J1で2年連続となる二桁ゴールをあげた鹿島アントラーズの上田綺世。いまや日本代表の次代を担うFWとして期待を集める存在となったが、決して順風満帆なエリートコースを歩んできたわけではなかった。「サッカーが嫌いだった」という少年は、なぜ厳しい競争を勝ち抜くことができたのか。インタビューでその理由に迫る。
「人間は考える葦である」
これは17世紀にフランス人思想家のブレーズ・パスカルが自身の書に綴った言葉だ。自然界において、人間は葦のように弱い存在だが、思考によって、宇宙をも包むことができるという意味を含んでいる。
アスリートを長く取材するなかで、何度もこの言葉が頭に浮かぶ出会いがある。思考する力は、身体能力などの生まれ持った能力を埋める可能性を秘めたものだ。長く現役として活躍できる選手の多くは、経験に導かれた思考力で、加齢による衰えを補い競争に勝ち残っている。しかし、闇雲に努力しても成果は得られないのと同様に、ただ考えればいいというわけではない。何を感じ、自身に必要なものを見つけ出し、それを埋めるために何をすべきか……。いかに有益な思考ができるかの重要性を、上田綺世の話を聞きながら改めて感じた。
2019年、法政大学3年の夏に鹿島アントラーズでプロデビューした上田は、今夏の東京五輪代表の軸となるストライカーとして期待を集めていた。しかし、大会直前の負傷もあって同大会での先発出場は1試合に留まり、無得点だった。
それでも今季のJリーグでは14得点を決め、鹿島のエースストライカーに成長。サポーターの間では、「結局綺世が点をとる」というフレーズが定着するほどだ。11月に続き、2022年初戦となるウズベキスタン戦を戦う日本代表にも招集されている。日本代表のエース候補でもある23歳のストライカーは、どんなキャリアを歩んできたのだろうか。
父親との「意地の張り合い」の中で身につけた論理的思考
「まず僕はサッカーが嫌いだったんですよ。社会人チームでプレーしていた父親のゴールシーンを見て、小学1年生のときにサッカーを始めました。でも実際にやってみると面白くなかった。週に1度しかない少年団の練習も雨で中止になるのを願っていました。一番下手だったから、練習でも恥ずかしかったんです。厳しい父親に引きずられながら行くような感じでした」
そんな綺世少年がサッカーに夢中になったきっかけもまた、ゴールだった。
「数カ月経ったころに出してもらった練習試合で点を決められたんです。それが僕の転機になりました。自分のシュートがゴールに入る弾道、その快感をもう一度味わいたくて、そのためにどうすればいいのかと、どんどんサッカーにのめり込んでいったんです」
それからは父親の影響もあり、新旧の名ストライカーの映像を見続けた。
「ヨーロッパの4大リーグはまんべんなく見ていましたね。父親と試行錯誤しながら、とにかく点を獲る方法を考えて考えて身につけたのが小学校の6年間でした。点が獲れるならその方法はなんでもよかった。ミドルでも背後でも、ヘディングでもこぼれ球でも関係なかったですね」
映像を目にした憧れの選手のプレーを真似てみるというのは、サッカー少年なら誰もが経験したはずだ。しかし、上田はひと味違っていた。
「僕も真似はしました。ロベカルの蹴り方をやってみたい。映像で見たものをプレーに直結させてすぐに上達したい、と。でも、小学生が一発でできるわけじゃない。そこで、父親が脳になってくれたのは大きかったですね。すぐにはうまくいかないと理解したうえで、現状をかみ砕いて、論理的にものを捉えさせてくれた父親がいたからこそ、素直にスキルを身につけることができたと思います。厳しい父親だったので諦めることも許されなかった。でもそういう父親に証明したい自分もいたので。まあ意地の張り合いみたいなものもありましたけど(笑)」
論理的にというのはどういうことなのか?
「たとえば、ルーニーがギグスの縦パスに抜け出して、ファーストタッチで入れ替わって、ファーのサイドネットにゴロのシュートを流し込んだゴールがあったとします。まず、ルーニーの動き出しとギグスが顔を上げるタイミングが合っていた。そのうえで、パスを受けたルーニーがファーストタッチで、ボールをどこに置いたのか。相手DFから遠い外側にボールを置き、ゴールを1度見て、右足でニアに蹴るふりをしてから、体を開いてファーに蹴っていた。だから、ゴールキーパーはニアに飛んでいた。そういうことをかみ砕いたうえで、自分がその局面になったとき、その見せ方と蹴り方をやってみる。でも、そんなふうには蹴れない。だったら、練習しないとゴールの幅は増えない。ルーニーを真似したいんじゃなくて、ルーニーが見せたゴールの形があるのなら、それを自分も身につけなければいけないということです」
「小さいけどヘディングは誰にも負けたくなかった」
小学4年生になると、自分の練習量が足りないと感じ、少年団以外にスクールにも通った。自主練習も欠かさない。結果的に友人と遊ぶこともせず、毎日サッカーに没頭した。
「スクールは少年団よりもレベルが高かったので、スクールで学んだことを少年団でも活かせる。そんなふうにふたつの環境を行き来しながら、考えに考えて、成長していくというのは僕の原点であり、今も変わらないことでもあります」
しかし、高校へ上がるまでの上田は、身長が低かった。体躯の違いは大きな壁となる。
「周りの子がどんどん身長が伸びていくなかでも、僕の成長は遅かったから、どんなにスキルを身につけても、できなくなっていく部分も多かったんです。ただ、父親が大きかったので、いつか自分も背が伸びると信じたうえで、体にいろいろ馴染ませて、技術とセンスを磨いて、点を獲る方法を体に叩き込みたかった。小さいけどヘディングは誰にも負けたくなかったし、小学生でもヘディングで点が獲れるというふうに工夫しようと」
ある場所で通用した能力もカテゴリーが上がり、環境が変われば、通用しなくなる。そこで諦めるか、諦められないのかが、大きく成長できるか否かの分水嶺だ。
「それまで誰も止められないような存在であっても、どんどん通用しなくなっていくというのは子どもながらにわかっていました。だから、そうなったら、新しい要素をどんどん足していかなくちゃいけない。それはずっと続くことなんですよ」
中学時代は鹿島のジュニアユースである鹿島アントラーズノルテに所属したが、ユースには昇格できずに鹿島学園高校へ進学する。これが上田にとっての挫折だったと語られることは多い。しかし、彼が向き合った現実はもっと厳しいものだった。
「挫折と捉えてもらってもいいんですけど、僕は自信家でもないし、自分を過大評価しない。むしろ過小評価しているんです。だから、ユース昇格は目標だったので悔しかったけれど、納得しているところもあったんです。3校あるジュニアユースからユースへ上がれるのは15名ほど。そこに自分が入っているかといったら、入っていないだろうとも思っていたんです。ユースへ上がれないなら、県外の強豪校へ進学しようと考えました。でも、ことごとく県外の高校のセレクションは落ちてしまったんです」
いち早く上田を迎え入れようとしてくれたのが鹿島学園だった。しかし、時間的な余裕はなかった。鹿島学園への返答には期限があったからだ。鹿島学園に断りを入れて、このまま県外の高校へチャレンジし続けても合格する保証はない。どこにも受からなければ、一般入試で地元の高校へ進学するしかない。上田は悩んだ。
「どんな環境であっても、成長するためには、自分がどうにかするしかない。だったら、僕を求めてくれる高校で、もがいてみるのもいいんじゃないかと鹿島学園への進学を決断しました」
しかし、鹿島学園は茨城県内では屈指の強豪校だ。最初の数カ月は70名弱が在籍する1年生だけでのトレーニング。6つに分けられたチームで紅白戦が実施されたが、上田は下位の3つのチームを行ったり来たりという状況だった。寮生活だったため、助言を求める父親もいない。上田はひとりで考えた。
「上位半分にも入れない。この状況で試合に出られるようになるのか? どうやって上へ行くのか。待っているだけではチャンスは来ないから、チームを観察して、状況を分析し、考えて、次の練習でやってみて、また考えてを繰り返し連続して行うしかないと。すぐには無理でも最終的に3年のときに試合に出られるように、と1年のときから考え続けました」
ようやくやってきた成長期「もう1回暴れられる」
高校入学時にも170センチに届かない身長。中学時代のように1トップのFWとしての評価は得られなかった。上田はサイドハーフでプレーし、プレーの幅をひろげながら、その時を待っていた。高校1年の途中から徐々に身長が伸び、センターフォワードというポジションを手にした。3年時には高校選手権にも出場している。
「足も速かったし、ドリブルもでき、自分で打開できたので、もう1回自分が暴れられるというふうに感じました。高校の3年間は“自分を出せるチャンス”を見出す時間になりました。それができたから大学へも繋げることができました。僕のキャリアにとって、一番重要な時間になったと感じています」
2017年に法政大学へ進学した上田は、同年関東大学リーグの新人王に輝き、大学サッカー界ナンバー1ストライカーへと成長する。<後編へ続く>
◆「練習が中止になればいいのに」サッカー嫌いの少年を魅了した“ゴールの快感” 上田綺世が考え続けた「得点のための論理」とは(Number)