日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年11月18日日曜日

◆岩政大樹の言葉に支えられ、 昌子源は「背番号3の魂を受け継いだ」(Sportiva)



昌子源 Gen.Shoji


遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(37)
昌子 源 後編


◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)
◆「鹿島アントラーズは、まさにブラジル」 と言い切るレオシルバの真意(Sportiva)
◆「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。 本田泰人はその魂を継いだ(Sportiva)
◆「アントラーズの嫌われ役になる」 本田泰人はキャプテン就任で決めた(Sportiva)
◆ユースで裸の王様だった鈴木優磨が 「鼻をへし折られた宮崎キャンプ」(Sportiva)
◆鹿島・鈴木優磨のプロ意識。 いいプレーのため、私生活で幸運を集める(Sportiva)
◆岩政大樹の移籍先は「アントラーズと 対戦しないこと」を条件に考えた(Sportiva)
◆三竿健斗は感じている。勝たせるプレーとは 「臨機応変に対応すること」(Sportiva)
◆三竿健斗は足りないものを求めて 「ギラギラした姿勢で練習した」(Sportiva)
◆森岡隆三が鹿島で過ごした日々は 「ジレンマとの闘いだった」(Sportiva)
◆清水への移籍を迷った森岡隆三。 鹿島と対等での戦いに違和感があった(Sportiva)
◆安部裕葵は中学でプロになると決意。 その挑戦期限は18歳までだった(Sportiva)
◆安部裕葵は断言。「環境や先輩が 僕をサッカーに夢中にさせてくれる」(Sportiva)
◆ジーコが鹿島を称賛。「引き継ぎ、 やり続けたことが成果になっている」(Sportiva)
◆ジーコは意気込む。鹿島のために 「現場に立ち、構築、修正していく」(Sportiva)
◆山本脩斗の鹿島加入時の逸話。 「強化部も僕をよく知らなかったと思う」(Sportiva)
◆鹿島で優勝する術を学んだ山本脩斗。 「満男さんがそれを示してくれた」(Sportiva)
◆鹿島のスカウト担当部長は、 「安部裕葵に柴崎岳と似たものを感じた」(Sportiva)
◆鹿島の選手のJデビュー時。椎本 邦一は「親みたいな気持ちになる」(Sportiva)
◆鹿島から獲得話があった当時、 昌子源は「ダブル浩二」を知らなかった(Sportiva)


 11月11日、テヘラン、アザディ・スタジアム。約10万人がピッチを囲むその多くが地元ペルセポリスFCのサポーターで、彼らが鳴らすブブゼラの音が鳴り響いていた。

「健斗」、「レオ」

 昌子源は何度もチームメイトの名を呼ぶが、その声が仲間に届くことはなかった。

「声が届かないのは想定内のことだったから、『自分のポジションへ戻る時とか、いつでも俺のほうを見てくれ』と伝えていました。声が届かなくてもメッセージは送ることができるから」と昌子が振り返る。

 ACL決勝戦のセカンドレグ。ペルセポリスFC対鹿島アントラーズ。ファーストレグを2-0で終えた鹿島は引き分けでも優勝できる。逆にペルセポリスFCには3点以上の得点が必要だったため、ファーストレグ同様に試合開始から猛攻をしかけてくることが予想された。

「特に15分はシンプルにやって、試合が落ち着いたら、ボールをまわそうという話をしていたけれど、グラウンドも思った以上に悪かったし、こっちもしんどかったからロングボールが増えた。2トップが強力で、GKからのロングボールもある。こんなにセンターバックがしんどい試合も珍しいと思う(笑)。だけど、勝つために、僕らのゴールからボールを出来るだけ遠ざけることを徹底した」

 守備ブロックをコントロールしながら、ペナルティエリア内では身体を張ってゴールを守った。とにかく失点しないことがタイトル獲得への最低条件だった。昌子が続ける。

「鹿島って、変な言い方やけど、ちょっといやらしいよね。こういう舞台になったら、恥じることも躊躇もなく、ロングボールを蹴る。カッコいいとかカッコ悪いとか関係なく、勝つためにならめちゃくちゃカッコ悪い戦いもやってしまう。途中から出た選手も含めて、すべての選手がそういう意識でプレーしているから。それは憎いなあって思う。俺が相手だったら、本当にいや。だってうっとおしいやん(笑)」

 この試合ではGKへのバックパスはほぼなかった。前線の選手が不用意なバックパスをすれば、叱責されている。徹底したリスクマネージメントのもと、試合終了を告げる笛が鳴る。

「鹿島は優勝しなければいけないというプレッシャー、責任感もあります。試合前のピリピリしたムードもあるなか、こういう大舞台に慣れている先輩方が多いので、僕にとって心強かった。僕自身タイトルを獲った経験はなかったけれど、想像以上に気持ちがいい。あの笛が鳴った瞬間は今後忘れないと思いますし、こういう経験は何回もしたい。ここで喜びを与え続けられる選手になりたい」

 若い安部裕葵はそう言って、タイトル獲得の感動を味わい、次なるタイトルを欲した。優勝という現実が、選手の欲をさらにかき立てる。タイトルが次のタイトルへのエネルギーとなっていくのだ。

 鹿島アントラーズの20冠はそんなサイクルの末に重ねられた歴史だった。

「真ん中でどっしりと構えるという雰囲気がある。鹿島のセンターバックは、Jリーグのほかのチームとは違うと思うんだよね、俺は」と内田篤人は以前語っている。

 2015年、岩政大樹から譲り受ける形で、背番号3を背負った昌子源。主力としてプレーを始めて2シーズン目だった。しかし、開幕からチームの成績は低迷。失点するから勝てない。その現実は、若い背番号3を苦しめた。





――背番号3をつけた経緯を教えてください。

「まず、大樹さんから、背番号3は『お前がつけろ』と言われました。その後、2015年シーズン前にクラブからも『3番はどうか』と言ってもらえて『つけさせてもらえるのなら、つけたい』と」

――そのとき、その背番号の重要性は認識していましたか?

「その番号を担った歴代の選手の名前を見て、重責であることはわかっていたけれど、本当の意味では理解していなかったのかもしれません」

――しかし、そのシーズンは苦しいものになりましたね。シーズン途中にトニーニョ・セレーゾ監督から石井正忠監督に交代しました。

「きつかったですね。背番号がプレッシャーになっただけでなく、試合に出始めの2年目でミスも増えた。1年目はただガムシャラにプレーすればよかったけれど、2年目はやることも増えるし、責任も増す。周囲の眼も厳しいものに変わります。『秋田(豊)さんや大樹さんのようにヘディングで点が獲れない』とか、過去の3番と比較されることも多かった。でも、僕と先輩とでは、プレースタイルがまったく違う。葛藤がありましたね」

――プレースタイルという意味で、どんな選手をイメージしていたのでしょうか?

「元バルセロナのハビエル・マスチェラーノですね。知人から7分くらいの映像をもらったんです。それを見て、ボールの奪い方やビルドアップやパス、攻撃に転じるときなども含めての判断の良さ、そういうものを見様見真似でやってみると、うまく自分にマッチングできた。それがプロ3年目のころです」

――秋田氏や岩政氏とは違うスタイルを磨いてきたわけですが、背番号3を背負い結果が出ないと、中傷の的になってしまう。

「そうですね。失点に絡んだとき、直接『その背番号をつける資格はない。ほかの選手に譲ってくれ』と言われることもありました」

――そういうなかで自分のスタイルを守り抜けたのはなぜでしょう?

「大樹さんに言われた『お前は俺や秋田さんと同じプレースタイルじゃないから、俺らの真似はしなくていい。だけど、ディフェンスリーダーという魂を受け継いでくれ』という言葉があったからだと思います。だから俺は、プレースタイルじゃなく、その魂を受け継いだ3番だと考えていました。ディフェンスリーダーとしてしっかりチームを締めるとか、守り切るとか。それが、僕が継承する『背番号3』なんだと。厳しい声があるなか、俺がミスしても『昌子の実力は私たちが知っているし、今までもこれからも鹿島を背負って闘ってくれると信じています』と励ましてくれるファンの方もいてくれた。そういう信頼の声は力になりました。俺は応援してくれるあなたたちのために、鹿島の3番のユニフォームを着てくれている人たちのために、と思えたんです」

――プロ選手は、サポーターの想いを背負ってプレーしなくてはいけないということを実感したのではないでしょうか?

「そうですね。厳しい声を非難と受け取れば、ただただ苦しいだけです。でも、その声も僕が結果を残せば、称賛に変えられる。だから、『今に見ていろ』というふうに考えれば、厳しい指摘も力に変えられる。当時は自信も経験もないから、周囲の声を気にしすぎて、惑わされてしまったけれど、徐々にそういう声が気にならなくなったんです」

――周囲の声の厳しさが、「鹿島の背番号3」を育てたのかもしれませんね。

「そういうことなんでしょうね。とにかくメンタルが鍛えられました。『僕は僕のやり方』で闘うだけだと開き直れたんです」

――その年、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝。翌2016シーズンはファーストステージで優勝し、チャンピオンシップも戦い抜いてJリーグ王者に。その後、クラブW杯準優勝、天皇杯優勝と結果を出せました。

「チャンピオンシップは大きな自信を与えてくれました。タイトルを獲得することで、鹿島の一員としての務めを果たせた。その勢いがあったからこそのクラブW杯や天皇杯だったと思っています」

――あと一歩のところでタイトルを逃した2017シーズンを経て、向かえた今季は、ロシアW杯にも出場。W杯では、大迫勇也選手、柴崎岳選手、昌子選手とセンターラインに鹿島の選手が並びました。

「実はそういうふうに考えることはなかったんです。とにかく、無我夢中だったから。あとから言われて、なるほどなという感じで(笑)」

――W杯後は、足首を痛めて長期離脱することになってしまいました。

「2013年の膝の負傷以降、初めての大きな怪我でした。あのときはレギュラー目前としての離脱でした。大樹さんには『今じゃないということ。またチャンスは来る』と言われたんですが、今回もとにかく焦らず、リハビリに集中しようと思いました。チームには迷惑をかけているけれど、次のチャンスを待つんだという気持ちで開き直れた」

――昌子選手はよく『失点することで成長できる』と口にしますが、それもまた開き直るという強さなんだと感じます。

「最初は強がっている部分もあったかもしれませんが、それが事実であることも確か。(大岩)剛さんからもずっと『失点に絡まないセンターバックはいないし、失点に絡まないセンターバックはセンターバックじゃない』と言われていた。だからこそ、失点を無駄にしない成長をしなければいけないと」

――危険な場所を察知できているから、失点にも絡みやすい。失点を恐れて何もしないのは、センターバックではないということですね。

「だと思います。そう考えて、切り替えるためのタフさが身についたからこそ、そういうふうに言葉にできると思うので、メンタルが強くなったんですよね。ACLの水原三星戦(準決勝セカンドレグ)でもし勝ち上がれなかったら、ひどく落ち込んだと思います。でも、同点にして決勝へ行けたことは、本当に感謝しています」

――失点にも心が折れない。その姿勢が鹿島のセンターバック、背番号3を成長させる。

「チームメイトや監督は今まで俺がやってきたことを知っている。たとえプレーの精度が悪くても、声を出せるとか、カツを入れるとか、そういう今までに築き上げたものがあるから、信頼を得られるんだと考えています。たとえば1試合だけいいプレーができても、それだけで信頼は手にできない。ピッチでチームのために貢献し続けてきたからこそ、信頼を得られる選手になれる。その信頼が自信になるんです。だから、もう今では周囲に何を言われても動じないようになりました」

――背番号3は一朝一夕では生まれないということですね。

「はい。時間をかけてじっくりとこのチームに馴染み、どっしり構えて、いい時も悪い時も堂々としているのが鹿島のセンターバックだなと思っています。最近、篤人さんに『源がそこにいるだけで、チームの力になる。相手に圧をかけられる』と言ってもらえました。(三竿)健斗からも、『いてくれるだけで、安心できる』とも。うれしかったですね」

――鹿島のディフェンダーの魂とは?

「最初はなんかピンとこなかったし、今も簡単に言葉で説明するのは難しい。でも、声を出すとか、最後の苦しいときに一番身体を張っているとか。そういうところなんだと感じています。控えにいる選手のなかには、『源くんよりも俺のほうがいいのに』と思う選手もいるかもしれない。でも僕が得た信頼は、僕が築いてきたものだから。実績を積むことで存在感や信頼感が増し、初めて、”鹿島のセンターバック”なんだと思います」


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鹿島アントラーズ20冠達成記念号 ワールドサッカーダイジェスト 2018年 12...


◆岩政大樹の言葉に支えられ、 昌子源は「背番号3の魂を受け継いだ」(Sportiva)





◆【英国人の視点】その雰囲気、世界最高。究極のアウェイで力を示した鹿島。色褪せることのないイランの記憶(フットボールチャンネル)






鹿島アントラーズがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を制して初のアジア王者に輝いた。決勝2ndレグが行われたペルセポリスの本拠地アザディ・スタジアムは、熱気を帯びた最高の雰囲気だった。来日10年の英国人記者が現地からレポートを送る。(取材・文:ショーン・キャロル【イラン】)


食中毒に襲われながらもスタジアムへ


「お尻だよ」

 中年の看護師はそう言うと背を向け、私が正しく理解できるように自分の尻を掴んでみせた。

 そこまでしなければならなかった。今年のACLで14試合を追いかけ、不安の中でイランのビザ発給を待ち、5000マイル以上の長旅を経たあと、決勝を観戦するためにはさらに、折り悪く私を襲った食中毒の症状を緩和するため試合当日の朝に臀部に注射を打つことが必要となった。2本もだ。

 迷っている場合ではない。ベッドの上で体を転がし、やるべきことをやった。

 そして、実際のところその価値はあった。

 アザディ・スタジアムで試合を観戦した者なら誰でも、機会があれば一度は経験すべきことだと勧めてくるだろう。今の私も間違いなくその1人だ。

 1970年代に建設されたアザディ・スタジアムは、特別に綺麗というわけではない。テヘラン北西部の複合スポーツ施設群の中に建てられた巨大で埃っぽい円形競技場は、ペンキで塗装した方がもう少し見栄え良くなることは間違いないだろう。

 だがもちろん、最高のスポーツ会場というものはそれ自体が素晴らしいということは滅多になく、会場内のファンと彼らが生み出す雰囲気こそが最高であることがほとんどだ。その点でアザディ・スタジアムは、私が経験してきた中でも圧倒的に1位だった。

 鹿島アントラーズがペルセポリスと対戦する前日にグラウンドを訪れた時から、特別な何かを感じさせる兆しはあった。複合施設に至る堂々たる入場路には早くもサポーターが集まり始めていた。試合のためイラン全土から車で駆けつけた彼らは、ゲートが開かれるのを待ちつつ、歌ったり踊ったり、クラクションを鳴らしたり、莫大な量のピスタチオを消費したりしてその日の残り時間と夜を過ごすのだった。


元清水監督のゴドビ氏も絶賛


 聞いたところによると、彼らはキックオフ6時間半前の翌日正午からスタジアム内になだれ込み、対戦相手に脅威を感じさせて応援するチームを後押しするべく熱気をさらに強めていくのだという。

 イランを去る前に、元清水エスパルス監督のアフシン・ゴトビ氏に話を聞いた。2008年に同氏が率いたペルセポリスは、シーズン最終節のアザディ・スタジアムでの試合で96分に決勝点を奪ってリーグタイトルを手に入れた。その会場を「アジアのサッカーピッチのコロッセオ」と呼ぶゴトビ氏は、ペルセポリスのファンがいかに熱狂的であるかを説明してくれた。

「ペルセポリスはアジアでの特に人気のあるクラブのひとつ。おそらくは最も人気の高いクラブだろう。3000万人のファンがいるからね」とゴトビ氏。

「ペルセポリスの選手や監督であれば、世界のどこを訪れたとしても、町中のどこかでイラン人のファンに見つけられる。駆け寄ってきて、ある試合でいかにして勝ったり負けたりしたか、あるいはどういうプレーを見せたかについて話をしてくる。それがペルセポリスのファンの持つ情熱だ」

「日本のサッカーにとっても、もちろん鹿島のファンにとっても大きな意味のある試合だ。だがイランのファンにとってその意味の大きさは10倍か、おそらくそれ以上だろう。イランの人々にとっては、心の中でサッカーが占める場所が違う。ペルセポリスは特にイランのファンの心の中に特別な場所を占めている。ペルセポリスのファンとして生まれてペルセポリスのファンとして死ぬ。そういうものだ」

 試合日にスタジアムに到着すると、そのことがはっきりと理解できた。当然ながら彼らは期待通りにそこにいた。ピッチへと通じる威圧的な通路を歩いていくと、熱気を高める何万人ものファンが絶え間なく吹き続けるホーンの音がBGMとなる。

 その終端に到達すれば、キックオフ4時間前にしてすでにほぼ満員となったスタジアムの赤い集団に迎えられた。言葉では言い表せない大音量の中、Jリーグのより穏やかな環境に慣れ親しんだ鹿島の選手たちは、この敵意の中で冷静さを保つことができるのだろうかと考え始めていた。


監督と選手が示した鹿島の力





「我々のチャンスはわずかだが、やれることを期待している」

 朝に訪れた医者は、私の疾患そのものよりも、彼の愛するペルセポリスを観るために私がテヘランに訪れたことに関心がある様子でそう話していた

「そうなれば誰もが幸せになれる。今のイラン国民には、幸せになれる何かが必要だからね」

 もちろん鹿島は、それを阻むために乗り込んできた。だがキックオフが近づくにつれて、スタジアムの生み出す力に耐えることが可能なのかどうかと本格的に疑いが感じられてきた。

 大岩剛監督のチームは1stレグで2-0のリードを奪っており、アウェイゴールを1点取ればペルセポリスには4点が必要になると分かっていた。だがホームチームが先にゴールを決めたとすれば、この雰囲気の中で鹿島が持ちこたえられるとは考えにくかった。

 しかし、一直線にゴールへ向かおうとするペルセポリスがFWのゴドウィン・メンシャとアリ・アリプールを裏へ走らせるなど序盤には多少危うくなる場面もあったとはいえ、安定したディフェンスラインと、ACL史上初めて3回の優勝を経験する選手となったGKクォン・スンテがチームを落ち着かせた。後半以降は、初の大陸王者のトロフィーを逃すことには絶対にならないと感じられた。

 最終的にそれを可能としたのは監督と選手たちの力だった。中立のファンの心を捉えるようなスペクタクルとは程遠かったとしても、鹿島はまさにやるべき試合をした。

 イランのファンは試合後も印象的だった。敗れ去った英雄たちを称えるため大勢が観客席に残り、歴史的瞬間を目撃するため日本から遠路はるばる旅してきた200人ほどのサポーターとともに鹿島の選手たちが勝利を喜ぶことも許していた。

 私にとっても選手たちにとっても決して楽な旅ではなかったが、アザディ・スタジアムでのあの夜の記憶は決して色褪せることはないだろう。

(取材・文:ショーン・キャロル【イラン】)

【了】


◆【英国人の視点】その雰囲気、世界最高。究極のアウェイで力を示した鹿島。色褪せることのないイランの記憶(フットボールチャンネル)





◆ゴールにこだわる男がハット達成!! 上田綺世「何分出るにしろ、仕事は一緒」(ゲキサカ)






[11.17 ドバイカップ第2戦 U-21日本5-0クウェート]

 右足、ヘディング、そして左足でゴールを奪ってハットトリックを達成。初戦ベンチスタートとなったU-21日本代表FW上田綺世(法政大)は、先発出場を果たした試合で自らの存在価値を改めて証明してみせた。

 クウェート戦前日、主力組に入って練習をこなした上田の先発出場は濃厚だった。練習後に「何分出るにしろ、仕事は一緒」と語ったように、ストライカーである自分の仕事は先発出場だろうが途中出場だろうがゴールを奪うことだと強調しつつ、「出ている時間が長いほどチャンスを作れる回数は多いと思うし、ゴールに迫れる回数も増えると思う」と、スターティングメンバーに名を連ねることで、より多くのチャンスに恵まれるだろうと続けていた。

 そして、そのチャンスをきっちりと得点へと結び付けた。まずは前半41分、右サイドをえぐったMF長沼洋一(岐阜)の折り返しに走り込むと、右足で合わせてネットを揺らして1点目を奪取。さらに後半11分には長沼が右サイドから送ったクロスをヘディングで合わせてゴールを陥れ、自身2点目を記録した。ともに長沼のアシストから奪った得点となり、「遠征を重ねるにつれて自分のストロングの部分が浸透して、信じてもらえているのかなと思う」と自らの特長を発揮する状況を作り出してくれる仲間への感謝を示した。

 そして、後半28分にはMF久保建英(FC東京)のスルーパスから一気に抜け出すと、左足のシュートをネットに突き刺してハットトリックを達成。「自分の特長であるヘディング、動き出し、クロスへの入り方という部分を見せ、それが結果につながって良かった」と充実した表情を浮かべた。

 先発出場で結果を残したが、「アジア大会のようなスーパーサブで起用されても、結果を残せる選手が良い選手」と前日に引き続き、ストライカーはどんな状況であれ、ゴールを奪うことが重要だと語る。「環境や時間を言い訳にしないようにやっていきたい」と今後も貪欲にゴールにこだわっていく。

(取材・文 折戸岳彦)




◆ゴールにこだわる男がハット達成!! 上田綺世「何分出るにしろ、仕事は一緒」(ゲキサカ)





◆キルギス、鹿島控え組に完敗…組織的な攻めなく実力に疑問符(報知)



小田逸稀 Itsuki.Oda


 ◆練習試合 鹿島2―0キルギス代表(17日・カシマ)

 国際親善試合で日本代表と対戦(20日・豊田)するキルギス代表は17日、控え組中心の鹿島と練習試合を行い、0―2で敗れた。

 立ち上がりからACL決勝・ペルセポリス戦(11月3、10日)に先発出場したメンバーを全員ベンチ外とした鹿島に苦戦し、ボールをはね返すことで精いっぱい。前半だけで13本のシュートを浴び、セットプレーから失点した。後半もユース所属の高校生5人が並んだ実質“2・5軍”の鹿島から得点を奪えず、追加点を許した。

 組織的な攻めを展開する場面はなく、キルギスの実力には疑問符がついた。




◆キルギス、鹿島控え組に完敗…組織的な攻めなく実力に疑問符(報知)





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