日刊鹿島アントラーズニュース
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2018年4月15日日曜日
◆名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、 内田篤人に渡した「2」への思い(Sportiva)
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(8)
名良橋晃 後編
◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
4月3日にACLグループリーグ突破を決めたものの、リーグ戦では苦しい戦いが続いている鹿島アントラーズ。4月7日には試合終了間際にゴールを許して、湘南ベルマーレに敗れた。そして4月11日のFC東京戦では先制点を決め、”試合の入り方”の悪さを改善できたかに見えたが、オウンゴールで同点に追いつかれると、後半には前半に負傷した山本修斗から代わった西大伍の左サイドを破られる形で逆転弾を決められる。その後もボールの失い方が悪く、カウンター攻撃でピンチも迎えたが、なんとか堪(こら)えた。しかし、ゴールを決めることもできずに、1-2で終了。2勝2分3敗の勝ち点8、13位に順位を落とした。
怒りが収まらないサポーターのことを想像するのは容易(たやす)く、試合後にゴール裏へ向かう選手たちの足は重そうに見えた。そんななか、真っ先にそこへ向かったのが西だった。試合後のミックスゾーン、記者の質問に応えることなく、足早に歩く選手たちのなかで、足を止めたのが西と土居聖真だった。
「みんな頑張っていました。今日は全部、僕の責任です」
西はそう試合を振り返る。そして、中2日で迎える次の試合までに大事なことを訊くと「あんまりこう、気持ちとか、そういう部分というのは、言ってこなかったんですけど。今はそういう部分が大事かなと思っています」と答えた。
内田篤人、遠藤康、安西幸輝、町田浩樹、レオシルバ、ペトロジュニオール、安部裕葵、そして、山本と数多くの戦線離脱者を抱えている。内田はチーム練習に合流したが、FC東京戦でベンチ入りした昌子源も復帰したばかりだ。
5月20日まで約1カ月間で10試合を戦わなければならない。文字通りの総力戦となるだろう。
「89分間よくても、ひとつのプレーで台無しになってしまう。でも、前を向いていくしかない。この現実から目をそらしてはいけない。今、全員がもがいている」
土居がチーム状況について話した。
結果を出せない苦しみのなかで、誰もが「気持ち」について語る。球際の強さ、カバーリング、フリーランニング……闘志を示し続けることの重要性を理解しているにも関わらず、それを表現できていない。疲労もあるだろうし、精神力だけでは打開できない壁なのかもしれない。
しかし今、鹿島が抱えているジレンマは、「やれるはずのことができない」というものだろう。やろうとしていること、できることを信じているから、「気持ち」という部分が課題となって残る。「気持ち」で、勝利を奪ってきた実績があるからこそ、そう思うのだ。精神力は鹿島の強みという自信が彼らを支えてきた。その歴史は重い。
「全員の得点だし、全員の失点」
湘南戦後の鈴木優磨の言葉が胸に響く。
* * *
西大伍、金崎夢生、山本修斗、三竿雄斗……。鹿島に移籍加入した選手たちが代表入りを果たす姿に名良橋晃は、目を細める。かつての自分の姿を彼らに重ねているのだ。高卒や大卒ルーキーなどの生え抜き選手の活躍が目立つ鹿島において、1997年にベルマーレ平塚から加入した名良橋は、移籍獲得の先駆けといえる存在だった。彼もまた、日本代表復帰を移籍理由に挙げていた。
――今年、東京ヴェルディから移籍加入した安西幸輝選手が鹿島を選んだ理由を「3人のサイドバックの日本代表がいるチーム。ここで活躍できれば代表に一番近いと思った」と話していました。
「そうですか。実際そうなんですよね。僕が鹿島入りを熱望したのも、鹿島でレギュラーになれば、代表復帰できると思ったから。今も僕と同じような気持ちで鹿島へやってくる選手がいるというのは、OBとしてもうれしいですね。
サイドバックに限らず、長年、数多くの代表を輩出している鹿島ですが、海外へ移籍する選手も少なくない。そういう意味では選手を育てるというサイクルが早くなっているので、生え抜きだけでなく、移籍加入で選手を補強しなければならない時代だと思います」
――そういう意味では、鹿島イズムというか、勝利へのこだわりという部分を選手の意識に植えつけていくという作業のスピードも求められるわけですね。
「ですね。選手個々の力をどうチームとしてまとめていくのか? 今どう戦うのかという意識を共有する必要があると思います」
――たとえば、名良橋さんが鹿島でプレーされていたとき、新井場徹さんが加入されました。チームに馴染めるよう、どのようなアドバイスをしましたか?
「していません(笑)。イバちゃんは僕のアドバイスは必要なかったと思います。というか、質問されれば、アドバイスはするけれど、こちらから何かを言うようなことはなかったですね。誰もがライバルですから。そんなお節介は焼きません(笑)。それでも、試合中に叱責されたり、練習中のチームメイトたちの要求を理解しながら、チームに馴染むことができる。
実際、僕も本田(泰人)さんや秋田(豊)さんから、どんなに怒鳴られたか(笑)。『ナラ、今は上がるときじゃない!』とか。最初の1年はとにかく必死でしたからね。それが過ぎて気がつくと、馴染むことができる。結局、チームメイトに評価されなくては居場所を作れない。勝利に貢献することで初めて認めてもらえるんです」
――海外移籍といえば、内田篤人選手が帰国しました。
「最初の会見で『ジョルジーニョさんや名良橋晃さんがつけていた背番号を受け継いだ』というようなことを言ってくれたと聞いたときは、本当に嬉しかったですね(笑)。鼻高々でした」
――もともと背番号『2』は名良橋さんが、ジョルジーニョ選手から受け継いだものですね。
「はい。チームから『背番号2をつけてくれ』と言われたときは、驚きと喜びと同時に、怖さみたいなものがありました。その番号にふさわしい選手になれるのかと。そして、2007年に移籍するとき、僕からクラブへお願いしたんです。『この番号は篤人に渡したい』と。中途半端な選手にこの番号をつけてほしくはなかった。そう考えると、篤人がふさわしいと思ったんです。
翌年、篤人はドイツへ移籍しましたが、そこで揉まれ、さらに2番を担うべき選手として成長し、戻ってきてくれた。本当に頼もしいし、楽しみです」
――理想の背番号2とはどのような選手ですか?
「ジョルジーニョは、その言葉でチームを動かすのではなく、プレーでチームを動かし、その佇まいでチームをまとめていた。プレーで魅せる選手でした。だから僕もそうなりたいと思い、日々を戦ってきました。(小笠原)満男を見ていると、そんなジョルジーニョの影響を色濃く受けたんだと思います」
――ジーコさんではなく、ジョルジーニョさんだと。
「もちろん、ジョルジーニョはジーコの想いを引き継いだ選手でした。でも、満男たちの世代にとって、ジーコは総監督でもあったから遠さがあったと思うんです。ともにプレーしたのは1シーズンだけだったと思うけれど、ジョルジーニョのほうからより、強いインパクトを受けたんじゃないかと、僕は考えています。そして、その満男のあとを継いでくれると期待しているのが、現背番号2の男です」
――内田選手だと。
「ドイツへ行く前は、気持ちを見せることに恥ずかしさや照れを感じているようなところがありましたけど、ドイツでの厳しい生存競争のなかでは、そんなことを言ってられなかったはず。ワールドカップブラジル大会でもそうでしたが、気持ちがほとばしるプレーをする選手へと成長しました。コンディションのことが気がかりではありますが、そのプレーや振る舞いでチームを引っ張ってくれると思っています。
あと、この間のガンバ戦(3月3日、1-0で勝利)の終盤、安西くんがグッとオーバーラップをしかけたんですよ。それもうれしかったですね。攻撃的なサイドバックとしてプレーした自分のことを思い出した。『あぁ、受け継いでくれているな』と勝手に喜んでいました(笑)」
――名良橋さんにとって、鹿島アントラーズとは?
「本当に僕を成長させてくれたクラブです。篤人が加入したとき、僕はケガで離脱して、篤人が試合に出ることになった。これはすごいライバルが来たなと思ったし、悔しさもありましたが、また取り返せばいいと考えられた。そうすれば、さらに成長できるなって。30代半ばでもそんな気持ちになれるのは、鹿島の選手だったからだと思います。
キレイなサッカーじゃなくてもいい。ヘタはヘタなりに一生懸命ガムシャラに戦うことを僕は鹿島で学んだ。そこで身につけた闘争心は、そう簡単に消えることはないんです。
鹿島が本当に好きですね。今でも(東京から鹿嶋へ向かう東関道の)潮来(いたこ)インターが近づくだけで、胸がワクワクします。インターを降りると、広がるいつもの風景。その先に見えるカシマスタジアム。最高ですよね。実家に戻ってきたような懐かしさと愛情が溢れてきます。
クラブハウスに行けば、変わらないスタッフや職員の方々の顔があり、下部組織のユース監督には熊谷(くまがい)浩二がいて、トップチームにもかつてのチームメイトたちがいる。本当に実家ですね、僕にとっての」
名良橋晃がジョルジーニョから継ぎ、内田篤人に渡した「2」への思い
◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(7)
名良橋晃 前編
◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sportiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)
◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)
◆曽ヶ端準「ヘタでも、チームを 勝たせられる選手なら使うでしょ?」(Sportiva)
4月3日、上海。ACL第5節、上海申花とのアウェー戦は苦しい試合だった。「前半の悪さは今のうちのチームの課題。それを改めて感じた」と鈴木優磨が振り返ったように、セットプレーから2失点しただけでなく、内容的にも相手に圧倒された45分間。球際でもまったく勝てず、腰が引けた戦いが続いた。
「相手は後半になると運動量が落ちる」。ハーフタイムに大岩監督が激を飛ばす。「スカウティングから『両サイドの強度が下がる』という情報があり、そこを突こうとスイッチを入れた」
その後半、分析どおり相手の勢いが止まったこともあったが、鹿島の選手それぞれが球際での勝負に勝ち、鈴木の1ゴール1アシストで2-2とし、ACLグループリーグ突破が決まった。
「球際の勝負から逃げていたら話にならないし、まずは球際で戦うことなど、当たり前のことをやろうとハーフタイムに話し合った。そのうえで、マークをはっきりさせたことでよくなったと思います」(植田直通)
この日先発出場した小笠原満男の言動が選手たちの心と体を動かしたという。
「今日は(昌子)源くんもいなくて、(金崎)夢生くんもベンチスタート。出場した若手が試される試合だった。そういうなかで誰が引っ張るとかではなく、年齢に関係なく誰もが『自分が引っ張っていく』という気持ちで戦えば、今日の後半みたいにいいサッカーができる。
最近は自分も含めて、他人まかせというのがあったと思う。試合前に満男さんと『うちのチームにヒーローはいらない』という話をした。チームの勝利のために自己犠牲を払ったプレーが大事だと。今日も満男さんが先発し、変わったと思う。一番年が上の満男さんが一番走っていた。自分も負けたくないという気持ちになるし、あの人が走っているのに、なんで、俺ら若手が走れないんだという気持ちになる。満男さんはプレーで引っ張っていく人。間違いなく、俺らにそれが伝わっているし。俺らがもっとやらないといけないなって気持ちにはなっています」
そう語る鈴木に笑顔はなかった。グループリーグ突破という最低限の結果を手にしただけ。選手たちにほっとした様子はない。そして、ミックスゾーンを歩く小笠原も厳しい表情を浮かべている。こちらの声掛けにもその表情は変わらず、わずかに顔を左右に振るだけだった。
この後すぐに苦しい試合が続くリーグ戦があり、ACL首位突破がかかる4月17日の水原戦と連戦が続くなか、表現できなかった戦う姿勢やチームのためにという想いを取り戻せたような予感があった。
* * *
「鹿島時代にも経験しましたが、選手同士が要求し合っている。要求するからには、自分もしっかりとプレーしなくてはいけない。そういう雰囲気が今、チームにあります」
4月1日、J3第5節でSC相模原を2-4で破り、4勝1分として首位に立ったガイナーレ鳥取の森岡隆三監督は、自身が所属した鹿島アントラーズを例にとり、好調なチームについて語った。
1997年、ベルマーレ平塚から鹿島へ移籍した名良橋晃も加入直後の練習から、森岡同様の空気を肌で感じていたという。
――1997年に移籍が成立しましたが、その前シーズンから鹿島への加入を熱望されていたそうですね。
「はい。当時は移籍係数ルールがあったりして、契約満了となってもなかなか移籍が難しい状況でしたが、どうしても鹿島でプレーしたいと思っていたので、強くアピールしていましたね」
――その理由には、ブラジル代表のサイドバックを務めていたジョルジーニョの存在があったというのは有名な話ですが、それ以外にも理由があったのでしょうか?
「そうですね。いくつかの理由がありました。1992年にJリーグ開幕を前に、カシマスタジアムを扱ったテレビ番組を見て、いつかこのスタジアムでプレーしたいと思ったのが最初でした。クラブハウスにも行く機会があり、こういう恵まれた環境でサッカー選手としての生活が送れたら、どんなに素晴らしいだろうという憧れもありました」
――1989年、高校を卒業後、当時JSLのフジタに加入されたわけですが、フジタは翌シーズンに2部に降格してしまい、Jリーグ参加も認められなかった。1994年にやっとJリーグに昇格し、秋には日本代表デビューも飾りました。
「カシマスタジアムのピッチに立ったとき、サポーターも含めたスタジアムの雰囲気に圧倒されました。試合中には平塚の一員として、いつも以上に高いモチベーションでプレーしましたが、鹿島のサポーターの後押しを受けてプレーしたいという気持ちを抱くようになりました。同時に招集から外れていた日本代表に復帰するうえでも、鹿島のような強いチームでレギュラーになるべきだとも考えるようになったんです。相馬直樹と同じ方向を向いて戦いたいという気持ちもありましたね」
――念願が叶い、鹿島の一員になったわけですが、最初の印象はどんなものでしたか?
「契約が完了したあと、キャンプを行なっているブラジルへ飛びました。砂浜でトレーニング中のチームに合流したとき、ジョルジーニョが『こっちこっち』と呼んでくれ、感動しましたね。そのキャンプのときから、戦いの日々が始まりました。
まずは、僕を受け入れてくれたクラブへ恩返しするためにも、右サイドバックを務めていた内藤(就行)さんとのレギュラー争いに勝たなくてならないですからね。とにかく選手同士が厳しく要求し合う様子が印象的でした。チームメイトに要求するのだから、自分がヘタなプレーはできない。そういう覚悟を感じました」
――当時の鹿島の練習といえば、笑顔もほとんどなくて、厳しい時間だったと記憶しているのですが……。
「そうですね。練習中はピリピリとした空気がありました。紅白戦をやっても、Bチームの顔ぶれがすごかった。ヤナギ(柳沢敦)やヒラ(平瀬智行)など、高校選手権で活躍した選手や力のある若い選手がたくさんいて、すごいところへ来たんだと、改めて感じました。そして、いかにこれまでの自分の意識が低かったのかを痛感したし、甘えがあったと恥ずかしい気持ちにもなりました」
――けれど、レギュラーポジションを手にし、代表にも復帰しました。
「それでも気を抜けば、ポジションを失いかねないという危機感はずっと抱いていましたね。それは内田篤人が加入したときまで続きましたよ。だけど、こういうライバルの存在が自分の成長に繋がると実感していました。そういう毎日を過ごしていたので、代表へも必ず復帰できるという自信がありました」
――1997年には、ワールドカップフランス大会出場権を獲得。その後、Jリーグではナビスコカップ決勝(11月22日、29日)とチャンピオンシップ(12月6日、13日)でジュビロ磐田と4連戦を戦いました。
「僕はナビスコカップ決勝第1戦(1-2、鹿島勝利)で退場してしまい、5-1で勝利して優勝を決めた第2戦には出場できなかった。”初タイトルを”と挑んだチャンピオンシップでは、第1戦を延長Vゴールで落としてしまい、カシマスタジアムでの第2戦では、81分にゴン(中山雅史)さんにゴールを許して、タイトルを逃してしまった。試合内容で圧倒しながらも、勝てなかったので本当に悔しかった。
その直後の天皇杯で優勝し、やっとタイトルを手にして、鹿島に恩返しできました」
――その年から、鹿島と磐田との2強時代が始まりました。
「ゴンさんと秋田(豊)さんをはじめ、各ポジションでバチバチの戦いを繰り広げていましたからね。あんな熾烈なカード、今ではあまりないかもしれませんね」
――2000年には三冠を達成しました。勝利にこだわる鹿島の姿勢を感じる試合として、印象に残っているものはありますか?
「2001年、ワールドカップ前に大きくなったカシマスタジアムのこけらおとしの試合ですね。(5月19日/第10節)柏戦だったんですが、2-2で迎えた延長戦、開始早々(延長前半5分)にPKを与えてしまったんです。そのとき、僕は内心『負けてしまった』と思ったんですが、ソガ(曽ヶ端準)がそれを止めてくれて、その直後(延長前半8分)に長谷川(祥之)さんのゴールが決まり、勝利しました。
試合後にトニーニョ・セレーゾ監督から『PKを与えたとき、もうこれで試合が終わったような態度をした選手がいた』と雷を落とされた。僕のことです。そういう振る舞いをするだけで、チームに悪影響を与えると怒られたんです。最後の最後まで勝利を諦めるなということをつくづく思い知らされました。
当時の選手たちは勝つためにはなんでもやるという気概がありました。リードしている時間帯、ファールで倒されたとき、少しでも時間を稼ぐことを考える。フェアプレーという意味ではよくないのかもしれないけれど、勝つことが重要だった。そういう気持ちが漲(みなぎ)っていました。それは練習中の厳しさを生んでいましたね。
1対1、球際では絶対に負けない。そういうファイターが揃っていた。戦えない選手は勝てない。高い集中力があれば、セカンドボールにも速く対応できるんです。そういう細かなこだわりが勝利に結びつく。それはチームだけでなく、クラブにも宿っている精神だと思いました。スタッフ、職員、洗濯や掃除をしてくれる人たちもそういう気持ちだった。戦うことの重要性、闘争心を肝に銘じる。そんな時間を鹿島で過ごしたと感じています」
(後編につづく)
移籍組の名良橋晃は「相手PKにガックリしただけで雷を落とされた」
◆[プレミアリーグEAST]青森山田と鹿島ユースが連勝発進!注目の千葉ライバル決戦はドロー:第2節(ゲキサカ)
高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグ2018EASTは15日、第2節が行われ、青森山田高(青森)と鹿島アントラーズユース(茨城)が開幕2連勝を飾った。
青森山田は4年ぶりにプレミア復帰を果たした富山一高(富山)と対戦。前半にMF檀崎竜孔(3年)が2ゴールを挙げると、後半に3点を加えて5-0で完封勝利をおさめた。開幕白星スタート同士の鹿島ユースと柏レイソルU-18(千葉)の一戦は、1-1で迎えた後半にDF増崎大虎(3年)とMF前田泰良(3年)が加点し、鹿島ユースが3-2で競り勝った。
同日開催のJ1リーグと同じ組み合わせとなった、清水エスパルスユース(静岡)VS浦和レッズユース(埼玉)は、後半アディショナルタイム1分にFW波田祥太(2年)が決勝点を挙げ、トップチームと共に2-1で浦和ユースが清水を撃破した。FC東京U-18(東京)は、MF横田峻希(2年)とFW今村涼一(3年)が得点を挙げ、昇格組・ジュビロ磐田U-18(静岡)を2-0で下した。
注目の千葉ライバル決戦の流通経済大柏高対市立船橋高は、球際での激しい当たりの応酬、中央での責任感ある守備、空中戦・サイドの迫力ある攻防、高速カウンターなど見応え十分の90分間となったが、スコアレスドローに終わっている。
第2節
4月15日(日)
[流通経済大柏高グラウンド]
流通経済大柏高 0-0 市立船橋高
[清水ナショナルトレーニングセンター(J-STEP)]
清水ユース 1-2 浦和ユース
[清]青島健大(72分)
[浦]池高暢希(84分)、波田祥太(90分+1)
[鹿島アントラーズクラブハウス]
鹿島ユース 3-2 柏U-18
[鹿]熊田柊人(4分)、増崎大虎(60分)、前田泰良(67分)
[柏]オウンゴール(25分)、正田徳大(88分)
[磐田スポーツ交流の里ゆめりあ]
磐田U-18 0-2 FC東京U-18
[F]横田峻希(3分)、今村涼一(52分)
[青森山田高グラウンド]
青森山田高 5-0 富山一高
[青]檀崎竜孔2(21分、36分)、天笠泰輝(66分)、三國ケネディエブス(73分)、佐々木銀士(83分)
第3節
4月22日(日)
[日立柏総合グラウンド(人工芝)]
柏U-18 15:00 清水ユース
[船橋市法典公園(グラスポ)球技場]
市立船橋高 11:00 浦和ユース
[鹿島アントラーズクラブハウス]
鹿島ユース 15:00 磐田U-18
[富山一高グラウンド]
富山一高 11:00 FC東京U-18
[青森山田高グラウンド]
青森山田高 11:00 流通経済大柏高
※日程は3月発表、変更の可能性あり
[プレミアリーグEAST]青森山田と鹿島ユースが連勝発進!注目の千葉ライバル決戦はドロー:第2節
◆人工芝グラウンド完成/岩手・大船渡市(岩手放送)
地域の人たちにサッカーやフットサルを楽しんでもらおうと、大船渡市に人工芝のグラウンドが完成しました。完成したのは大船渡市赤崎町に整備された「赤崎グラウンド」です。14日には市内のスポーツ少年団や中学校でサッカーに取り組む100人余りが集まり、テープカットで完成を祝いました。このグラウンドは被災した赤崎小学校の跡地に整備されたもので、日本サッカー協会からの助成金や、大船渡高校出身で鹿島アントラーズ所属の小笠原満男選手らの呼びかけで集まった寄付金などが活用されています。きょうはサッカー元日本代表の北澤豪さんも駆け付け、子どもたちと触れ合いました。グラウンドは15日から本格的に利用が開始されます。
人工芝グラウンド完成/岩手・大船渡市
◆内田篤人のW杯代表復帰への思い。西野ジャパン誕生はどう影響するか?(THE PAGE)
聞き手の意図を察するように、鹿島アントラーズの右サイドバック・内田篤人は、悪戯小僧のような笑顔を浮かべながらポツリとつぶやいた。
「何か監督が代わったらしいし」
2月25日の開幕戦以来、48日ぶりに戦列復帰した14日の名古屋グランパスとのJ1第8節を、勝利で終えた直後のカシマサッカースタジアムの取材エリア。質問のテーマがアントラーズから、日本代表に移ろうとした瞬間だった。
ヴァイッド・ハリルホジッチ前監督の電撃解任が、日本サッカー協会(JFA)から発表されたのが9日。後任に決まったJFAの西野朗・前技術委員長の就任会見が12日に行われてから、初めて迎えるリーグ戦で内田は右太もも裏の違和感を乗り越えてピッチに戻ってきた。
しかも、西野新監督は選手選考の基準について「過去の経験、実績にプラスして、ここ1ヶ月の状況を正確に見極めたい」と明言している。ワールドカップ代表に2度選出され、古豪シャルケのレギュラーとしてブンデスリーガ1部やUEFAチャンピオンズリーグの舞台で戦ってきた内田は、経験や実績は十二分に満たしている。
残された条件はコンディションのみ。ゆえにグランパス戦で先発し、後半32分までプレーした結果を受けて、メディアから「(リーグ戦が中断するまでの)あと1ヶ月、ガンガンと」と聞かれた直後に飛び出したのが冒頭の言葉だった。
「オレはどちらかと言うと、試合に出ないと話にならないので。みんなとはやっぱり違うからね。それで(自分を)見てくれれば、というだけなので」
週2試合の過密日程が続いていく今後へ向けて、静かなる闘志をのぞかせた内田は、約7年半ぶりにアントラーズへ復帰した今年1月以来、日本代表に関する質問をこんな言葉でかわしてきた。
「よく聞かれるんですけど、代表にはだいぶ入っていないので。オレが何か言える立場でもないし、鹿島に戻ってきたからには、鹿島のために一生懸命働きます」
最後に国際Aマッチのピッチに立ったのは、ハリルホジッチ前監督が指揮を執って2試合目となる、2015年3月31日のウズベキスタン代表戦までさかのぼる。直後の同6月に痛めていた右ひざの膝蓋腱にメスを入れ、過酷で孤独なリハビリの日々をスタートさせた。
ヨーロッパがシーズンオフに入ると、古巣アントラーズへ戻ってリハビリを継続させた。ハリルホジッチ前監督も気に留めて、復活を待っていたのか。2016年5月下旬に千葉県内で行われた、ヨーロッパ組を対象とした日本代表候補合宿に内田を招集している。
「グループに加わることでいい雰囲気になるし、彼らもウチダが戻ってきたことで喜んでいる」
全体練習に加われないことを承知のうえで、それでもハリルホジッチ前監督が内田を呼び寄せた理由を、技術委員長に就任した直後の西野氏も共有していた。
そして、順調な回復を遂げるもシャルケで出場機会を得られなかった内田は昨夏にブンデスリーガ2部のウニオン・ベルリンへ、さらに今年1月にはアントラーズへ完全移籍した。
「皆さんは知らないと思うけど、オレはドイツでずっと練習もしていたし、右ひざがどうのこうの、というのはまったく問題ないと思っています」
長期離脱を強いられる原因となった右ひざの具合を聞かれるたびに、時には語気をやや強めながら内田はこう語ってきた。それを証明する場となったピッチで、実は内田と西野氏は邂逅している。
上海緑地申花(中国)をホームに迎えた、2月14日のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグ初戦。内田は右サイドバックで先発フル出場し、相手GKの美技に防がれたものの、後半終了間際には果敢な攻めあがりから強烈なシュートを放っている。
「体もそれほど重くなかったし、どんどんよくなっている気がする。ゲーム体力やボールタッチはある程度戻ってきたけど、オレの場合は1試合だけじゃ復帰だなんて言えないからね」
大きな手応えをつかんだ、アントラーズ復帰後では初めてプレーした公式戦を、技術委員長だった西野氏が視察に訪れていた。スタジアムを後にする際には、長いブランクを乗り越えてフル出場した内田の姿に思わず表情を崩している。
日本代表の右サイドバックは、酒井宏樹(オリンピック・マルセイユ)が絶対的な居場所を築いている一方で、2番手が長く不在の状態だった。ワールドカップという厳しい戦いに臨むうえで、不慮の故障や出場停止などを考慮した場合、ひとつのポジションに2人は必要となる。
実際、酒井宏を故障で欠いた3月下旬のベルギー遠征では、宇賀神友弥(浦和レッズ)と酒井高徳(ハンブルガーSV)が代役を務めたものの、及第点に達するパフォーマンスを残せなかった。指揮官が代わっても、右サイドバックを取り巻く状況が変わることはない。
J1開幕戦を終えた後に右太もも裏の違和感を訴え、戦線離脱を強いられた内田だったが、実は復帰当初から想定していた故障だった。右ひざの古傷そのものは問題ないが、真剣勝負から長く遠ざかっていた反動が必ず体に起こると覚悟していた。
「小さな筋肉系のけがが、これから多少はあると思うよ。そういうのもケアをして、適当にごまかしながら上手くやっていくしかない」
再復帰まで予想よりも時間を要したものの、今月9日の完全合流後は紅白戦でもプレー。満を持してリーグ戦のピッチに戻ってきたからこそ、立ち止まっているつもりはない。
代表監督交代でチャンスは広がったと思うか――グランパス戦後にこう問われた内田は、首を縦に振って現役選手全員の思いを代弁しながら、こんな言葉を紡いでいる。
「(広く)見てくれると思うよ、オレは。やれるということがわかれば、(自分のことを)気にはしてくれると思う」
淡々とした口調から漏れ伝わってくるのは、2010年の南アフリカ、2014年のブラジル両大会に続く3度目のワールドカップ出場へかける熱き思い。復帰前に30歳になった、知性と強さ、速さを兼ね備えた右サイドバックが静かなるチャレンジを加速させていく。
(文責・藤江直人/スポーツライター)
内田篤人のW杯代表復帰への思い。西野ジャパン誕生はどう影響するか?
◆鹿島内田篤人がチームにもたらした「自信と安心感」(ニッカン)
<明治安田生命J1:鹿島2-0名古屋>◇第8節◇14日◇カシマ
鹿島アントラーズに帰ってきた。背番号2が。公式戦で10年5月12日のACL浦項戦以来、2894日ぶりに共演した主将のMF小笠原が代弁した。「篤人の存在が大きかった。試合前から声を出してくれてチームに自信と安心をもたらしたと思う。あいつのおかげです」。連敗を2で止めて、リーグ4試合ぶりの勝利。そこには、DF内田篤人(30)の存在感があった。
右太もも裏の張りが癒えて開幕戦以来の出場。だが、不安など感じさせない。むしろ、スケールアップした。それは同じ右サイドで組んだMF中村への、試合前の言葉から伝わる。「守備はあまりしなくていいよ。ボールを切るくらいで。あとは1人でやるから」。
頼れる姿は攻めにも出る。立ち上がり、強引なまでに裏に行く。「(相手を)押し込む意味も込めて上がった。それって大事なんだ」。高い戦術眼。警告2枚による退場を恐れて後半32分に自ら交代を申し出たが、その存在は苦境のチームに落ち着きをもたらした。
ワールドカップ(W杯)ロシア大会の予備登録締め切りまで、あと1カ月。すると「監督新しいし」と笑った。「オレは試合に出なきゃ話にならない。それで見てくれれば。やれることが分かれば、気にはなってくれるかな」。鹿島にも、日本にも、大きな復帰になる。そんな予感がする。【今村健人】
鹿島内田篤人がチームにもたらした「自信と安心感」
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