フットボールサミット サッカー界の論客首脳会議 第16回[本/雑誌] (単行本・... 鹿島アントラーズのDF内田篤人が24日、オンラインで現役引退会見を行い、14年半のプロサッカー選手生活を振り返った。全文は以下のとおり。
「こんにちは。昨日スタジアムで最後に話したことがほとんどなので、僕から何とかというのはほとんどありません。以上です(笑)。質問に移ってもらったほうがいいかなと思います」
——引退はいつごろから考えていましたか?
「昨シーズンが終わったときに、もう契約はしてもらえないかなと少し思っていた部分があり、その中でもう一年だけチャンスをもらえたなという印象でした。強化部の満さん(鈴木満フットボールダイレクター)に話をしに行ったのはルヴァン杯(12日の清水戦)の試合のあと、そのまま話をしに行きました。なんて言ったかな。チームの助けになっていないということと、このまま契約を解除して引退させてほしいと試合後そのまま言いに行きました。
——自分のプレーを出せずに決断したとのことですが、サッカー選手として現役を続けたい、小笠原満男さんのあとのアントラーズを支えたいという思いもあったと思います。
「先輩たちがグラウンドでやるべきことをやっていたのを見てきました。(小笠原)満男さん、柳さん(柳沢敦)、(大岩)剛さん、中田浩二さん、僕が入った年は本田(泰人)さんもいましたが、鹿島の選手らしい振る舞い、立ち姿を感じるものがあった。それが僕にはできていないなと。練習中も怪我をしないように少し抑えながら、ゲームでも少し抑えながらというプレーが続く中で、たとえば(永木)亮太とか小泉慶とか土居(聖真)くんとかが練習を100%でやっている中で、その隣に立つのは失礼だなと思うようになった。鹿島の選手としてけじめはつけなきゃいけないなと思った」
——寂しさはなかったですか。
「たとえばカテゴリを下げたり、環境を変えるために移籍をするのは選択肢としてあるとは思うが、鹿島以外でやる選択肢はなかったので、ここで辞めさせていただきたいと思った」
——清水東高でサイドバックにコンバートされたのが生きたかなと思います。高校時代の思い出、梅田和男監督への想いはありますか。
「サイドバックにコンバートされたというより、高校時代なので磁石の『内田』って書かれていたマークがサイドバックの位置になっていたので、僕はこれからここでプレーするんだなと。特に質問をすることもなく、最初は点が取れないからサイドバックになったんだなという印象でした。やってみると面白いポジションで、誰でもできるポジションだけど、案外難しくて……みたいなポジションです。僕には合っていたのかなと思います。外から見る感じだったり、相手が来ないプレッシャーの中で、少ない選択肢の中で、ゴールにつなげる選択肢をチョイスするというのが自分に合っていたと思います。先生に関しては、きっとプロサッカー選手になるまでに人それぞれ大事な人に巡り会うことがあるんだと思うが、僕はそれが梅田先生で。家が遠かったので毎朝始発で通っていましたし、本当に理不尽な練習ばかりでしたけども。たとえばコーナーフラッグからコーナーフラッグしてスプリントしてクロスを上げるみたいな、今じゃもうできませんが、ザ・高校サッカーみたいな練習が僕には合っていたと思います」
——(静岡拠点の記者の質問音声が途切れる)
「遠いなあ。やっぱり静岡、距離があるなあ(笑)」
——スポーツにたらればはないかと思いますが、もし怪我がなければ、怪我をする前はどんなサッカー人生を描いていましたか。その後のビッグクラブへの展望はありましたか。
「あまり考えたことがないですね。こういう膝と付き合ってサッカーを続けてきたので、怪我をしなかったらというのをまったく考えたことがない。無理をしてここまでこられたというのが自分の中で大きくて。無理をしなかったらシャルケにも行けなかったと思いますし、鹿島でもこういうふうに送り出してもらえなかったと思う。自分の限界だったと思います」
——怪我のたびにリハビリを続けられた要因は。
「ある程度、感情を入れずにリハビリをしていた時もありましたけど、応援してくださる皆さんもいますし、まあただ単に仕事でもあります。契約上まっとうしたいという気持ちがすごい強かったです」
——地元の静岡県民に衝撃と、悲しみと、お疲れ様でしたという思いが広がっています。静岡の皆さんへの想いはいかがですか。
「日本平でプレーするときはいつも裏切り者と言われましたが(笑)。僕が引退を決めた……決めたというか最後のアウェーは日本平で、自分の地元でやれたので、何か縁があるのかなと思います。サッカー王国とね、言われている雰囲気がありますけど、いろんな先輩方の影響を受けながら自分もサッカーをしてこられた幸せというのはすごく感じています。ただサッカーを辞めるだけなので、そんなに大騒ぎしないでほしいなという気持ちがあります」
——今後はどういった道を歩まれるのでしょうか。
「そうですね、Youtuberにはならないですね。長友(佑都)さんとかやっていますが僕はならないです。いろんな選択肢もあると思いますが、一つ二つに絞るには早いかなと思うので、いろんな選択ができるように少しずつ仕事をチョイスするというか、どこにでも行ける仕事を選んでいきたいかなと思います。具体的にはまだ決まっていないけど、やっぱりサッカーしかないというよりは、サッカー以外のことでやれていく自信がないので、何かできればなと」
——一番、思い出に残っている試合は?
「これはよく聞かれているのでCLのベスト8かな。バレンシア戦です。たしか3点目をカウンターでチームメートが走り出したのを後ろから見たときに、スタジアム全体が揺れていたというか、この試合をやるために僕はシャルケに入ったんだなと思えるほど印象的なシーンでした」
——Jリーグではいかがですか?
「(対面に座っている土居聖真に向けて)土居、なんかある? あっ、3連覇かー。じゃあ3連覇した時のアウェーのレッズ戦ですかね。興梠(慎三)さんにクロスを上げた試合です。思い出せばもっと印象的な試合はあると思いますが、たしかに言われてみれば。あの時の11人だったり在籍していた選手はJリーグ史上最高なんじゃないかと個人的に思っています。年代が違うと比べることはできないんですけど、あの選手の経験、年齢、タイミングがバッチリ合うことはなかなかないんじゃないかと思うくらい充実したチームだったんじゃないでしょうか」
——曽ヶ端準選手から何か言われましたか。
「前もって何人かに伝えておかなきゃなと思っていた何人かのうちの一人がソガさんで、伝えたときは『お前まだやれるだろ』って一番しつこく言ってきたのがソガさんでした。あの人が一番長くやっているので反論できないんですが、『早いなあ』とか『もったいないなあ』と一番寂しそうだったのがソガさんだったので。まあ、あの人はあと10年くらいやるんじゃないですか。契約残ってますよね、10年くらいね。浩二さんが辞め、満男さんが辞め、黄金世代がどんどん辞めて、鹿島の象徴的な選手として曽ヶ端さんが残ってくれていますし、練習を見ても試合に出ている若い選手より後ろにいてくれる安心感、存在感というのは感じるものがあるので、これから僕は一人のファンとしてユニフォーム買って応援したいと思います」
——以前、先生になりたかったとおっしゃっていました。
「いやー、でも……。なります?先生に(笑)。娘がサッカーがおしまいになって一緒に遊べるって昨日喜んでいたので、先生になっちゃうとちょっと大変かなと思うのでやめておきます」
——昨日、試合のホイッスルが鳴った瞬間に湧き上がった気持ちはどのようなものでしたか。
「終わったなという印象が強かったです。それと同時にテレビに抜かれるなって思ったのですぐにこらえました。あと、こういう状況なのでチームメートはやりにくかったと思います。申し訳ないなと思いました。(対戦相手の)ガンバはわからないけど、自分たちは余計な力みも入ってしまったんじゃないかなと思っています」
——これまでのプロ生活の出来事をあえて漢字一文字で表すなら。
「出た!そういう質問!そういうの先に言ってくれないと答えられないよ(笑)。じゃあ、土居の『土』で。あとで思いついたタイミングで言いますね」
——昨日、あいさつの最後に「また会いましょう」と言ったのはどういう思いがありましたか。
「一人のファンとしてカシマスタジアムにまた来たいと思っていましたし、サッカーの道で生きたいなとも思っていますし、まあサッカー辞めるだけですからね。たぶんどこかで会うんだろうと思います」
——14年8か月ほどのディフェンダーとしてのプロ生活で、最後まで守り切れたものはなんですか。
「守り切れたもの……。そういう情熱大陸風な質問やめてもらっていいかな、難しいんだよね(笑)。なんだろうな、いいこと言わなきゃいけない感あるんだよな。なあ、土居?契約をまっとうすることがプロかなと思っていましたけど、それもできなかったので、いまパッと思いつくことはないかなあ。ないよ(少し声色を優しく)」
——内田選手が衝撃を受けた選手は。日本人と海外の選手で。
「衝撃……日本人……。誰だろうなあ。でも年齢的に自分が若かったのもあって、経験がない中で、やっぱり黄金世代は凄かったなと思います。満男さん、中田浩二さん、新井場(徹)さん、野沢(拓也)さん、本山(雅志)さん、マルキーニョス、ダニーロ、(大岩)剛さんも……全部になっちゃうな。でもあの時の先輩は衝撃でしたね。練習でついていけないことも多かったです。外国人はチームメートでよく戦ったのでラウール、フンテラール、ファルファンとかですかね」
——ウニオン・ベルリンに遠藤渓太選手が移籍しましたがどのような期待をしていますか。
「ドイツ1部か、いまは。いい時期、悪い時期、これから来ると思いますが、安定したパフォーマンスをしてほしいなと思います。試合に出続けて活躍してほしいです。最近、移籍してよく海外に出ていく選手が多いんですけど、一発目でシャルケ、ドルトムントあたりで活躍してくれる選手が出てきたら面白いなと。もちろん行って勉強するというよりは勝負してほしいなと思います。みんながみんなもらえるチャンスではないので、行ったからにはすぐ帰ってくるっていうのは……まあ、いいんですけどね。できれば長く活躍して、たとえば長谷部(誠)さん、川島永嗣さん、吉田麻也くらい自分の地位を確立できるくらい活躍していってほしいなと思います」
——鹿島でプレーするのはちょっと違うと言っていましたが、アントラーズにいることで何がそう思わせるのでしょうか。
「他の日本のチームに行ったことがないので、いまいちはっきり違いがわからないんですけど、鹿島に移籍してきた選手が言うには空気というか厳しさは他のチームとは全然違うらしいです。そこで自分が先輩たちから感じてきたものが次に残せないなと。残さないといけないのが僕の本当の仕事だったんですけど、それができていないなと思いました。戦力的にもチームに取ってプラスになっていないと思ったので、そういう思いからです」
——無理をしたからここまで来られたとのことでしたが、そこまで自分を追い込めたのはどうしてですか。
「次の目標というか夢が、試合を重ねていく中で、年齢を重ねていく中で出てきていたので、それに向けてやっていかなきゃいけない段階が自分の中である程度決まってくるので、目標を持つのが大事かなと思います。
——目標とは。
「たとえばワールドカップとか、たとえば優勝したりとか。そのためにはこの年齢でここに行っておかなきゃなとか。計算というか計画は必要なんじゃないかと思っています」
——小笠原満男さんの引退会見を見ていたと思います。いまそこに土居聖真選手がいるようですが、ご自身のそういった姿を見てくれる後輩がいることはどう思いますか。
「土居は毎日クラブハウスのお風呂に一緒に入るんですが、試合前日のお風呂で静かだなあと思ったら隣で泣いていました(笑)。彼は鹿島のユースだよね。ユースから大事にされて、いろんなものを見て、このエンブレムを着けてプレーしてくれているので、いろんな思いもあると思いますし、これからいろいろ背負ってもらわないといけない部分もたくさんありますし、もちろんピッチ外での仕事も年齢的にはやってもらいたいと思います。性格がすごく優しいので、昨日の試合を見ていてもやはり、土居聖真がいないとバランスが取れていなかったり、チームのことを考えてプレーしてくれているなという印象があります。きっとこれから、もっともっと活躍してくれるんじゃないかなと思います」
——引退をカズさんに事前に伝えましたか。
「えっとね、カズさんには言いませんでした。少し前にお会いできるチャンスがあったんですけど。なんだろう、自分はカズさんに憧れてサッカーを始めました。その人より先に引退するということがすごく幸せだなと思いまして、試合が過密日程の中で行われていたので、自分から連絡するのはやめようと思っていました。すごく迷いましたが。前日に『明日の試合頑張って』と連絡いただきましたし、終わってからも連絡いただいて、またご飯に誘っていただきたいなと思っています。事前に伝える人をね、自分のなかである程度チョイスしました。言ってプラスになる選手と、言わないほうがいいなという選手もいて、(三竿)健斗には言いませんでした。彼は感情が表に出るキャプテンシーと責任感が強いので、先に言うと調子が狂うなと思って彼には言いませんでした。永木亮太にはビックリさせてやろうと思って言いませんでした」
——後悔はありませんでしたか。
「後悔は考えればあると思いますが、考えないようにしています」
——シャルケで欧州CLに出ましたが、若い選手も欧州CLに出たいという気持ちを持っていると思います。出た意義はなんでしょうか。
「昨日ちょうどバイエルンが優勝しましたが、パリSGにも数多くシャルケに在籍して一緒にプレーした選手もいます。バイエルンにもいます。ヨーロッパに一度出てしまえば、ある程度のクラブに行けばあとは紙一重だと思います。いまは僕が出場時間が一番多いのかな。それもすぐに抜かれると思います。ただ、海外に行きたいのはわかりますが、チームで何かやってから行けばいいのになと思います。それができないなら移籍金とか置いていけばいいのになって思います。間違ってますか?よく『海外に行きたいです!』って俺のところに話をしに来る選手もいますが、そんなに甘くないよっていう。行きたきゃ行きゃいいけどいますぐ。どうせすぐに帰ってくるんだろうなって思います。CLも日本人だからそういう目で見てもらえますが、ドイツとかスペイン、フランス、差は縮まっていないような気がします」
——シャルケであれだけ長い期間、在籍してプレーできたことについてはどのような感想を持っていますか。
「人に恵まれたなと思います。チームメートと監督。僕はあまり海外サッカーを見ないので、シャルケに行くまではよく知らなかったけど、チョイスしてくれた代理人の見る目もタイミングもあります。もしかしたら運もあります。自分のプレースタイルに合う国やチームを決める、チョイスすることも選手の能力の一つだと思います」
——静岡のファンにメッセージをお願いしてもいいですか。
「地元は強いですね。小学校、中学校、高校と静岡で楽しくサッカーをさせていただきました。サッカー王国と呼ばれる地だけあって、サッカーがすごく盛んでした。子供のころはアントラーズよりもジュビロのほうがやっぱり好きで応援していましたが、すみませんいまはアントラーズのほうが好きです。また地元に戻ってチャンスがあれば、子どもたちと一緒にサッカーもしたいし、内田ラボがあるのでぜひそちらに足を運んで、よろしくお願いします」
——静岡のサッカーとどう関わっていきますか。
「静岡は独特なサッカーの空気がありますし、静岡学園が(高校選手権で)優勝しましたし、国体でも(静岡県代表が)優勝しましたし、少しずつ静岡の色が濃くなってきているんじゃないかな、戻ってきているんじゃないかと思います。僕も静岡の選手と対戦するのは楽しみですし、鹿島に静岡出身の選手が何人かいるのであとは彼らに託して、僕はそれを見守りたいと思います」
——清水東のコーチのご予定は。
「いや、あるんじゃないですか」
——内田選手がここまで15年間、サッカーをしていて学んだことで子どもたちに伝えたいことはありますか。
「なんですかね、プロになれない選手、子どもたちがほとんどですが、なれる選手となれない選手は何が違うのかなと考えた時、多少の運も、半分くらいは運もあると思いますが、『自分は努力してるな』と思ったら違うんじゃないかなと思っています。サッカーが好きでその延長線上にプロになっちゃったというのが自然だと思います。プロになるために頑張るぞ頑張るぞという努力より、サッカーが好きで結果的にプロになれちゃったというほうが僕はしっくりくるかなと思います」
——32歳での引退、プロキャリアは長かったですか、短かったですか。
「自分にとって年齢は関係ないです。膝がどうこうよりは手術した後の1年、2年近くの空白が一番効いたなと思います。技術的には別にと思いますが、運動能力が落ちたなというのが一番思いました。走る、止まる、ターンする、基本的な能力が一番ガツンときたかなと思います」
——プロとしてのキャリアは今後の人生でどう生きますか。
「32歳は社会的に見れば全然若いほうなんですけど、30歳、40歳くらいでメルカリの小泉(文明)さん(現鹿島社長)とかすごく活躍されている方もいるので、そういう方の知恵もいただきながら、こういう年齢で引退してチャレンジできることは何があるのかなと考えたい」
——さっきの漢字一文字は思いつきましたか。
「土居の『土』で」
——家庭にサッカーを持ち込まないタイプとは思いますが、結婚後見守ってくれた奥様にどう報告はされましたか。またどういう思いを持っていますか。
「僕の奥さんに関して言えば小学校、中学校の時に昼休みにサッカーをしているのを丸太の上でよく見ていましたし、サッカーをやっている姿を見せることはできなくなりましたが、小さい頃からボールを追いかけているのを見守っていてくれていましたし、僕がプロになってからもあの時、小さかった時と同じような顔で見てくれていました。引退を報告というか、強化部のところに行って話をした後すぐに『辞めるから』って言ったら『ああそう』って。早かれ遅かれくる話だなと思っていたらしく、何をしようかという話をしましたし、僕が貯金をいくら持っているかも分かっていない状態なので奥さんもそこら辺は多少の心配はしていましたが、まあなんとかなるでしょう」
——引退を決めたルヴァン杯の試合で、何か決定的なものがあったのでしょうか。
「エスパ戦でどうこうというよりは、その前の試合(8日のJ1第9節鳥栖戦)でベンチに入れてもらった時にピッチのグラウンドレベルで見て、残り10分、20分のプレーを真横で見ながら、自分はこの時間帯にこの強度に耐えるだけの身体がないなと思った中で迎えたルヴァン杯のエスパ戦でした。試合は前半はほとんど抑えながらプレーしたんですが、後半はやっぱり持たないし、細かいことを言えば危ないところがわかっているのにそこのスペースに行けなくなったり、自分が行かなきゃいけないポジションにスピードを持っていけなくなったり、そういうシーンが自分の中で数多くあって、あの最後の試合がやっぱり自分の中で『辞めなきゃだめだ』って後押しにはなったかもしれません」
——多くのサポーターが最後に見にきました。サポーターにはどんな思いがありますか。
「ドイツまで足を運んで応援してくれる日本人の方もいましたし、カシマスタジアムで背番号2を着て応援してくれている人もいました。僕がアントラーズに入るずっと前から鹿島の応援をしてくれている人もいます。きっとこれから鹿島を応援してくれるであろう人もいます。このクラブは勝つためにフロント、チーム、選手が何をすればいいかをわかっているチームです。いま置かれている状況は変わることも必要だと思います。その中で勝ち点3を取らなきゃいけないのは選手は本当にすごくわかっています。ただあと一歩、二歩のところまで来ているんじゃないかという印象はあります。そこは経験のある選手がやってくれるんじゃないかと思っています」
——サポーターは将来的にアントラーズに戻ってきてほしいと考えていると思う。指導者のライセンス取得は考えていますか?
「指導者はすごく面白そうだし、興味がある仕事だなと思いますが、やりたいと言ってできる仕事じゃなくて、チームから『どうですか?』と言う話があって初めて動けることなのかなと思っています」
——運動量が落ちたと話がありましたが、引退後に右膝に感情があるとしたらどんな言葉をかけてあげたいですか。
「よく頑張ったんじゃないかなと。多少、ほぼ潰れる覚悟でW杯だったりCLを戦ってきましたし、自分が選択したことですし、本当にいろんな人に治してもらって強くしてもらった膝なので、いい思い出がいっぱいです」
——寂しいという感情が大きいのか、長くリハビリをやって解放される気持ちもあると思いますが、どんな感情が沸き起こっていますか。
「正直、やっと終われるなという気持ちのほうが強いです。自分をセーブしながらプレーしてきたのは変な話、試合に出る出ないとか、試合に勝つ負けるというよりも自分の中でつらかったです」
——いまはほっとしているという表現が正しいですかね。
「まあ、そうですね」
——さまざまな舞台を経験している内田選手から見て、日本人選手、日本サッカーの現在地はどうでしょうか。世界との差は縮まっているように感じているのか、まだまだ世界との差はあるのか。どんなお気持ちですか。
「サッカー選手が終わったので好きなことを言ってもいいなら、(差が)正直広がったなと思っています。DAZNでパパッとやればCL決勝とJリーグの試合を見られるけど、違う競技だなと思うくらい、僕の中では違いがあります。怒られるかな?こんなこと言ったら」
——いえ、説得力があります。その差は長らく埋まりませんか。
「歴史が違うのである程度の時間は必要なんじゃないかなと思いますし、その年の良し悪しもあるし、一概には言えないけど、たぶん差はすごくあると思いますよ」
——同じ世代の槙野智章選手は中断中に現役のうちに取得できるライセンスの勉強を始めたと言っていました。内田選手はライセンスの取得状況はいかがですか。
「いろいろ考えてはいるんですが、何もやっていないです。で、槙野が監督やるんですか?てっきりインスタグラムばっかりやってるのでそっちかと思っていました。指導者って本当に難しい職業だと思います。アントラーズの監督をやるとなってもしサインしたら、もうクビになるカウントダウンだと思っています。二度とこのチームには戻って来られないんだろうなというね。やっぱり僕が在籍しているときの監督を見ているとそういうふうには思ってしまう。監督をやらなければ、スタッフにならなければ、ずっとこのチームに携わることができる。そこが難しいなと思います。シャルケも毎年のように監督が変わって、代表でも素晴らしい監督に指導していただきましたが、この何週間かはザーゴ監督を選手として戦術や身振り手振りを見ていたというよりは、監督ってこういう風に振る舞い、戦術を組み立てるんだな、練習を組み立てていくんだなと見ていました。ザーゴ監督には言いましたが、鹿島を早く辞めることでもったいないのは、監督のそばで監督の勉強をできないことが一つ残念なことかなと思います」
——選手を引退して一番先にやりたいことは。
「子供の幼稚園のお迎えです。コロナの状況もあるのであれですが、これからは手をつないで一緒に幼稚園の送り迎えができたら最高だなと思います」
——昨日もスタジアムにいらっしゃいましたね。
「発表はしていませんが二人目も生まれましたし、どこかで男の子って書いてあったけど女の子です。二人とも」
——名良橋晃さんから受け継いだ背番号2は誰につけてほしいですか。
「どうしましょう。どうしますか?そこは僕だけの背番号じゃないので、名良橋さんの意見も聞きたいなと思いますし、僕は在籍していないので強化部の判断になると思います。いまここでは言えないです」
——鹿島アントラーズのサポーターの応援はどうでしたか?
「Jリーグ自体、おじいちゃんおばあちゃん、子どもを連れてこられる安全な環境だなというのが一つあります。海外だと爆発したり、警官が馬に乗って飛び出てくるシーンもよくありますし。日本人は安全なのであれですが。力強い声援と、バスでスタジアムに入ってきますが、試合前からモチベーションをアップさせてくれるサポーターだと思います。もちろんタイトル数が一番多いチームのサポーターだけあって、品格というかそういうのはあるよね?きっと。あると思います」
——内田選手が世界に出て行って、多くのファンが日本が世界に近づいていると考えていたと思います。でも差が広がってしまった原因はなんでしょう。
「わかりません。戦術的なのか、お金の規模なのか、わからないです。僕も海外離れて長いのでレベルはわからないけど、映像で見る限りはやっぱり……。あと海外にいま多くの選手が出ていますが、おお!っていうチームでやっている選手というのはそう多くはないかなと思います」
——日本サッカーの現状に危機感はありますか?
「危機感はわからないです。もう僕はサッカー選手じゃないので、一般人としてちょっとかじったことある人間として喋りますが、Jリーグとか海外サッカーがどうというつもりはないです。でも二つの試合をパッパッと見たときに違いはあると思います。Jリーグがレベル低いというのは全然言ってない。なんだろう。JリーグにはJリーグのスタイルがあって、ヨーロッパにはヨーロッパのスタイルがあるというだけだと思います」
——昨日の試合ではDF広瀬陸斗のアクシデントで前半16分から急遽出場しましたが、その時の心境はいかがでしたか。
「試合前に実は陸斗に『絶対に怪我するな』と。『3-0で残り15分でもってこい』という話をしていたんですが、彼はやってくれました。空気を読んだというか。彼はひどい怪我なんじゃないかと見た目で思いましたが心配です。僕のチョイスもありましたし、永木亮太のチョイスもあった。監督が僕の隣に座って、今日の試合の責任は全部俺が持つから思い切りプレーしてこいと言っていただいて準備をしました。僕が途中から入って僕が怪我して交代枠をもう一枚使うのは絶対に避けたかったので、そこだけは気を使いました」
——球際で競っていましたが、やっぱりできないと思いましたか。
「途中から交代しても最後の5分、10分持たない。自分の中では足が止まっちゃうのは終わりだなと。あの強度でずっと90分やれて、中2日でやってきた自分がいるので。もっと視野も広かったし、蹴るボールももう少し質が良かったかなと思います。
——内田選手にとってワールドカップはどうでしたか。
「4年に一度ですし、国を背負ってプレーするということでお祭り感のほうがちょっと強いかなと思います。レベルはCLの方が高いと思いますけど、名誉や責任感はすごく大きなチャレンジできる大会なんじゃないでしょうか」
——選手という形ではなくなりますが、アントラーズとどう関わっていきたいですか。
「それは僕が答えることじゃないかなと思います。僕がアントラーズにいさせてって言ったって、いらないよって言われればそれまでですし。そういうことです」
——ピッチに立てなかった南アフリカW杯、3試合に出場したブラジルW杯、怪我を経て目指したロシアW杯。3大会それぞれに思いがあったと思います。振り返っていかがでしたか。
「南アフリカに関して言えば、世界とまだ戦える選手ではなかったなというのが一つ。ブラジルに関して言えば、あのレベルはシャルケの日常のレベルだったなと。そこら辺のレベルは体感していた、イメージしていた感じだったなというのが一つ。ロシアは……なんだろう。羨ましいなという思いと、ブラジルで負けたコロンビア戦で2分くらいでパッパッとやられて、ロシアでも少ない時間でパンパンってやられたので『吉田ぁ……』って思いました」
「本来なら皆さんの顔を見て、スタジアムでも多くの人に見守られながら終わりたいなというのがありましたけど、こういう状況なので。メディアの皆さんに関して言えば、距離感は難しかったなと。これからは好き放題言えるので、取材をしに来てもらえれば裏表なく炎上覚悟で言えることもあります。ぜひその時は一緒にね、サッカー好きな方多いと思うので一緒に語り合えればと思います。ファン・サポーターの人に関して言えば、たくさんの人に支えてもらってプレーすることができました。これからはね、皆さんと同じように応援する立場になりますので、席が隣だったらあいさつしてください。以上です」
◆【引退会見全文】内田篤人が14年半の現役生活に幕「土居がお風呂で泣いていた」「ユニフォーム買って応援したい」(ゲキサカ)