日刊鹿島アントラーズニュース

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2019年6月28日金曜日

◆伊藤翔は海外→日本の移籍で苦労 「小野伸二さんに教育してもらった」(Sportiva)



伊藤翔 Sho.Ito


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遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(45)
伊藤 翔 後編

 数少ないチャンスで得点し、1-0のまま逃げ切る。

 6月18日AFCチャンピオンズリーグ、ラウンド16ファーストレグの対サンフレッチェ広島戦を、その代名詞とも言われるスコアと試合運びによって勝利で終えた鹿島アントラーズ。ACLディフェンディングチャンピオンにとっては、相手にアウェーゴールを与えずに勝利するという使命を果たした。

 昨季の同大会決勝トーナメントもすべて、ファーストレグ第1戦をホームで戦って勝ち上がった(ラウンド16・上海上港戦3―1、準々決勝・天津権健戦2-0、準決勝・水原三星戦3-2、決勝・ペルセポリス戦2-0)。その際、ホームでの失点がセカンドレグを苦しい試合にしてしまう……という経験をしている。ホームアンドアウェーでの2戦を戦う180分の試合と考えるにしても、アウェーゴールは通常の試合とは違う重さがある。

 最初、攻勢に出た鹿島だったが、時計の経過と共に、広島も勢いを増していく。ボールをつなぎ攻め込んでくる相手に対しても、鹿島は慌てることがなかった。そして、それは24分に鹿島が先制点を決めると、さらに継続され続ける集中力もあった。

「前線からの守備もハマっていた。いい守備の形ができていたし、相手も困っていたと思う。今日ぐらいできれば相手も自由にプレーできなくなる。これを続けていくことが大事」と犬飼智也が語っている。前試合のセレッソ大阪戦後に三竿健斗がわかったと言っていた「自分たちの守りやすい形」をうまくピッチで表現できたのだろう。

 73分に鹿島は最初の交代カードを切る。左サイドバックの安西幸輝に代えて、町田浩樹を送り込んだ。「1枚目の交代はアクシデント」と語ったうえで、「1-0のままでいいという考えはなく、当然、得点を狙うことも考えていた。同時に無失点で終えることも重要で、そのバランスを考えて交代のチョイスをした」と大岩剛監督が語る。

 町田の本来のポジションはセンターバックだ。この交代で「無失点」という意識が強くなったのかもしれない。この時点で広島のベンチにはまだパトリックがいる(74分に川辺 駿に代わり途中出場)ことを考えれば、先手を打つという意味合いもあったのかもしれない。この頃から広島の猛攻は強まっていった。そして、鹿島の反撃のチャンスもまた少なくなった。

「早い時間帯でリードしたので、選手たちの『しっかり守備をしてから攻撃』という意識が高まり、そういう状況になったと思う。しっかり分析して、第2戦に備えたい」と大岩監督。

 1-0という最低限の結果を手にはしたが、「追加点がほしかった」という消化不良感も残る試合だった。特に86分に退場者を出した広島に攻め込まれ続けたというのも後味は悪い。

「相手が10人になってから押し込まれる時間もあった。そこでギアを上げ、点を取りに行くという姿勢を見せたかった。もう少し守備の部分でもできるところはあったと思う」

 先発出場を果たした遠藤康は、淡々とそう試合を振り返った。

 1-0という意識で第2戦を迎えてはならない。広島の選手に限らず、鹿島の選手も同様だろう。だからこそ、6月25日の広島での試合は、先制点が重要な試合になる。

愛知県の中京大中京高校時代、練習したプレミアリーグ、アーセナルFCで当時指揮を執っていたアーセン・ベンゲル氏から高い評価を受け、「和製アンリ」と呼ばれたのが伊藤翔だった。当然、高校卒業後の進路には注目が集まる。2007年1月、彼はフランスリーグ当時2部だったグルノーブルでプロのキャリアをスタートさせた。日本人がオーナーを務めた同クラブには当時、大黒将志や梅崎司が在籍し、のちに松井大輔もチームメイトとなった。




しかし、度重なるケガにも泣かされ、3シーズン半の在籍中、リーグ戦に出場したのはわずか5試合にとどまった。2010年6月清水エスパルスへ移籍し、2014年シーズンからは横浜F・マリノスに所属。エスパルスで同僚だった白崎凌兵とともに今季から鹿島アントラーズに加入した。Jリーグを経由することなく、欧州でプロデビューした高卒選手というキャリアは伊藤にどんな影響を及ぼしたのだろうか?

――30歳になり、ご自身のキャリアを振り返ったときに、欧州でプロ生活をスタートしたことをどう感じていますか?

「まずは選手寿命が延びたことじゃないですか? 高校を出てそのままJリーグに入って、一瞬でいなくなる可能性も、もちろんあっただろうから。でもまあ、本当にいろいろありましたから」

――「和製アンリ」と騒がれていたときの騒動はどんなふうに感じていましたか?

「特にどうこうということはなかったです。先のことをあまり考えるタイプじゃないので。とりあえず1日1日頑張ろう、やれることをやろうと思っているだけで。もちろん、ヨーロッパでプレーし続けられたら良かったとは思いますが、とりあえず、ここまでプロとしてなんとかやってこれたという感じもありますし、清水、横浜、鹿島とステップアップしてきたというキャリアには自分でも驚いています」

――グルノーブル時代、ケガとの闘いをはじめ海外生活の苦闘というのがあったと思います。Jリーグで心身共にプロとしての土台を作ることなく挑戦した舞台だから、厳しさも増したんじゃないですか?

「うーーん。でも、結局は自分次第だと思うんですよ。確かにJリーグにいたほうが、いろいろと気にかけてくれる人や言ってくれる人が多いかもしれない。でも、言葉をかけてもらっても、気づけるかどうかというのは、自分次第だから。もちろん、グルノーブルにオグリさん(大黒)さんや松井さんといった先輩がいてくれたのは力になったし、田辺和良さんという当時のGMにも本当にお世話になりました」

――大きなケガをしてしまったというのも、考えようによっては、若いうちから身体に気を配れる良いきっかけと考えることもできますね。

「そうですね。学生時代は身体のことなんて、考えなくても大丈夫だったじゃないですか? でもプロになったら、負荷がまったく違うから、何もしないままだと通用しない。やらないと、このまま終わっていくなというのは感じましたね。それで1年くらいでケガをしてしまったので、さらに危機感は強くなった。ただ、フランスにいたときは、自分の身体の仕組みや形というのをわかっていなかったんだと思います。だから、復帰までに時間もかかりました。長く現役でプレーし続けるのであれば、身体のケアというか、自分のことを知っておかなくちゃいけない。自分が人からどう見られているのかも含めて。そう考えると、松井さんをはじめ、日本へ戻ってきてからも、いろんな人との出会いがあったからこそ、ここまでやってこられたんだと痛感しますね」

――清水へ移籍したときに苦労したと話していましたが。

「海外から、日本に帰ってきたときは、いろいろなシステムや習慣、考え方も違うので、清水で学んだことは大きいですね。小野伸二さんにかわいがってもらって、日本の社会はこうなんだ、というのをしっかり教育してもらいました(笑)」

――帰国子女みたいな感じですね(笑)。

「同時に身体を作り直すところからスタートしなくちゃいけなかったんです。自分のプレーを考えたときに、たくさん筋肉をつけて、重くなると動けない。それをわかりながらも、フランスではトレーニングをやらされるし、自分自身でも、向こうの筋骨隆々の選手を見て、『自分もやらなくちゃ』と思ったし、自分を見失ってしまったような感じだったんだと思うんです。だから、身体のバランスも悪くて、ケガをしたと思うんですよ」

――そして、横浜を経て、鹿島への移籍。30歳での新しいチャレンジとなりました。ひと昔前であれば、30代に入ると「引退」と言われる時期もありましたが……。

「そうですね。でも、いつの間にか、Jリーグでの選手寿命もとても長くなりましたからね。40歳くらいまで戦っている人も少なくないですから。横浜では(中澤)佑二さんや俊さん(中村俊輔)もいましたし、うちにもソガさん(曽ヶ端準)がいる。上の人たちが頑張ってくれることで、選手寿命が延びることは本当にいいこと。だから僕自身も、30歳だからというふうに年齢を気にすることはまったくなかったです」





――いろいろな経験を経て、脂がのった時期とも言える。日本で2度目の移籍で気を配った点というのはありましたか?

「それも特にはありません。清水へ加入したときが大変だったから、そこで学んだことが大きく、アジャスト能力が身についたんだと思います。まあ、僕自身の年齢も上になり、自分よりも上の選手が少なくなってきたのも大きいのかも。今も朝ロッカーへ入るときは、年齢が上の選手だけを見ています(笑)。逆に今までチームメイトに同級生がいるというのが意外と少なかったんですけど、鹿島には(永木)亮太とヤス(遠藤康)がいて、こんなに仲良くなるとは思わなかった。ヤスのことは15歳くらいから知っているけれど、亮太とはお互いの存在は知っていても話したことはなかったから」

――そういえば、鈴木優磨選手と食事に行かれたと話していましたが、お二人はいわゆるライバル関係ですよね(笑)。

「確かに同じポジションですけど、だからといって、ライバル視してバチバチやっているってことはないんです。マリノス時代にも(同ポジションだった)ウーゴ・ヴィエイラとは年齢も同じで、とても仲良くしていました。その出会いが大きいですね。選手としても尊敬できるし、人間としても苦労してきたウーゴには深みもある。マリノスは1トップシステムだったので、あいつが出れば、僕が出られないという関係ではあったけれど、試合に出れば、頑張ってほしいと思えるし、僕が出れば、あいつの分もと素直に思える。普通FWって、自分が点を獲りたいという気持ちが強いから、あんまりそんな関係は築けないんですけど。でも、自然と仲良くなった。ウーゴも不思議がっていましたね。でも、同志なんですよ。だから、わかり合えるところも多いんです。優磨がどう思っているかわからないですけど、僕は早く優磨といっしょにプレーしたいです」

――鹿島は2トップシステムですからね。

「僕自身、1トップよりも2トップのほうが好きだし、もともとは2トップの選手なので。そういう意味では、鹿島は(2トップなので)やりやすい。そもそも試合に出られる可能性が2倍になりますから(笑)。どこのクラブでもFWには力のある外国人選手が補強され、ポジション争いをしなくちゃいけないのは、FWの宿命。日本にいても外国人と競わなくちゃいけないんです」

――今、新星鹿島と言われていますが、どんな影響をチームメイトに与えたいと思っていますか?

「チームを勝たせられるポジションにいるわけだから、その仕事への意識は強いです。鹿島は勝ってなんぼのチームだし、プロは勝ってなんぼの世界だから。若手に与える影響というか……、困っている選手や悩んでいる選手に何か言ってあげられることもあるかもしれないけど、若い選手はみんなしっかりしているから。でも、まずは、しっかり結果を残すことが一番大事。そうして初めて、僕に話を聞いてみようというふうになるだろうから」

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