日刊鹿島アントラーズニュース

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2023年6月28日水曜日

◆源流の地「大阪」で開かれたアントラーズ激励会で見聞した常勝の理由(産経新聞)



鈴木秀樹,鈴木満


サッカーJ1、鹿島アントラーズのホームタウンは鹿嶋市や潮来市など茨城県の5市である。しかし、源流は「大阪」にある。前身の住友金属工業蹴球団(創設当時は住友金属工業蹴球同好会)が本社のある大阪に本拠を置いていたからである。関西サッカーリーグから日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、鹿島製鉄所のある鹿島町(現鹿嶋市)に移転したのは1975年。そんな歴史と縁もあり、住友グループの関係者を中心に、関西にもアントラーズファンが多数存在する。

そういった人たちが集まり、6月23日に大阪市中央区の「住友ビル」で、「鹿島アントラーズ激励会・鈴木満ちゃん慰労会」が開かれた。現在、アントラーズのフットボールアドバイザーを務める鈴木満さんは1989年から1991年まで住友金属工業蹴球団の監督を務め、元ブラジル代表の名選手、ジーコ氏から薫陶を受けてクラブに〝ジーコイズム〟を根付かせた人物として知られる。アントラーズ発足後は強化部門の責任者として常勝軍団と呼ばれたアントラーズの礎を築いてきたが、第一線から身を引かれたことから今回の激励会は、鈴木満さんの慰労会も兼ねて行うことになった。


ジーコイズムでフロントもプロに





激励会&慰労会にはアントラーズの鈴木秀樹副社長も参加。住友金属蹴球団(現鹿島アントラーズ)関西OB会幹事の濱村新作さんが司会役を務め、アントラーズ誕生前後の昔話に花が咲いた。

鈴木秀樹副社長は「今年はタイトルに手が届くところまでいければ」と2016年を最後に遠ざかっているリーグ優勝を狙いたいと抱負。「監督の立場で選手にジーコがいる。このプレッシャーは皆さん、想像できないと思うんです。『きょうの練習はどういう意図でしているんだ』と毎日聞かれる。眠れませんでしたね」とユーモアを交えてジーコ氏との思い出を語った鈴木満さんは「人生がアントラーズという感じで生きてきました」と振り返り、「(Jリーグ発足当時は)どこもフロントのプロがいなかった。フロントのプロって何をしたらいいか分からない。僕らはジーコにも鍛えられて、フロントがプロになれた。それが、アントラーズが勝てた理由」と自己分析した。

Jリーグ発足時の10チーム「オリジナル10(テン)」の一員となったアントラーズだが、Jリーグ入りが承認された1991年はJSL2部。ホームタウンの人口も他クラブに比べると少なく、Jリーグの幹部からは「ビリになるなよ」と言われたという。しかし、開幕した1993年の前期にいきなりリーグ優勝を飾ると、2000年にはJ1リーグ、ヤマザキナビスコ・カップ(現YBCルヴァン・カップ)、天皇杯全日本選手権の3冠を達成。3大タイトル合わせて最多19度の優勝を誇るJリーグ屈指の強豪となった。


評価する人間はフェア、平等で


ここからは、激励会&慰労会で鈴木満さんが話した内容を紹介する。

「組織を機能させるには何が大事か。自分なりに考えて、評価する人間がフェアに、平等に見てあげないといけないとなった。フェアに見ると、みんな頑張れるんですよ」と話し始めた鈴木満さんは「一生懸命やった人がバカを見るような組織は発展しない。フェアに見るには、一人だけじゃなく、いろんな目で見ること。そして、いつも見ている姿勢を見せるのも大事」と強調。監督、フロント時代に選手と飲みに出かけなかった点を挙げて「酒を飲みに行かなかったのも、一人と行くと公平感が出てこないなとずっと思っていたから」と説明し「組織を強くする上では、それが一番かなと思っていた。一方で、選手に帰属意識を持たせるにはどういうことをやんなきゃいけないか。『(チームやクラブが)自分の人生を考えてくれているんだ』というのを選手に伝えなきゃいけない。信頼関係を築くのは、一番苦心してやってきたこと」と打ち明けた。

また、「タイトルというのは、いくら練習しても身に付かない技術を身に付けさせてくれたりする。選手がものすごく成長するんです。勝つとチームも選手も変わってくるんです」とも。アントラーズが強豪であり続ける理由が分かったような気がした。

かつて三井住友銀行、住友化学とともに「住友グループ御三家」と呼ばれた住友金属工業は2012年に新日本製鉄と合併して新日鉄住金に。2019年には日本製鉄と名称変更。「住金」の名前はなくなったが、激励会&慰労会には、グループ企業でサッカーを楽しむ人たちも多く参加した。蹴球団から続く「アントラーズの源流」の歴史は、脈々と息づいている。




◆源流の地「大阪」で開かれたアントラーズ激励会で見聞した常勝の理由(産経新聞)





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