鹿島アントラーズの先勝を受けたAFCチャンピオンズリーグ(ACL)決勝第2戦が、日本時間11日午前零時にペルセポリス(イラン)の本拠地アザディスタジアムでキックオフを迎える。悲願のアジア制覇へ向けて万全の心技体で臨むアントラーズは、過密スケジュールの中で行われた明治安田生命J1リーグも若手中心のメンバーで連勝。暫定3位にまで順位を浮上させた。シーズン終盤に入って発揮されている強さの源泉と、ライバル勢の追随を許さない19個ものタイトルを獲得し、いつしか常勝軍団と呼ばれるようになった理由を、他のJクラブとは完全に一線を画すチーム作りをたどりながら振り返った。(ノンフィクションライター 藤江直人)
20年以上、常勝軍団を支える
61歳の強化部長と「ジーコスピリット」
常勝軍団と呼ばれるようになったのは、いつ頃からだろうか。少なくともJリーグが産声をあげた黎明期の鹿島アントラーズは、当時の日本サッカー界を牽引した二強、ヴェルディ川崎と横浜マリノスを追う第2集団に何とか食らいついていた存在だった。
何しろ日本リーグ2部所属だった前身の住友金属工業蹴球団が、Jリーグへ加盟申請した時には事務局側から「99.9999%不可能」と非情通告されたほどだ。しかし、日本初となる屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設計画を立ち上げ、絶望的な状況を逆転させた経緯がある。
迎えたJリーグ元年の1993シーズン。サントリーステージを制したアントラーズが見せた変貌ぶりは衝撃的であり、ライバル勢を驚かせた。それでも、年間王者を決めるチャンピオンシップでは黄金期にあったヴェルディに屈し、初タイトルには手が届かなかった。
ターニングポイントは1996シーズンに訪れた。加入して3シーズン目のMFレオナルド、2年目のDFジョルジーニョのブラジル代表コンビに牽引されながら実力を伸ばしてきたアントラーズは、名古屋グランパス、横浜フリューゲルスとの三つ巴の激戦を制してリーグ戦を初めて制覇する。
常務取締役強化部長として、61歳になった今も辣腕を振るう鈴木満が、ヘッドコーチから強化の最高責任者としてフロント入りしたのも1996年だった。今では54を数えるJクラブの中で20年以上も強化の青写真を描いてきた人物は、もちろん鈴木の他には見当たらない。
「コーチを務めながら、然るべき立場のフロントの人間が諸問題を調整する必要性を、誰よりも僕自身が感じていた。なので、強化を専門に担当する人間が必要だ、というクラブの説明も理解できました」
Jクラブの監督を務めるのに必要な指導者公認S級ライセンスを取得したばかりの鈴木は、フロント入りを青天の霹靂だったと振り返ったことがある。親会社から出向してきた社員が、強化などのフロント業務に期間限定で当たっていた時代。鈴木を奮い立たせたのは神様ジーコの檄だった。
「フロントは監督を選任して、選手を揃えます。ただ、そのシーズンを戦う陣容を整えたからといって、それで仕事は終わりではない、とジーコからはよく言われました。後は監督以下に任せるのではなく、グラウンドにフロントの人間がどのように絡んでいくのかが大事だ、チーム全体を同じ方向に導きながら組織が持つポテンシャルを100%発揮させる人間が必要だ、と」
ブラジル代表で一時代を築いたジーコが電撃的に現役復帰し、住友金属工業蹴球団入りしたのは1991年5月。今も「ジーコスピリット」としてチームに脈打つ哲学を、ジーコはピッチ内外の立ち居振る舞いを介して伝授した。その一丁目一番地は、どんな状況でも「敗北」の二文字を拒絶するメンタリティーとなる。
ウォーミングアップを兼ねた練習前のミニゲームだけでなく、例えばジャンケンで負けただけでもジーコは顔を真っ赤にして悔しがった。アマチュアからプロの集団への過渡期にあった時期。当時のジーコとのやり取りを、鈴木は苦笑しながら振り返ったことがある。
「具体的なレクチャーを受けたわけではなく、ジーコの言葉でボコボコにされながらいろいろなことを覚えていった、という感じですけどね」
ジーコにもたらされたブラジル伝統の[4-4-2]システムは、今もアントラーズの基本的な戦い方として、鈴木を介して受け継がれている。チームを家づくりに例えれば揺るぎない土台を築いた上で、監督候補と交渉する際に必ずある要望を出してきたと鈴木は言う。
「選手起用や戦い方などはもちろん監督の判断で自由に決めていいけれども、3割は鹿島アントラーズの考え方というものを受け入れて、その上に家を建ててほしいというスタンスはずっと変わりません。他のチームのことに関しては分かりかねますけど、アントラーズはフロントと監督の間とのコミュニケーションや連携を、最も密に取っているクラブだと思っています」
伝統を選手から選手へ受け継がせる
独自のチーム作りの設計図とは
1996シーズンに手にした初タイトルは、アントラーズという確固たるブランドを作り上げるための先行投資が形になっていた。1994年のワールドカップ・アメリカ大会を制したブラジル代表のビッグネーム、レオナルドとジョルジーニョを獲得するには決して小さくはない資金を要した。
実際に赤字決算が続いた。それでも、地方の小都市をホームタウンとするクラブがJリーグの中で生き残り、2002年の日韓共催ワールドカップの開催都市に選ばれ、カシマサッカースタジアムを改修して収容人員を倍増させ、クラブの収入を増やしていくには大きなインパクトを与えなければならない。
果たして、1997シーズンはヤマザキナビスコカップと天皇杯全日本サッカー選手権の二冠を獲得。1998シーズンには再びリーグ戦を制覇したアントラーズは、Jリーグを代表する強豪として認知され、将来性ある日本人の新卒選手や日本代表クラスの移籍組が望んで集まってくるブランドを手にした。
例えば1998シーズンには高卒ルーキーとして、今も現役でプレーするMF小笠原満男、MF本山雅志(現ギラヴァンツ北九州)、2014シーズン限りで引退したDF中田浩二が加入。GK曽ヶ端準もユースから昇格した。いわゆる「黄金世代」の台頭とともに、鈴木はチーム作りの設計図を180度転換させた。
1990年代はブラジル人選手を幹に、日本人選手を枝葉としてチームを形成した。翻ってJリーグ全体で健全経営が謳われた2000年代に入ってからは、日本人選手を幹にすえて、足りない枝葉の部分を外国籍選手で補う方針が今現在も継続されている。
そして、加入して3年目になる小笠原たちが一本立ちした2000シーズン。J1、ヤマザキナビスコカップ、天皇杯の国内三大タイトルを独占した史上初のチームになったアントラーズは、いつしか常勝軍団と呼ばれるようになった。
「加入して3年目、高卒ならば20歳すぎでレギュラーになった選手が、30歳くらいまで主軸を張っていく中で、最後の3年間を次の幹と上手く重ねていくことで、アントラーズの伝統を選手から選手へと受け継がせる。ウチは常に同じ方法で世代交代を進めてきました」
鈴木が振り返るように、1996シーズンに幕を開けた第一次黄金時代を支えたDF秋田豊、DF相馬直樹、MF本田泰人らの背中を見ながら、小笠原たちはアントラーズで生き残っていくための鉄則を学んだ。その一項目として、練習中における一切の妥協を許さない雰囲気がある。
前線からプレスをかける方法を巡り、秋田や本田と司令塔ビスマルクが忌憚なく意見をぶつけ合い、ピッチに険悪な空気が充満することは日常茶飯事。紅白戦で控え組が主力組を蹴散らすことも然り。鈴木はそうした光景を笑顔で歓迎した。チームがどんどん強くなる、と。
しかし、日本サッカー界に訪れた潮流がアントラーズにも波及する。次の幹になる存在だったDF内田篤人、FW大迫勇也、MF柴崎岳らが次々にヨーロッパへ移籍。選手たちの意思を尊重し、一方でジレンマを抱えながらも、鈴木はアントラーズ独自の設計図を堅持してきた。
「小笠原と曽ヶ端の存在が伝統」
2人のレジェンドが若手と中堅を引っ張る
そして今、米子北高校から加入して8年目のDF昌子源が、名実ともにリーダーとしての存在を築いた。J1年間王者と天皇杯の二冠を獲得した2016シーズン。著しい成長曲線を描き、日本代表でも存在感を増していた昌子はこんな言葉を残している。
「何が伝統かと言われたら、(小笠原)満男さんとソガさん(曽ヶ端)がいることが伝統なんじゃないかと。あの2人についていけば優勝できるんじゃないか、という背中を見せてくれる。いつまでも頼るわけにもいかんけど、本当にあの2人あってのアントラーズだと思うので」
小笠原と曽ヶ端が39歳になった今シーズン。夏場にDF植田直通がベルギー、FW金崎夢生がサガン鳥栖へ新天地を求めた中でもAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を勝ち抜き、必然的に過密日程となった終盤戦になって、2人のレジェンドが放つ希有な存在感が再びクローズアップされる。
アントラーズは先月31日にセレッソ大阪との明治安田生命J1リーグ第31節を戦い、中2日の11月3日にはホームにペルセポリス(イラン)を迎えたACL決勝第1戦を2-0で快勝。再び中2日の同6日には、柏レイソルとの同第32節を戦っている。
サッカーでは原則として試合翌日はクールダウンに、前日はセットプレーなどの確認にあてられる。中2日では追い込んだ練習ができなくなる中で、アントラーズはリーグ戦とACLで大幅にメンバーを入れ替えた。そして、リーグ戦で経験の乏しい若手や中堅を引っ張ったのが小笠原と曽ヶ端だった。
小笠原はボランチとして2試合ともに先発フル出場。曽ヶ端もレイソル戦でゴールマウスを守った。主力を温存したアントラーズは雄々しく連勝をもぎ取り、暫定3位にまで順位を浮上させてきた。
セレッソ戦でチームを勝利に導くプロ初ゴールをゲット。レイソル戦では勝ち越された、と誰もが観念した日本代表MF伊東純也のシュートを、ヘディングで弾き返す大活躍を演じた高卒2年目のDF小田逸稀(東福岡卒)は「ベテランの選手たちに引っ張られている」とリーグ戦を振り返る。
「アントラーズはどんな状況でも、絶対に勝たなければいけないので。こうやって試合に出られるのは嬉しいけど、やはりACLの方に出たい。悔しいですけど、セレッソに勝ったことがACL決勝第1戦の勝利に続いたと思うので、レイソル戦の勝利で決勝の第2戦も勝ってくれると思う。僕自身も今は確実に成長しているという実感がある。日々の練習から質の高いプレーが求められるし、紅白戦の方がハイレベルのこともある。そこでも絶対に負けたくないと思っているので」
小笠原と昌子の間の世代として、伝統を伝える役目を担ってほしいとして、アントラーズは今シーズンから30歳の内田を約7年半ぶりに復帰させた。そして、セレッソ戦を前にして、サイドバックを主戦場とする小田に「緊張しているの?」と耳打ちした内田は、うなずいた後輩にこんなアドバイスを授けている。
「緊張感がパフォーマンスの質を上げることもあるんだよ」
大先輩とのこんなやり取りを明かした小田は「内田さんのあのひと言で、緊張感を受け入れようと思いました」と笑顔を浮かべた。ポジションを争うライバルは、イコール、家族でもある。クラブの創成期にジーコが授けたイズムは秋田たちから小笠原たち、内田をへて未来を担うホープたちに受け継がれている。
チーム愛だけではない。紅白戦から火花を激しくぶつけ合う本気モード。負けることを心の底から拒絶するメンタリティー。鈴木が築く強固な土台の上でジーコの魂が色濃く受け継がれてきた、ぶれない軌跡がアントラーズの強さの源泉。そして、今夏にはジーコ本人がアントラーズに電撃的に復帰し、コーチとして登録された。
「もともと強かったわけじゃない。タイトルを獲得するたびに強くなってきた」
伝統のバトンを握り続ける小笠原が、かつて残した言葉だ。日本時間の今夜零時、8万人以上の大観衆で埋まるテヘランのアザディスタジアムでACL決勝第2戦がキックオフを迎える。クラブの悲願でもあるアジアの頂点に立ち、1996シーズンのリーグ戦制覇から数えて20個目のタイトルを手にした時、Jリーグ屈指の常勝軍団が身にまとうオーラはさらに凄味を増す。
(文中一部敬称略)
◆鹿島アントラーズが20年以上も常勝軍団で居続けられるワケ(ダイヤモンドオンライン)