【鹿島で話題の海舟、U-20代表の航大】
Jリーグで今、最も注目を集める兄弟だろう。
兄の佐野海舟はFC町田ゼルビアから鹿島アントラーズに移籍した今年、初めてのJ1でも持ち味のボールハントを連発し、フル代表への待望論も出ている。
3歳下の佐野航大は、ゴール前でのアイデアやテクニックが持ち味で、ファジアーノ岡山でルーキーイヤーから定位置を掴み、今年はU-20ワールドカップでの活躍も期待される。
兄弟だが、プレースタイルが違えば、性格も全く違う。「海舟は家ではふざけるけど、外に出ると全く違う内弁慶タイプ。航大はお調子者で、コミュニケーション能力が高い」と評するのは父・龍一さんだ。
2人は、父の影響を色濃く受けている。元々、龍一さんはインターハイや国体にも出場した経験を持つ元スキー選手で、作陽高校在籍時にはサッカー部の選手と共にトレーニングをしていた。
そうした縁もあって、高校卒業後は友人に誘われてボールを蹴り始めると、フットサルの岡山県選抜にも選ばれるほど身体能力が高かった。練習に連れていった子ども2人と若いチームメイトが遊んでくれていたのが、海舟と航大のサッカーとの出会いだという。
「海舟は3歳ぐらいから、航大はオムツをしているぐらいから、ボールを蹴っていた。航大はお兄ちゃんに勝てないのが悔しくて、サッカーにのめり込んでいきました」(龍一さん)
当時から2人のプレースタイルは今と変わらない。海舟は少年サッカー特有の団子サッカーの輪に入らず、後ろで待ち構えてセカンドボールを拾っていたのに対し、ボールに触るのが好きな航大は進んで団子の中に入って行くタイプだった。「みんなが一生懸命ボールを追いかけるのに、団子の中に入らない海舟を見てイライラしていました。なんで、ボールにガムシャラに行かないんだろうって」と龍一さんは笑う。
2人は小学校に入ると、共に龍一さんがコーチを務めるFCヴィパルテに入り、本格的にサッカーを始めた。「サッカーに関しては詳しくありません。でも、戦うことに関しては、三つ子の魂百までじゃないけど、小学校の時まで教えなければいけないと思っていました」と話す龍一さんの指導は決して優しかったとは言えない。
当時から、2人には「お父さんがお金を出しているから、2人は好きなことができている。プロ選手と一緒なんだから、どんな挫折があろうとプロとして頑張りなさい」と声をかけて、苦しい状況でも頑張れる選手になれるよう育ててきたという。一方で「海舟には『頑張れ』としか言っていなかったけど、航大には『遊び心』とずっと言い続けてきました」と、2人のプレースタイルを考慮した声掛けも忘れなかった。
【ボール奪取に長けた海舟】
中学時代の海舟はプレーの派手さはないものの、試合で目立つ選手だった。技巧派が揃っていた当時のチームにおいて、選手としての色が違ったためになおさらだった。米子北高校のスカウトを担当する城市徳之総監督は、初めて海舟を見た時の印象についてこう振り返る。
「コースをわざと空けて出させたパスを奪ったり、相手と駆け引きしながらボールを奪うプレーがうまかった」
岡山県内にも強豪校はあったが、幼少期から龍一さんに「プロになりたいなら、家から出なさい」と言われていたため、卒業後は県外へと進むつもりでいた。ただ、海舟の第一志望だった関西の強豪校からは特待での入学が認められなかったため、中学3年生の11月になってから、いち早く声をかけてくれていた米子北の練習に参加した。
ひた向きにサッカーと向き合う米子北の選手に心を打たれた海舟は、帰り道に「米子北に行きたい。(決めるのが)遅くなってごめん」と龍一さんに泣きながら、電話をかけてきた。想いの丈を知った龍一さんも泣きながら、「お金のことは俺が何とかする」と返し、「航大もいるから金銭的に大学は難しい。高校3年間でサッカー選手としてのチャンスを掴みなさい」と続けたという。
「身体は華奢だったけど、昌子源(同じく米子北OBで現在は鹿島アントラーズ)と同じでボールを奪って終わりではなく、奪ってちゃんとマイボールにできる選手だと思った」と、米子北の中村真吾監督からも高い評価を受けた海舟は、1年目からレギュラーを獲得。2年目からは高校年代最高峰の「高円宮杯プレミアリーグU-18」でプレーし、プロのスカウトからも注目される選手となった。
高校3年生の5月にはJ2クラブの練習に参加したが、色のよい返事はもらえないまま時間だけが流れていく。夏ごろには「プロから声がかからないから、大学に行きたい」と海舟に相談されたが、龍一さんはあえて厳しい言葉を突き返した。
「先生になりたいとか、大学を出ないと就けない職業に就くのであれば行かせる。でも、あと4年間サッカーをさせてくれというのは、約束と違う。今、覚悟が決まっていないヤツが4年後に挑戦したいと言っても無理だと言いました」
父の言葉によって目の色が変わった海舟は、FC町田ゼルビアの内定をつかみ取った。
海舟の卒業後、入れ替わりで入学した航大は、下級生の時からAチームでの出場機会をつかんだが、兄のように主役級と言えるプレーはできずにいた。
「飄々とやるんだけど、大きな大会で思ったようにプレーできなかった。期待しすぎていたからかもしれないけど、もう少し頑張ってほしいという思うことは多々あった」と振り返るのは中村監督だ。だが、高校3年生になり、課題だったプレーの連続性や献身性が身につくと一気にブレイクした。
航大の、父譲りの社交的な性格も印象的だったという。試合に出ていない選手、おとなしいクラスメートと積極的にコミュニケーションをとり、保護者懇談では複数の保護者から感謝の声が挙がった。また、コロナ禍で寮から出られない時期は、自ら進んで毎日800字ほどのレポートを提出するなど向上心も強かった。
インターハイ準優勝に貢献し、複数のJクラブから声がかかったなか、幼少期に地元の津山市で試合がある度に応援に行っていたファジアーノ岡山を選んだ。ほかのクラブは同じポジションに強力な外国人選手がいたのも理由の一つ。
「周りからは、『J2では飯が食えない』と言われましたけど、カテゴリーは関係ない。試合に出てナンボ。主力を張って、活躍できるほうがいい」という龍一さんのアドバイスも、航大の頭にあったのは間違いない。1年目から定位置をつかみ、地元出身のスターとして愛される存在になったため、選んだ選択は間違いではなかった。
「何を食べるかではなく誰と食べるか。何を着るかではなく、誰が着るかが大事というのが、僕のポリシーとしてずっとあります。人としていい男になってもらいたいとずっと思っていました」
そう話す龍一さんは、サッカーに関して口を挟まないが、2人の態度、振る舞いには今でも厳しい言葉をかける。昨年、海舟が地元に帰ってきた際は、龍一さんが務める建築会社の社長に「息子は社会を知らないから教えてほしい」とお願いして、4日間自らと同じ仕事をさせた。
「同じ金額でも、プロサッカー選手として稼ぐお金と、1日8時間労働して稼ぐお金では重みが違う。仕事を通じて、自分がいる場所がいかに恵まれているか気づいてほしかった」(龍一さん)
父の想いを知ってか、海舟は当時稼いだお金は使わず、今でも封筒の中に入れたまま置いているという。
プロになってからも2人が成長を続けているのは、龍一さんの教えもあるだろう。同時に「2人がプロになれたのは米子北に行ったから。ほかだとなれなかったと思うので、すごく感謝している」と龍一さんが口にするとおり、出会う人々にも恵まれた結果、2人の兄弟はスクスクと育っていった。
「プレースタイルも違うのでポジションが被らない。あいつらが組んだら、面白いですよね。2人が一緒に出ている姿を見てみたい」と城市総監督は笑う。だが、フル代表のピッチで揃い踏みする日も今の活躍ならあり得ない話ではない。
◆今Jリーグで最も注目の佐野海舟・航大兄弟 「兄は内弁慶。弟はお調子者」父が語る幼少期からの成長ストーリー(Sportiva)