日刊鹿島アントラーズニュース

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2017年6月23日金曜日

◆【黄金世代】第3回・小笠原満男「誕生、東北のファンタジスタ」(#1)(サッカーダイジェスト)


小学校時代は、スピード溢れるドリブラーの点取り屋。


 いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。
 
 1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
 
 後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
 
 アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
 
 今回は鹿島アントラーズの闘将、小笠原満男の登場だ。

 サッカーとの出会い、小・中・高の歩み、黄金世代の仲間との切磋琢磨、常勝軍団・鹿島への語り尽くせぬ想い、さらには、光と影が絶えず交錯した日本代表での日々まで──。深みのある独特の言い回しで、数多の金言や名エピソードを盛り込みながら、紆余曲折のキャリアを振り返ってくれた。
 
 焦がせよ、東北人魂!



 およそ3か月ぶりに再会した小笠原満男は、ずいぶんと精悍な顔つきになっていた。
 
 時は1997年の夏、静岡・清水の草薙サッカー場だ。全日本ユースの1回戦、大船渡高校対清水市立商業高校の一戦が、いままさに始まろうとしていた。
 
 左腕に巻いたキャプテンマークの位置を確かめながら、チームメイトに発破をかけている。
 
 高3になってすぐ、小笠原は足首を傷め、サッカーボールを蹴れない日々を過ごした。責任感がひと一倍強い男だ。新主将となったもののチームのためになにもできず、もどかしさを抱えるなか、強く自己を律したという。
 
「いろんなひとに言われた。怪我をする前以上になって戻ればいいんだって。だからリハビリはけっこう頑張ってやったよね」
 
 その期間、上半身を重点的に鍛えたからだろう、身体が一回り大きくなったように見える。華奢でどこかひ弱だったイメージは一変し、短く刈り込んだ髪型もあいまって、ずいぶんとパワフルな印象を与えた。風貌はほぼ、現在のそれと変わらない。
 
 万全を期して復活を遂げ、全日本ユースの初戦に間に合わせてきた。やがて、選手入場。小笠原と並んで入場したのは、相手チームの主将、小野伸二だった。
 
「当時のキヨショウ(清水商)はシンジを筆頭にすごいタレント集団だった。あんなチームを向こうに回して、俺たちはどうしたら勝てるのか。みんなで何度も話し合った。小野伸二へのマークは1人じゃだめだから2人にしよう。それでも無理だったら? 3人で行く? そりゃさすがに無理だろう、みたいな。作戦会議をやってたね。
 
 スコアは接戦だったけど、内容的にはもうぜんぜん。シンジとは国体やインターハイでも何回か戦ったけど、一度も勝てなかったね。でもさ、東北から出てきてああいう強豪とやれて、すごく充実感があったし、楽しかったのを覚えてる」
 
 そう微笑を浮かべながら振り返る38歳のミツオ。だが、大一番に賭けていたのだろう。18歳のミツオは試合後、目を真っ赤に腫らし、涙がこぼれるのを必死に堪えていた──。


いろんな遊びの中にも、大事な“学び”があった。


 1979年4月5日、東北のファンタジスタは岩手県盛岡市で生を受けた。
 
 物心ついた時にはサッカーボールを蹴っていたという。父親が地元の社会人チームでプレーしていたため、練習や試合の際にはくっついていき、大人たちに遊んでもらっていた。
 
 小学生となり、近隣に唯一あったサッカー少年団への入部を切望する。だが、無念にも対象は小学3年生から。父親とこんな会話をかわしたという。
 
「サッカーを本気でやるなら、最後までやり抜けって言われた。一生懸命やってそれでも入りたいならいいけど、やって途中で辞めるくらいならいますぐ辞めろと。約束したよ、それは。だから小3まではほとんどひとりで練習してた。家の前でね。壁に向かってひたすらボールを蹴って、たま~に大人に相手してもらったり。そんな2年間だった」
 
 壁に蹴って、止める、また蹴る。単純な反復練習だったが、ひたすら繰り返すことで、狙ったところに蹴れるようになっていった。誰に教わるでもなく、自然と身に付いた基本技術。本人は、「完全な天然児。ブラジルのストリートサッカーみたいなもの」と説明する。
 
「いまはサッカーだったらサッカーだけだったりする。でも俺は、野球もやったし鬼ごっこや缶蹴りも本気でやった。いま思えば、ああいうのってすごく大事だったなと思う。
 
 遊びとはいえ、決められたルールの中でぎりぎりの駆け引きってあるじゃない? 野球だってフライを取るためには落下地点を読まなきゃいけなかったり、ステップワークやら、なにかしら吸収できるものがある。サッカーに熱中はしてたけど、そうしたいろんな遊びの中にも、大事な“学び”があったよね」
 
 晴れて、太田東サッカー少年団に入団する。小笠原は小3ながら、すぐさま試合に出場。上級生たちに揉まれながら、鍛えられていく。「ありがたかった。ぜんぜん通じなかったけど、あれが田舎の少年団のいいところ。すごく技術を大事にしてたし、いいチームに入れて良かった」と懐かしむ。6年時には主将を任され、全日本少年サッカー大会にも出場した。
 
 小学校時代はフォワードで、「いまじゃ想像もつかないだろうけど、スピード溢れるドリブラーの点取り屋」だったという。盛岡市立大宮中に進学すると、中盤にポジションを下げ、「パスを送るところに楽しさを感じるようになった。小学校ではぜんぶ自分で行って点を取ってやるみたいな感じだったけど、アシストの喜びを知り出すのかな」と、ファンタジスタへの布石を敷くのだ。
 
 圧倒的な技巧を誇る小笠原が、青年時代に憧れたプロフットボーラーはいたのか。意外な選手の、意外なプレーに興奮したという。
 
「あんまりこれっていう選手はいなくて、レンタル屋さんでワールドカップのゴール集を借りてくるくらい。普通にマラドーナとかすごかったけど、ちょうど中2でJリーグが始まったから、もっと身近に見れるようになったよね。
 
 ジーコはすごいなぁとか思ってたけど、一番印象的だったのがラモス(瑠偉)さん。必死にボールを取り返しにいく姿を見て驚いた。あれくらいの選手でもやるんだって。小さい頃から『取られたら取り返せ』っていつも言われてきて、ああ、プロでもするんだと。ああいうプレーがすごく好きだった」


次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。


 高校進学は、ひとつの岐路だった。
 
 地元の盛岡には、名門の盛岡商業高校がある。だが小笠原には気になる人物がいた。盛商を強豪に育て上げたのちに大船渡へ転勤した齋藤重信監督で、その名伯楽の薫陶を受けたいとも考えていたのだ。
 
 全国に出るなら盛商、サッカーを教えてもらうなら大船渡。15歳は決断する。
 
「最終的には巧くなりたいってのがあったから、齋藤先生のお世話になろうと決めた。結果的には全国にも行けたし、大船渡を選んで本当に良かったと思う。まあまあ中3の頃って、なにかと多感じゃないですか。親にも反抗的だったし、親元を離れてみたいとも思ってた。
 
 それが齋藤先生の家に住ませてもらったら、もっと厳しくてさ(笑)。きちんと靴を揃えたり、料理を作ったりとか、当時はきつかったけど、いまとなっては感謝しかない。ひとりでなんでもできるようになったからね」
 
 大船渡は決して強豪校ではなかった。同級生には、中学時代に野球をやっていて、高校でサッカーを始めた初心者も少なくなかったという。そんな選手たちが最終的にレギュラーの座を掴み、ともに成長しながら全国の舞台をも駆け抜けた。ひとつの財産だと、嬉しそうに振り返る。
 
「もうね、サッカー始めた動機からして、ボウズが嫌だとか、サッカーの方が人気あるからみたいな感じだから。でも、さっきのキヨショウとの試合もそうだけど、本当に楽しかった。レギュラーのうち3人は、中学校までショートとキャッチャーと外野だからね。キャッチャーはやっぱりがっちりしてて当たりに強かったし、ショートはキーパーだったんだけど、横に飛んで捕るのに慣れてるからすんごい巧かった。強いチームで全国に出るのは当たり前。だけど俺らの場合は、そこに至るまでの過程が本当に楽しかった」
 
 高校入学前から、東北のユース年代では知らぬ者がいないほど有名だった。やがて、日の丸に初めて招集される。中3時のU-16日本代表だ。
 
 そこで初めて、小野や稲本潤一、高原直泰らとの出会いを果たす。つまり小笠原は、黄金世代が産声を上げた当初からのメンバーだったのだ。
 
 しかし──。
 
「とんでもない。次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた」
 
 その代表合宿で15歳のミツオは、いったいなにを目撃したのだろうか。
 
<♯2につづく>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※6月22日配信予定の次回は、伝説の黄金世代メンバーと歩んだユース代表時代をフルカバー。20年来懇意の記者も初耳のレアエピソードが、次から次へと飛び出します。こうご期待!


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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/505試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月16日現在。

http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=26869

◆決勝点アシストの柴崎、スペイン紙から高評価「プレーオフの主人公」(サッカーキング)


柴崎岳

 リーガ・エスパニョーラ2部の昇格プレーオフ決勝ファーストレグが21日に行われ、MF柴崎岳が所属するテネリフェとヘタフェが対戦。柴崎は10試合連続の先発出場を果たし、21分に右CKから決勝ゴールをアシストした。1-0と勝利を収めたテネリフェが、1部昇格へ王手をかけている。

 1部昇格へ前進する勝利をもたらした柴崎について、スペイン紙『マルカ』電子版が活躍を紹介する記事を掲載。「決定的な重要性を持つ」と見出しを掲げ、同選手がアシストをしたプレーの動画も紹介している。

 同紙は柴崎について「クラブ・ワールドカップ決勝のレアル・マドリード戦を経て、この冬の移籍市場で(スペインに)到着した日本人選手は、この昇格プレーオフの主人公になっている」と伝え、「島での生活やテネリフェというクラブ、リーガ2部というカテゴリーへの適応に苦しんでいた。5月末まで得点もなかった」と移籍後の経緯を紹介し、プレーオフで活躍を見せる柴崎の“挽回”を伝えている。

 8年ぶりの1部昇格に王手をかけたテネリフェは24日、アウェイでのセカンドレグに臨む。

https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20170622/603318.html?cx_cat=page2

◆決勝点演出の柴崎岳にスペインメディア「2部という舞台は彼に見合わない」(GOAL)


高評価を受ける柴崎 (C)Getty Images

コーナーキックから決勝点をアシストした柴崎。スペインメディアから称賛を受けている。

コーナーキックから決勝点をアシストしたテネリフェのMF柴崎岳に高評価が与えられている。

テネリフェは21日、1部昇格プレーオフ決勝ファーストレグでヘタフェと対戦。柴崎が蹴ったコーナーキックに、ホルヘ・サエンスが頭で合わせてネットを揺らした。結局この1点を守りきり、テネリフェがホームで先勝している。

スペイン『エルドルサル』は柴崎に10点満点中9点を与え、「フィジカルが完璧な状態にあるときには、ボールとともに再び技術の“リサイタル”を開き、ボールを持たなくてもそれは同じであった。今回はホルヘのゴールをアシスト。彼がブランキアスール(テネリフェの愛称)の成長及び、この最終局面において重要な役割を担っていることを疑う者など誰もいない」と手放しで称賛した。

さらに、地元メディア『デポルプレス』でも「ほかの試合で見せたような輝きがなくとも、異質な選手であると見て取れる。リーガ2部という舞台は彼に見合うものではない。熱心な姿勢を欠かず、選択を間違えなかった」と賛辞を惜しまなかった。

数字に残ったのはアシストのみという結果ながら、テネリフェの攻撃陣をけん引する柴崎。スペインメディアは柴崎の確かな技術と存在感を高く評価しているようだ。

決勝点演出の柴崎岳にスペインメディア「2部という舞台は彼に見合わない」

◆テネリフェ柴崎、昇格見えた「大一番やり慣れている」(報知)




 ◆スペインリーグ2部プレーオフ決勝第1戦 テネリフェ1―0ヘタフェ(21日・テネリフェ)

 【テネリフェ(スペイン)21日=豊福晋】スペイン1部昇格を懸けた2部プレーオフ(PO)の決勝第1戦が21日に行われ、元日本代表MF柴崎岳(25)の4位テネリフェがホームで3位ヘタフェを1―0で破った。先発した柴崎は前半22分に右CKで決勝点をアシストし、後半37分に退いた。アウェーで24日(日本時間25日早朝)に行われる第2戦で引き分け以上、または1得点以上での1点差負けで2009~10年以来8季ぶりの昇格が決まる。

 岳に聞く

 ―CKから決勝点。

 「CKとかセットプレーは、いいボールを入れても決まらないこともあるし、悪いボールでも決めてくれることもある。何とも言えないけど、ピッタリ味方と合った。運もある。キッカー側の心理としては、なるべく競りやすいボール、入りやすいボールを上げることで、何とか勝率を良くすることしかできない。あとは中の選手頼み。ホルヘ(サエンス)が決めてくれた」

 ―キッカーを任されている。

 「日本でも蹴ってたし、自分が蹴って点が入ってくれたらうれしい」

 ―いよいよ残り90分。勝負強さ、大一番は鹿島での経験も生きているか。

 「大一番は結構やり慣れている。いい緊張感を持ちながら臨めている。リラックスしすぎないで、多少の不安もありながら、でもその不安がいい緊張感になって、いい体の状態に持っていけている」

 ―10試合連続先発出場。マルティ監督は『選手には1部昇格の夢があるから疲れは気にならないはず』と言っていた。

 「前半とか最初はいいけど、後半最後の方になると、もちろん気持ちの問題になってくる。でも、ついていけない部分も出てくる。そこのマネジメント(采配)は監督にやってもらうしかない」

 ―第2戦のヘタフェは攻めてくるはず。

 「今日みたいに引かないだろうし、もっとノリノリになってくるだろうし、分からない。準決勝で対戦したカディスも、ホームではすごく強かった」

http://www.hochi.co.jp/soccer/world/20170622-OHT1T50216.html

◆モデスト移籍濃厚のケルン、監督は大迫をエース候補に「“9番”もあり得る」(サッカーキング)


大迫勇也

 ケルンを率いるペーター・シュテーガー監督は、移籍が濃厚となったフランス人FWアントニー・モデストの代わりに、日本代表FW大迫勇也をエース後任候補に挙げた。

 22日付のドイツ紙『ビルト』によれば、モデストの移籍(約3800万ユーロ/約47億円)はほぼ決定的なようで、それに伴いFWの補強候補もすでに決まっているという。FW武藤嘉紀に所属するマインツのコロンビア代表FWジョン・コルドバと、日本代表DF酒井高徳が所属するハンブルガーSVのアメリカ代表FWボビー・ウッドが最有力のようだ。

 しかし、コルドバの場合は2000万ユーロ(約25億円)という移籍金、ウッドの場合は移籍金1200万ユーロ(約15億円)だが、300万ユーロ(約4億円)という給与がネックになっているようで、クラブ内でもまだ決定には至っていないようだ。

 休暇先のウイーンから『kicker』誌の電話取材に応じたシュテーガー監督は、「(モデステの移籍の穴を埋める選手を模索している状況に)全然問題ない。すでにしっかりとしたチームの基盤がある。今さら、ひとりの選手が遅れてやってきても、問題にもならないし、パニックになる必要もない」とリラックスしている様子。「トニ(モデステ)が今シーズン25得点も取るなんて期待していなかったよ。まあ、10~15点は期待できる選手だったけれどね。この穴はどうにか埋めないといけないね」。

 その中には、大迫のセンターFWもオプションには入っているようだ。「もちろん、狙った選手の獲得という可能性も良いけれど、ユーヤの9番(センターFW)というオプションもあり得るしね」と明かした。

 さらに、ケルンはホッフェンハイムからドイツ人FWマルク・ウートを獲得することがほぼ決まっている模様。すでに基盤が固まっているケルンでは、バリーション豊富で柔軟なシステムによりエースストライカーの穴埋めが計算ができているようだ。

https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20170623/603679.html?cx_cat=page1

◆内田篤人がピッチに戻る! 日本代表復帰にも「呼ばれたら、いつでも」(サンスポ)


5月23日、ドイツから帰国し、シーズンを振り返るシャルケの内田篤人

 【No Ball,No Life】日本代表待望の選手、DF内田篤人(29)=シャルケ=がピッチに戻ってくる! ロシアW杯アジア最終予選で苦戦を強いられている「ハリル・ジャパン」。本大会に向け、心強い選手が復活を遂げる。

 内田は17日、自らプロデュースするコンディショニングラボ(整骨院×トレーニング施設)「ウチダラボ」を故郷の静岡県でオープンさせた。

 「地元に貢献したかった。僕自身、長いけがを経験してきたので、若い人からお年寄りまで多くの人の身体づくりを手助けしたい」

 前日16日の報道向け内覧会で、同選手は「ウチダラボ」で会員が実際に受けることのできるトレーニングメニューを実演。このメニューは自身がドイツでのリハビリの時期に取り組んでいたもので、わずか数分で汗だくとなるほど激しい内容だった。

 右膝故障のため、2015年春に戦線離脱。同年6月に手術を受けた。その後、2シーズン続けてリーグ戦ではプレーできず。昨年12月の欧州リーグ、ザルツブルク(オーストリア)戦の後半38分から出場。約10分プレーしたが、これが最近2シーズンの公式戦出場記録となった。

 27、28歳という年齢はアスリートにとって脂の乗る時期だが、2年近くピッチに立てないのは、選手としてこの上ない苦しみである。内田はこの苦境を乗り越えるため、日本ではJ1鹿島・塙敬裕フィジオセラピスト(理学療法士)、ドイツでは吉崎正嗣トレーナーの指導の下で、厳しいリハビリをこなしてきた。

 昨年5月の欧州組国内合宿では筋肉の落ちた細い足で、一人黙々とピッチサイドでエアロバイクで汗を流していたが、「ウチダラボ」で披露した同選手の足はけが以前の状態に近いほど筋肉がついていた。努力を重ねてきた証しといえるだろう。

 「痛みもないし、もう大丈夫。チームでも(来季に向けた)合宿から出られる。オフからしっかりと準備したい」と回復をアピールする内田。日本代表復帰にも「呼ばれたら、いつでも(準備はしている)。チャンスがあれば」と意欲的だ。

 「スピードを生かした攻撃参加」。内田のプレースタイルを語るとき、よくこのようにいわれる。しかし、それよりも特筆すべき持ち味がある。ピンチを未然に防ぐ「危機察知能力」、攻撃のタイミングや状況に応じたポジショニングを取る「判断力」、そして最も優れている点は指揮官の策を忠実に遂行できる「戦術理解度の高さ」だ。

 岡田武史監督、アルベルト・ザッケローニ監督、ハビエル・アギーレ監督の3人の歴代監督に招へいされてきた。出入りの激しい欧州の強豪クラブでも監督の要求にしっかりと応え、その地位を確立してきた。ハリルホジッチ監督の下では初陣チュニジア戦(2015年3月27日)、第2戦ウズベキスタン戦(同31日)の2試合で合計51分プレーしたのみだが、同指揮官も「彼がパフォーマンスを取り戻すのを心待ちにしている」と内田の復帰を期待している。

 公式戦から遠のいている点で、最終予選残り2試合(8月31日ホーム豪州戦、9月5日サウジアラビア戦)出場の可能性は低い。しかし、本大会出場を信じ、来年の本番を見据えたとき、内田の代表復帰がチームにもたらす影響は計り知れない。8月のブンデスリーガ開幕がいまから楽しみだ。(一色伸裕)

http://www.sanspo.com/soccer/news/20170622/jpn17062212000001-n1.html

◆鹿島アントラーズvsアルビレックス新潟 6月26日(サンスポ)




 ・鹿島はJ1での新潟戦直近5試合で負けがなく(4勝1分)、現在3連勝中である。

 ・しかし、鹿島はJ1での新潟とのホーム戦直近9試合で2勝しかしていない(3分4敗)。

 ・鹿島はJ1で通算249回のクリーンシートを記録している。今節無得点に抑えると、J1では初めて250回のクリーンシートを記録したチームとなる。

 ・新潟はJ1での前年覇者戦直近12試合で勝ちがない(3分9敗)。しかし、同チームが最後に前年覇者に勝利したのは、2010年の鹿島戦である(ホームで2-1)。

 ・新潟がJ1で前年覇者相手に記録した直近3勝は、全て鹿島戦(2009年に1勝、2010年に2勝)。

 ・鹿島は後半開始15分以内に得点を挙げていない今季リーグ唯一のチーム。

 ・ペドロ ・ジュニオールは、カウンターから2得点を挙げている今季リーグ唯一の選手。

 ・新潟のホニは今季リーグで最もオフサイドを取られている選手。

 ・新潟は今季開幕から15節終了時点で33失点を喫している。J1で同期間に33失点以上記録した直近11チーム中8チームは、J2へ降格している。

http://www.sanspo.com/soccer/news/20170622/jle17062211300012-n1.html

◆J1鹿島・井畑社長退任へ 「地域密着」信条に(茨城新聞)


愛着持てるチームを 黄金期再来願う

退任するJ1鹿島・井畑滋社長=鹿嶋市粟生東山のクラブハウス、村田知宏撮影

鹿島アントラーズFCの井畑滋社長(65)が28日付で社長を退き、今後は相談役としてサポート役に回る。退任を前に、在任した7年間を振り返ってもらった。

井畑社長は同FCの前身、住友金属蹴球団で1975年から7年間選手としてプレーしていた。引退後は社業に専念。2008年1月に総務部長として古巣に戻り、取締役を経て10年7月に5代目の社長に就任した。

鹿島のホームタウンの鹿行5市の総人口は約28万人と、大都市に本拠地を置くクラブに比べ規模が圧倒的に小さく、集客が難しい地域。「強化面でも事業面でも立ち止まったら終わり。常に進化し続け、他より一歩先を目指してやってきた」と振り返る。

一番の記憶に残る出来事は11年の東日本大震災。クラブハウスとホームのカシマスタジアムが被災する苦難に見舞われた。スタジアムの復旧に加え、選手のモチベーションの維持、業績への影響など多くの問題を解決するために奔走した。震災から3カ月後、仮復旧したスタジアムで試合を開催した時は「ホームで試合ができる喜びを改めて感じた」という。

在任中、大事にしてきたのは「地域密着」の理念。「鹿島は地域の人々の誇りであり、深い愛着を持てる存在であり続けなければならない」と強調する。鹿行5市などで構成するホームタウン協議会の協力もあり、12年に震災の影響などで中断していた選手による小学校訪問を再開させるなど、ホームタウン活動を活発に行った。スタッフによる食育事業なども含め、16年のホームタウン活動は192回に上った。「成果は数字として出しにくいが、継続することに意味がある」と力を込める。

昨季は7年ぶりにJリーグの王座を奪還した。社長就任後、初めてリーグタイトルを手にし「やっと取れたという安心感があった」と目を細める。続くクラブワールドカップ(W杯)ではアジア勢初の準優勝。天皇杯全日本選手権も制し、社長として迎えた最後のフルシーズンは「日本サッカー界を席巻し、クラブ史に残る年になった」と胸を張る。

今後の鹿島に期待するのは黄金期の再来。「タイトルを集中する期間を黄金期とするなら、これまで3度あった。今季、リーグ連覇を果たせば4度目の黄金期の到来だ。17年は新時代を迎えるにふさわしい戦力が整ったので、必ず達成できる」と、さらなる躍進を確信している。 (藤崎徹)

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14981418309638

◆鹿島・昌子、個の能力警戒 25日最下位新潟戦も「侮れない」(スポニチ)




 連勝中でも、最下位相手でも油断は禁物だ。鹿島は25日のホーム新潟戦に向け、DF昌子は敵の個の能力の高さを警戒。経験値が高い元日本代表DF矢野や、スピードあふれるドリブルが持ち味のFW山崎らの名前を挙げ「チーム力は鹿島の方が上かもしれないけど、侮ってはいけないのが個の能力」と強調した。

 新潟戦後は上位チームとのアウェー3連戦が待つ。弾みをつけるためにも、まずは新潟に勝って3連勝を狙う。

http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/06/23/kiji/20170622s00002000441000c.html

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