に押し込まれた前半をなんとか0-0でしのいだ鹿島だったが、後半24分に失点し、試合はそのまま終了。鹿島のグループリーグ突破は最終節まで可能性を残したものの、この敗戦で1位突破を逃すことになった。

 ホームでのリーグ開幕戦を落としたものの、3月1日から4月9日まで公式戦8戦負けなし。ゲーム内容が伴わなくとも勝ち点を拾うことができていた。しかし、4月14日のFC東京戦以降の公式戦6試合では2勝4敗と負け越している。

 その理由には、小笠原満男、西大伍、昌子源といった選手の不在が挙げられている。新たなキャプテンとなった内田篤人も負傷離脱している。負傷で言えば、山本脩斗や中村充孝、鈴木優磨、チョン・スンヒョンもいない。三竿健斗も長期離脱から復帰したばかり……。リーダー不在はもちろん、多くの主力を欠いている状態だった(中村とスンヒョンはそれぞれベンチ復帰)。

 前線でのボールロスト、カウンター攻撃への対応の悪さ、セカンド・ボールが拾えない。落ちるシュートやパスの精度……。そんな個人のプレーや判断のミスが生じても、それをチームでカバーすることで、勝利に近づけるが、現在の鹿島は、個人のミスをカバーする組織力も発揮できてはいない。そんな内容の拙さは選手たちも理解し、誰もが危機感を抱いているのは間違いない。「勝たなければ鹿島ではない」という歴史を担いながら、もがいている。

 クラブ創設以来つないできた「勝者のDNA」は、結果が伴わなければ、指揮官や選手を苦しめるものになってしまう。それでも、それを受け継ぎたいと集った男たちは逃げることは許されない。

 昨季、東京ヴェルディから加入した安西幸輝は、60試合を戦ったシーズン、50試合に出場している。本来の左サイドバックだけでなく、右サイドバック、両サイドハーフなど、さまざまなポジションでの起用は、大岩剛監督からの信頼の厚さを物語っていた。そして、2019年3月には日本代表に初選出され、2試合に出場。そんな安西は小学生時代から、高いレベルに身を置くことで成長してきた。衝撃と自信と落胆とを繰り返しながら、ステップアップを続けている。





――埼玉県川口市出身の安西選手が東京ヴェルディのジュニアの一員となったのは? 地元の浦和レッズへの憧れはなかったのでしょうか?

「レッズへの憧れはありましたし、レッズへ行きたいとも思っていました。でも、少年団でコンビを組んでいた澤井直人(フランス2部リーグ・ACアジャクシオ)が、小4のときにヴェルディのセレクションに受かったんです。それが前期セレクションだったんですけど、『後期のセレクションを受けて、いっしょにヴェルディでやろう』と誘われて。僕がFWで、澤井がトップ下でコンビを組んで、やってきたから、澤井とサッカーを続けたいと思って、僕もセレクションを受けたんです。レベルの高いチームでプレーしたいとか、そういう考えはまったくなくて、ただ、いっしょにやりたいって」

――ヴェルディと言えば、名門チーム。そこのセレクションに受かるというのは、子どもながらにすごいなというふうには思わず?

「最初は思わなかったですね。でも、行ってみたら、みんなうますぎて、驚きました。ヴェルディのジュニアは小学4年生からなんですけど、少数精鋭だったし、みんなサッカーがうまいだけじゃなくて、個性も強かった。1個上には(中島)翔哉くん(アル・ドゥハイルSC/カタール)もいましたし、自分を出さないと生き残れない感じの世界でしたね。だけど、ジュニア、ジュニア・ユース、ユース出身でプロになった選手もたくさんいたので、ここにきてよかったなと思いました」

――そのときから将来はJリーガー、プロになると夢見ていたんですか?

「まったくそれはなかったです。ただチームメイト、同期に負けたくないという気持ちだけでした。でも、小学時代の僕は周りよりも成長が遅くて、足も遅いし、スピードがなかった。だから、FWではなく、ボランチでプレーしていました。一応スタメンで試合には使ってもらうんですけど、自分の思い通りのプレーが全然できなかった。パス&コントロールの練習を必死でやったりもしたけれど、少年団でやっていたように自分主体でのプレーができない。当時は泣き虫だったから、練習中からずっと悔しくて泣いてばかりでした。ときには、感情的にキレてしまって、練習途中で帰ったこともありました。チームメイトにはものすごく迷惑をかけてましたね」

――自宅から、ヴェルディの練習場まで通うのも大変でしたよね、きっと。

「はい。片道2時間くらいかかりました。だから、自然と睡眠時間が足りなかったんだと思います。小学生時代は学校の理解もあり、早退することも多かったし、授業にも出られず、保健室で過ごす時間も多かったし、当時の担任の先生には苦労させてしまいました。疲れというか、寝不足のストレスだったんだと今は思います。だから、クラスメイトに当たってしまい、喧嘩することもありました。でも、クラスメイトも僕のことを理解してくれて、宿題を手伝ってくれたり、本当に助けてもらいました。で、小学6年生のときに、すべての全国大会に優勝して、世界大会(ダノンネーションズカップ)にも出場できたんです。そのときにクラスメイトが喜んでくれる様子を見て、初めて応援してくれる人のありがたさを感じました。それまでは、サッカーは自分のためだけにやっていたんですけど。もっとちゃんとやろうと考えるようになったんです」





――そして、中学進学と同時にジュニア・ユースへ。

「でも、当初は昇格できないと言われていたんです。まだ身体も小さかったし。だけど、ジュニアの永田雅人監督(現・日テレ・ベレーザ監督)が、『きっと伸びるから』と言ってくださって、期待枠みたいな形で、ジュニア・ユースへ上がれたんです。実際、中1、中2で身長も伸びました。ポジションもサイドハーフやトップ下などでプレーしていました。試合には出ていたけれど、ユースへ上がれたとしても、試合には出られないかなと思っていました。だったら、高校でサッカーをしたほうがいいんじゃないかなと思っていたときに、都並敏史さんから『サイドバックをやってみたらいいよ』と言われて、ヴェルディでサッカーを続けようと決意しました」

――まだプロは意識していないんですか?

「してませんね。すごい先輩がいたことも事実ですが、同期のメンツもすごかったので。澤井はもちろんですが、畠中槙之輔(横浜FM)、菅嶋弘希(ポルティモネンセSC/ポルトガル)、高木大輔(レノファ山口)がいて、プロは厳しいと思わずにはいられなかった。でも、高1になると、スピードが上がり、足も速くなったし、試合にも出られるようになり、徐々に自信が生まれてきました。当時の監督は、僕をサイドバック以外にも、ボランチなどいろんなポジションで起用してくれたんです。昨季のアントラーズみたいに。さまざまな経験を積めて、勉強できたことがよかった。それで2年になると副キャプテンもやらせてもらい、責任を感じるようにもなりました。そこから一気に成長を実感できたので、夏頃には、トップチーム、プロへ行けると思うようになりました」

――安西選手が加入した2014年シーズンは、畠中、菅嶋、高木、澤井の4選手。合計5名の同期がトップ昇格を果たしたんですね。でも当時のヴェルディはJ2でしたし、いつかはJ1のクラブへ移籍をと考えたことは?

「なかったです。ヴェルディに育ててもらった僕らでヴェルディをJ1へ昇格させて、恩返しをしたいと考えていたので。正直ヴェルディ以外のクラブにはまったく興味がなかったです。それに、すぐに試合に出られるとも思えなかった。ベンチに入れればいいなとか、クビにならないように頑張らなくちゃいけないという気持ちでした。それが開幕戦から試合に出られて、その後もずっと出場を続けるなかで、だんだん意識が変わりました。『とにかくもっと上のレベルでやりたい。J1でプレーしたい』と考えるようになったんです。もちろん、ユース時代と比べれば、J2でもプロならではの難しさはあったし、できないこともいろいろありました。だけど、『もっと』という欲が生まれたんです」


――そのころ、プレミアリーグのウエストハムの練習にも参加していますね。

「はい。2週間いきました。1週間練習したトップチームとは差を感じましたが、U-21チームの練習では18歳の自分でも可能性を感じることができた。2年目、3年目もレギュラーとしてプレーしていくうちに、自分はやれるという気持ちがどんどん大きくなって、やりたいことが多くなり、自己中心的なプレーが増えていったんです。いつでもJ1へ行けるくらいの気持ちだったけど、それは過信だったと思います。だから3年目はケガでもなく、スタメンを外されてしまった。それで気づきました。自分の能力を過大評価しすぎていたって」

――その3年目となる2016年シーズンは、ヴェルディで1年下の三竿健斗選手が鹿島へ移籍加入したシーズンでしたね。

「ジュニア時代からいっしょにやってきた健斗は、U-17ワールドカップのメンバーにも入ったし、アンダーカテゴリーの代表にも招集されていた選手。それが認められたのか、鹿島への移籍が決まりました。しかも、『あの』アントラーズ。強いクラブというイメージしかなかったし、いいなぁという気持ちもありました。あのときは、本当に悔しかったですね。僕のほうが先に(J1へ)行きたかったから。だけど、そんな気持ちも自分を過大評価していたから。それを改めて、意識を変えようと決意したのが4年目だったんです。食事の内容、睡眠時間、ピッチ以外の面で、サッカーへつぎ込む時間を増やしていきました」

――そして、その4年目の終わりに、アントラーズからオファーが届くんですね。川崎フロンターレからもオファーがあったと聞きましたが。

「はい。最初はJ1へ行けるなら、クラブはどこでもいい。というような気持ちだったんですけど、鹿島から声をかけてもらったら、迷わず鹿島へと決めました」


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