日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年3月24日土曜日

◆代表より鹿島を優先した増田忠俊。 「でも、1キャップに感謝しようと」(Number)





「試合でのプレーは何も覚えていないんですよ。本当に」

 切れ味鋭いドリブル、スペースへの飛び出しで'97年鹿島アントラーズのシーズン2冠に貢献した増田忠俊。彼にとっての、たった一度の日本代表キャップはこのゲームで刻まれた。

 '98年2月15日、オーストラリア戦@アデレード。3-0。得点者中田英寿(5分PK)、平野孝(65分)、同(70分)。

 中盤をダイアモンド型に組んだ4-4-2のトップ下として先発出場。63分に平野孝との交代でピッチを退いた。

 試合出場までの出来事はよく覚えている。岡田武史監督の下、フランスワールドカップに臨むチームに呼ばれた。1月、オフを過ごしていたハワイに電話が入った後、鹿島の合宿を経由してオーストラリアに向かった。機内では「生き残りには、一度きりの勝負」と誓った。監督は中田英寿のパートナーを探している。そう感じた。北沢豪、森島寛晃といったポジションの近い選手とは「同じプレーをしていても仕方がない」とも。

カズ、中田……しかし試合の記憶はない。

 現地に入ると、静岡学園つながりの三浦知良が気さくに声をかけてくれた。チームはやはり中田中心という雰囲気があり、先輩達も若きMFを立てる雰囲気があった。増田自身が年齢も近い中田の部屋に行くと、野菜嫌いを補うかのようなサプリメントがたくさん置いてあった。

 試合の出場は当日告げられた。観客もまばらなスタンドだった。父が現地まで観に来てくれていた。合宿合流直後はチームの雰囲気を「Jリーグ選抜のよう」とも感じたが、パスポートチェックと国歌斉唱で確かにこれは、代表戦なんだなと自覚した。

 しかし覚えているのはそこまで。理由はいくつかある。本人は「がむしゃらすぎて余裕がなかったんでしょう。悔しさもありますし」という。

 時代背景もある。このゲーム、今では考えにくい「テレビ中継のない日本代表戦」だったのだ。フランスワールドカップ予選の「ジョホールバルの歓喜」を経て、翌年2月に招集されたチーム。当時19歳の中村俊輔も招集された。

 そういった状況でも、試合は日本に中継されなかった。

 周囲から試合のことを言われることも少ないし、試合の関連動画がインターネットで閲覧できるわけでもない。

 もうひとつ、本人にとって“その他の日本代表”での記憶が鮮烈だったからだ。

「ジーコと共に戦える」という喜び。

 若かりし頃の増田は、個人技に長けた、攻撃的MFだった。

「わざと2~3人に囲まれて、それをヒュッと抜いたりとかしてね。お客さんがわーっと沸くようなプレーをわざとしたりするような選手でした」

 静岡学園出身。3年間、個人技術を徹底的に叩き込まれたが、無名のまま卒業した。全国大会出場歴なし、県選抜歴もなし。'92年の高校卒業時は、Jリーグが誕生する直前だった。名門高のつてで、日産(横浜マリノス)、全日空(横浜フリューゲルス)、住友金属(鹿島アントラーズ)に練習参加する機会を得た。いわば「テスト生」。そのうち、住金での練習で好感触を得た。母校の井田勝通監督からも「ポジションが重複する選手が少ないチーム」を薦められた。自身にとっては「ジーコと共に戦える」点が魅力的だった。

 '93年に入団後、2年めから出場機会を増やした増田に、“日本代表”からの声がかかる。アトランタ五輪予選に挑む西野朗から招集を受けたのだ。'95年1月のことだった。

 合宿地だったオーストラリアに行った。

 同年代でスーパースターだった小倉隆史、前園真聖らがいた。しかし、当の本人にとってそれはまったく興味の湧かないものだった。

「オリンピックの価値、権威というものが全く分からなかったんですよ。そこに呼ばれるのなら、鹿島でレギュラーを獲りたい。そう思っていました」

五輪代表よりも鹿島が重要と思っていた。

 当時の時代背景ならありうることだった。'73年生まれの静岡の高校生にとって、最高峰は「高校サッカー」。中高時代にJリーグは存在しない。日曜朝の欧州サッカーの録画中継には興味があった。一方、国内サッカーについて増田自身は'90年に三浦知良がブラジル・サントスから読売クラブに入団し、「日本リーグを少し観るようになった」程度。

 日本代表はアジアでもがいていた。

 アトランタ五輪は日本サッカー界にとって28年ぶりの本大会出場だった。だから、五輪でのサッカーを観たこともないし、イメージもない。

 それ以上に、当時の増田にとっては自らのチーム、鹿島アントラーズが重要に思えたのだ。 レオナルドやジョルジーニョとトレーニングしたほうが、絶対に自分にプラスだと思っていた。当時の鹿島は4人の中盤のうち、両者に加え本田泰人という絶対的な存在がいた時代。1つのポジションを自身を含め7~8人で争うような状況だったが、それでも「鹿島でレギュラーになればフル代表に入れる」といわれた時代だった。そちらを目指したかった。

西野監督との面談で話したこと。

 オリンピック代表に選ばれたことは光栄だったが、どうしても自分のなかでピンとこない。選手選考の競争に本気になりきれない。

 そのうえ、現地に呼ばれても、試合での起用は限られた。増田自身、朝の散歩の時間に遅刻してしまう失態も犯した。

 西野朗監督とも面談の機会を持った。

「キレが戻っていない」

 そんなことを言われた。

 鹿島アントラーズ始動前の合宿でもあったのだ。

 しばらくは我慢の時を過ごしたが、ついに増田は西野に直訴した。

「ここで出られないんだったら、鹿島でしっかりレギュラーを獲ったほうがいいです」

 つまり、日本に帰りたいと。

「それでいいのか?」と西野は聞き返した。

 増田は「はい」と答えた。

 翌日、現地の空港で時の日本サッカー協会強化委員田嶋幸三(現会長)に付き添われ、1人で日本に降り立った。

クラブハウスに直行すると2時間の説教。

 チーム離脱。

 この話題にスポーツ新聞が飛びつかないわけはない。すでに増田に対し「確執」「異端児」といった見出しが飛び交っていた。

 帰国後、鹿島アントラーズのクラブハウスに直行すると、2時間の説教が待っていた。

「なんてことしてんだ! もう一生、二度と、代表には呼ばれないぞ」

 クラブの上層部からこっぴどく叱られた。増田が想像するに、帰国までの間にも協会と鹿島の間でかなりのやりとりがあったようだった。

 今思えば、「確かに当時の自分はちょっとナメた部分があった」と思う。自己主張が強い。'96年からチームを率いたブラジル人指揮官ジョアン・カルロスとは度々監督室に呼び出されるほど意見し、「おまえほど大変なやつはいない」と言われたこともあった。

離脱して本当に代表の価値を知った。

 増田はこの時、「分かりました」と答えた。いっぽう内心でこう思った。

「だからこそ、もう一度、日本代表に選ばれよう。今度はフル代表に」

 自分の感情を行動で示したことで、身近にいる自分を支えてくれていた人たちから強く意見された。その周囲の反応から「とんでもないことをしたんだな」と知った。

 と同時に、逆にこんな感情も芽生えたのだ。

「スッキリしたんですよ。よし、じゃあ次に向かおうと」

 周囲にはあまり見せることなく、筋力トレーニングに取り組んだ。チームメートだった秋田豊の助言を受けながら、大きな筋肉を鍛えるウェイトトレーニング、小さな筋肉を鍛えるチューブを使ったトレーニングに打ち込んだ。また、自ら課題とも感じていた後半の運動量低下をカバーすべく、ランニングも採り入れた。回り道的なテクニックを見せつけるよりも、ゴールに向かうプレーを意識づけた。鹿島にはいい手本がたくさんいた。

「なにくそ精神ですよね。今では西野さんとも言葉を交わすんですが、当時は『見返そう』という気持ちが芽生えていた。協会の方にも『生まれ変わってもう一度見てもらおう』と。良し悪しはあるでしょうが、本気になれたんです」

 一方で、離脱をしたことで本当に日本代表の価値を知った。だから、もう一度戻る。そう誓ったのだった。

増田はちょっと大人になったかな、って。

 そしてついに、'98年1月、増田は念願叶って日本代表に「戻った」。

 '98年1月1日の天皇杯決勝で横浜フリューゲルスに3-0の勝利。4分に先制点を奪い、25分の2点めをアシストした。柳沢敦とともに新聞に「代表入り確実」とも書かれる活躍を評価されたものだった。

「サッカーに対する取り組み方が変わったことが伝わったんだなと思いました。増田はちょっと大人になったかな、と観て下さったんでしょう。同時に鹿島のスタッフの方々が協会のほうにかなり話をしてくださったのではないか、とも感じていました」

 しかし、「日本代表に戻る」その目的は果たされたものの、その日本代表での2キャップめを刻むことは許されなかった。

超満員の横浜でのゴールと公式記録。

 増田には、オーストラリア戦よりもはるかに強い記憶のあるフル代表での試合がある。'98月3月4日、横浜国際総合競技場で戦ったダイナスティカップの第2戦だ。

「横浜国際のこけら落としの大会だったんですよ。超満員でした。トップ下で先発して、40分にゴールも決めたんですよ。このゲームは結果が残せたこともあって、よく覚えています」

 しかし、この試合の相手は「香港リーグ選抜」。フル代表同士の対戦ではない。公式記録では国際Aマッチにカウントされない。それゆえ、増田に刻まれた日本代表としての記録は「キャップ1」のままなのだ。

「中国戦、韓国戦では結局出場機会がなかったんです。そうすれば2つめが刻まれたんですが。

 自分としては、力が通用しなかったとは思っていないんですよ。あの時のチームの中でも、ドリブルで仕掛ける部分では他の選手にはない特長があったと思います。でもそれを決めるのは、監督なんですよ。監督のチョイスによって決まる。ダメだったというのは現実。認めなきゃいけないことですよね」

 フランスワールドカップのエントリーには残れず。その後、8月のサンフレッチェ広島戦で右すねを複雑骨折。復帰まで1年以上を要した。

「体がキレキレの状態だったんですよ。ピッチを飛んでるような感覚だったんですけどね。そういう時に限って怪我をするという」

 '99年に復帰後、鹿島では小笠原満男とのポジションを争う形になった。出場機会が減少するなか、'00年に東京に移籍を決意。その後、'02年ジェフユナイテッド市原(現千葉)、'03年柏レイソル、'06年大分トリニータでプレーした。この年には腰痛に苦しめられリーグ戦3試合の出場に終わると、プロのキャリアに終止符を打った。2度めの日本代表キャップを刻む機会は、ついぞ訪れなかった。  

引退後は大分で子どもたちを指導。

 引退後、大分トリニータのスクールコーチなどを務めた。そのまま大分に留まり、現在は自ら設立したスクール「M.S.S.」で子どもたちに「徹底的に基本技術を身につける」とのスタイルでサッカーを教える。大分トリニータのゲーム中継時などには解説も務める。

 日本代表キャップ1。これは増田にとって幸せな数字か否か。本人の人生にどんな影響を与えているのか。

「今、仕事をしていくなかで『元日本代表』という肩書がつくけど……実質上、人生のなかで日本代表にいたのは3週間から1カ月です。本当に元代表と言えるのか? そう思うこともありますよ。ただ、その当時の仲間とあの時期にやれたことは誇りに思います。代表に入ることもすごく難しいことだったんで、自信を持ってもいいことだと思いますけどね」

今の仕事でも肩書を使えることに感謝。

 いまだ受け容れ方に戸惑っているのだろうか。答えは、少し長く続いた。

「キャップ1という数字はね、何かの大きな大会に出ていればもっと数字が延びたんだろうなとか、チャンスを活かせなかった当時の自分をもったいないなとか思ったりもしますよ。うんでもまあ、繰り返しになるけどそこまでの過程や、代表に入ることを考えたら……ありがたいことですよね。たとえ1であっても、本当に。

 今の仕事でもその肩書を使えることに感謝しようって。だって解説の仕事でも『元日本代表』と言ってもらえますもん。恥ずかしい気持ちはあるけど、誇りは持とうって。評価してくれた人、周りの人がいてくれてこその結果ですから。そりゃキャップ100の選手とは経験は大きく違いますよ。うん、でも1を恥じていたら、今の選手にも失礼ですよね。胸を張って『俺は元日本代表』と言いますよ」



 数字上は「1」しか残らない。しかし増田は若き日に主張を貫き、顧みるべきところは顧みた。弱点を補う決心に至り、それをプレーで表現し、周囲に伝えた。そうしてたどりついた「1」でもある。若いから許された。やり直しができた。周囲に支えられた結果。「1」の数字にはそんな意味が込められている。

「自分の色を出してやってほしい」

 そんな立場から、現在の日本代表でプレーする選手に対してはこう思う。

「あんまり偉そうなことは当然言えないんですけど! 胸についている日の丸は当然重たいものですが、やりきってもらいたいですよね。本当にやれる選手が残る場所。それが代表ですから。

 あとはできる限り、自分の色を出してやってほしいですよね。今のサッカーは監督の指示を守ることが重要視されているように見えるんですよね。昔の選手はもっと『俺が、俺が』と出ていったじゃないですか。ピッチ上の11人はパズルみたいな部分があって、組み合わせでいろんな絵が出てくると思っています。だから自分の特長を出して、子どもたちにいい影響を与えるようなサッカーをしてほしいなと思いますね」

 いつの日かトップチームを率いてみたい。そんな希望もあるが、現在は大分の地でよい選手を育てることに集中する。100人を超える、大分のスクール「M.S.S.」の子どもたちにも伝えたいことがある。

「自分を超える存在が出てきてほしいですよね。つまり、日本代表キャップ2以上の選手ですよ!」

 ジュニアを立ち上げて5年め、そしてジュニアユースを立ち上げ4年め、今年初めて“卒業生”を送り出す。その歩みは着実に進んでいる。この春、ギラヴァンツ北九州ユースや母校・静岡学園に進む選手もいるという。


代表より鹿島を優先した増田忠俊。「でも、1キャップに感謝しようと」






◆[大学サッカー]順大の新主将・名古 悲願のリーグVへ進化見せる(中スポ)




 4月7日に開幕する第92回関東大学サッカーリーグ戦(東京中日スポーツ後援)に向け、昨季の1部リーグ上位4校の新主将に連載で意気込みなどを聞いている。題して、「リーダー蹴春トーク2018」。その第3回は順大のMF名古新太郎(3年・静岡学園)だ。昨季2位の同大にとって、目指すは28大会ぶり2回目となる優勝のみ。来季からのJ1鹿島入りが内定しているエースMFが悲願のリーグタイトルを奪いに出陣する。 (取材・構成、関孝伸)

◆雰囲気を大事に

 -自ら主将に立候補した

 名古「試合にずっと出ていましたし、順大に入ったときから、(ゆくゆくは)自分が中心になってやっていくんだろうなと思っていました。だから、1年生のときから、最上級生になったら自分が主将をやるつもりでいましたし、やりたいと考えてもいました」

 -意欲的に映る

 「主将をやることで、自分の成長にもつながるからと思ったんです。下級生のときから、上の学年の主将の姿を見て準備してきましたし、みんなからの信頼も積み上げてこられたんじゃないかと思っています」

 -信頼の積み上げとはどういうことか

 「まずは選手として試合に出続けることです。それと、練習に臨む姿勢や授業態度に関しても、(他の選手の模範となるように)しっかりとやってきました。サッカー選手である前に、一人の人間であり、一人の学生なので、それを意識しながら恥ずかしくない行動をしてきたつもりです」

 -主将としてどういうふうにチームづくりを進めていくのか

 「雰囲気を大事にしたいです。フワフワとした感じにならないように、煮えたぎるというか、ピリッとした雰囲気でやっていきたいと思います」

 -今季の目標は

 「全部のタイトルを取りにいくつもりでやります。ただ、一番欲しいのはリーグ戦のタイトルです。優勝する自信はあります」

 -名古選手入学後の順大のリーグ順位は、1年時の6位から、4位、2位と上がってきている

 「去年は2位でしたけど、目標を達成するために部員全員が一つの方向を向くという部分がちょっと足りなかったんじゃないかと感じています。だから、今年は自分がトップチーム以外のいろいろな人たちとも話しながら、徐々にでいいので、みんなが一つの方向を向くようにしていきたいと思います」

 -目指すサッカーについて考えていることは

 「今までと同じようにポゼッション(ボールを保持すること)をしながら組み立てていくサッカーを目指します。ただ、ポゼッション自体にいつまでもこだわるのではなくて、その先のゴールを奪うという部分を大事にしたいと考えています」

◆勝負にこだわる

-昨季のチームから主力選手がかなり抜けた。名古選手に頼る部分が自然と大きくなる

 「去年も自分がチームを引っ張るつもりでやっていたので、気持ちの部分は今まで通りで変わりません。自分が中心になって、毎試合、毎試合、勝負にこだわってやっていきます。個人として目指すのは2桁得点2桁アシスト。ボランチなので、守備でも気が利く選手にならなければ駄目だと思います」

 -入学当初はドリブルが得意でゴール前への飛び出しもうまいフォワード(FW)だったが、2年時からボランチに転向し、プレーの幅が広がった

 「3年間を振り返ってみると、チームの成績としてはタイトルを取れていないですし、悔しいですけど、個人的には充実していました。FWからボランチの位置に下がったことで、前よりも頭をメチャクチャ使ってプレーするようになりました。試合の流れを読む力がより身についたと思うので、それをチームにうまく還元できるようにしたいです」

 -集大成のシーズンになる。タイトルへの思いは相当強いのではないか

 「去年のユニバーシアードで優勝して世界一になったんですけど、メチャクチャうれしかったんです。優勝の喜びを順大でも味わいたいですし、今年にかける思いはだいぶ強いものがあります」

 -今季に向けての思いとして、「進化」と色紙に書いた

 「進化して、今までよりも強い順大にならなければいけないということです。自分個人のレベルアップとしては、(プレーの部分で)もっとうまくなるのはもちろんのこと、気持ちの面でも進化して、それを見せたいです」

 -来季からの鹿島入り内定が1日に発表された。今季は「J1のチームに行く名古」という目で見られる

 「大学サッカー界の中で一番の存在にならなければいけないと思っています。それくらいでなければ、プロではやっていけません。周りに『すげぇな』と言わせるようなプレーをしたいです」

 -最後にプロ入り後の目標は

 「まずは1年目からスタメンで試合に出続けることです。そこから日本代表になって、世界と戦って、ユニバで見た(世界一の)景色をまた見られるようにしたいです」

<名古新太郎(なご・しんたろう)> 1996(平成8)年4月17日生まれ、大阪市東淀川区出身の21歳。168センチ、64キロ。同区の豊里幼稚園年中組のときにサッカーを始めた。豊里サッカークラブから東淀川FCを経て静岡学園高へ。同高3年時の全国高校選手権でベスト8入りし、自身は大会優秀選手に選出された。順大では1年時から活躍。昨年はユニバーシアード日本代表選手としてユニバ台北大会での金メダル獲得に貢献した。来季から鹿島でプレーすることが内定している。

◆名古新太郎アラカルト
 ▼読書好き 小説、自伝、自己啓発本を好んで読む。お気に入りの小説は、百田尚樹作の「海賊とよばれた男」や、木村拓哉の主演で来年映画化される東野圭吾作の「マスカレード・ホテル」といったところ。天台宗大阿闍梨(あじゃり)の酒井雄哉が著した「ムダなことなどひとつもない」も記憶に残っている一冊だ。

 ▼米好き 全日本大学選抜の海外キャンプで14日までセルビアに滞在していたが、当地ではパンと肉ばかりの食事に悩まされた。白飯が恋しく、「地獄でした」と振り返る。ちなみに、一番好きな料理は何かと聞かれたら、「オムライス」と即答する。

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[大学サッカー]順大の新主将・名古 悲願のリーグVへ進化見せる


  

◆悔やむ大迫「前半に決め切らないといけない」(ゲキサカ)




[3.23 国際親善試合 日本1-1マリ リエージュ]

 最前線で体を張って基準点を作ろうと奮闘した。90分間ピッチに立ち続けて攻撃をリードした日本代表FW大迫勇也だったが自身に得点は生まれず、チームは1-1の引き分けに終わった。

 W杯本大会で対戦するセネガルを想定して組まれたマリ戦。相手の身体能力の高さやフィジカルの強さは「予想どおりだった」という。「メンバーを見ても良いチームに所属している選手が多いと思ったし、ヨーロッパでプレーしている選手も多かった」。しかし、「局面局面で負けたことが大きかった。追い込んでもかわされる部分、球際の部分で1枚はがされることが多かった」と“個の力”を相手に後手に回る部分が多かったと振り返った。

 自身は前半12分に巧みな落としからFW久保裕也のシュートを呼び込み、同41分にはFW宇佐美貴史のシュートチャンスを演出。同45分には宇佐美のクロスに飛び込んで自らダイビングヘッドを放つなど、フィニッシュにも絡んだが得点は生まれなかった。後半アディショナルタイムにFW中島翔哉の得点でドローに持ち込んだものの、「前半のうちに決め切れないといけない」と特にチャンスを作った前半にゴールを奪えなかったことを悔いた。

(取材・文 折戸岳彦)


悔やむ大迫「前半に決め切らないといけない」




◆「腐るほど失点に絡んできた」 日本代表DFが語る「CB論」――失点は成長のもと(FOOTBALL ZONE)





3月シリーズで無失点を目標に掲げる昌子、経験を基に「センターバック論」を展開

 3月シリーズでマリ戦(23日)とウクライナ戦(27日)に臨む日本代表は、これまで最終ラインを統率してきたDF吉田麻也(サウサンプトン)を負傷で欠いている。DF昌子源(鹿島アントラーズ)は「失点しないことが一番」と目標を掲げる一方、「失点してCBは成長していく」とセンターバック(CB)論も展開した。

 現在の日本代表は吉田をはじめ、酒井宏樹(マルセイユ)、遠藤航(浦和レッズ)などDF陣の怪我人が少なくない。今遠征では昌子、槙野智章(浦和)、森重真人(FC東京)、植田直通(鹿島)の4人がCBとして想定されている。森重は約1年ぶりの代表復帰となり、植田は代表キャップ数「2」と経験が浅いだけに、昌子や槙野に懸かる期待は大きい。

 最終ラインの中央に君臨した吉田や不動の右SBとして継続的にプレーしていた酒井宏の穴は小さくない。だが昌子は、ワールドカップ本番でも誰かが負傷欠場するなど似たケースは十分起こり得るとして、「あの人がいないとか言っても仕方ない」と割り切っている。

 今遠征で「失点しないのが一番」と意気込む昌子だが、その一方で“失点は成長のもと”とばかりに持論を主張。「僕もこれまで腐るほど失点に絡んできた」と自らの悔しい経験を基に、自らのCB論を披歴している。

失点の悔しさ生む「次はゼロで」の渇望

 当然、無失点に越したことはない。だがそれを踏まえつつ、CBにとって「そういうのって全て成長のもと」と昌子は言い放つ。「失点してCBは成長していく」との言葉は、“失敗は成功のもと”に通底する真理だろう。失点の悔しさがさらなる成長を促し、「次はゼロでやっていきたい」という渇望を生む。

 そうして「腐るほど失点に絡んできた」男は代表にまで上り詰め、現在は日の丸のプライドを背負う。CBとして着実に成長を遂げている昌子は「W杯まで全部勝つというのがチームの目標」と語るなど自覚を滲ませており、代表戦士としての凛然たる風格を備え始めている。

(大木 勇(Football ZONE web編集部) / Isamu Oki)


「腐るほど失点に絡んできた」 日本代表DFが語る「CB論」――失点は成長のもと



◆昌子源が説くハリルJでのデュエル論。 個で優る相手といかに戦うのか?(Number)





 ミックスゾーンでの昌子源は、とてもリラックスしていた。

 代表のジャージを着た彼を取材するのは、昨年11月のブラジル戦前以来だったが、そのときは少しピリピリしているような印象を持った。当時、鹿島アントラーズは、優勝争いの佳境を迎えていた。9月下旬には8ポイント離れていた2位との勝ち点差も4ポイントまで詰められたし、ブラジル戦で先発から外れることも感じ取っていたのかもしれない。

 結局、ブラジル戦だけでなく、ベルギー戦も出場機会がなかった。そして、J1でも優勝を逃した。その1週間後のE-1フットボールチャンピオンシップでは出場機会を得たものの韓国に1-4と惨敗して、こちらも2位で終わっている。

 E-1はJリーグ閉幕直後に代表合宿が始まり、気持ちの切り替えも難しかったに違いない。それが結果に影響したとは思わないが、昌子の心中を察すると、悔しさしか残らなかったのだろうと思った。それはほとばしる熱を持った悔しさではなく、どこか冷たさを感じる悔しさだ。

麻也の負傷を「深くは考えずに」。

 ワールドカップイヤー初戦となる試合を前に、昌子は前向きに当時を振り返った。

「チームも代表も2位でしたね。自分も世界トップレベルのブラジルやベルギーと対戦できるチャンスがあったのに、出られなかった。いろんな悔しい想いが続きましたけど、去年は去年ですし、今年は今年だから。

 代表の悔しさは代表で晴らす。代表の悔しさを鹿島でということはないし、鹿島の悔しさを代表でというのもナンセンスだと思っている。あのときの悔しさ、E-1の悔しさもそうですけど、マリ戦とウクライナ戦で晴らしたいと思います」

 今回の遠征には吉田麻也が負傷のために参加していない。その代役として出場が濃厚という状況もあるのだろう。大きなチャンスが到来したわけだが、前のめりな様子もない。

「そんなに深くは考えていません。ただ、自分の思い通りのプレーをしたい。それができれば、全く問題はないと思っている。もちろんそういうプレーはクラブと違って、代表で出すのは難しいけれど」

 自信を漂わせながらも、慎重にそう答える。その難しさは言葉では説明できないのかもしれない。練習時間が短く、戦術もクラブとは異なる。そして、代表という特別な舞台……。自身がそのピッチに立ってきたからこそ、実感する難しさなのだろう。

一番うるさいくらい声を出したい。

 それでも自分の強みはわかっている。

「しっかり自分ができることをやる。しっかり声を出して、コミュニケーションを取って、連係を高めれば、そう崩れることはないと思うから。それ以外はあまり言わない(笑)。

 百戦錬磨な味方の選手が自分より前でプレーしていても、結局うまくいかないことがあるわけだから。それをしっかりサポートするのが後ろの仕事だと思っている。もし見えないところから相手が入ってきたら『右から来たぞ、左から来たぞ』と当たり前のように声を出せるようになっているので、いつも通りそれを出したい。一番うるさいくらいがいい。とにかく静かな試合にはしたくないですね」

 11月の遠征ではブラジル戦とベルギー戦の間に、守備面での大きな修正が行われた。結果こそ2連敗に終わったものの、ベルギー戦ではポジティブな変化が見られた。それを昌子はどう見ていたのか?

「ブラジル戦では個対個の対決で負けていた、そこで個では勝てない部分をチームで補おう、という風に修正できたのがベルギー戦だったと思う。誰かが抜かれても、次の人がしっかりカバーして、という。

 そういうのは今回も大事だと思うし、今回に限らず、これからもそういう戦い方をしないといけない。単純な個の力では、結構差があったと外から見て思った。試合には出られなかったけれど、それを生で見られたことだけでも、大きな経験だった。試合を見ながら抱いたイメージというのは忘れずにやっていきたい」

ブラジル戦はデュエル前にやられていた。

 ブラジル戦では、ハリルホジッチ監督の掲げる「デュエル」に持ち込む以前の問題だったともいう。

「みなさんも同じことを感じたと思うけれど、デュエルに持ち込む前のファーストタッチで抜かれていたし、身体を当てられず、球際勝負すらさせてくれなかった。駆け引きの上手さがあったし、スペースもあったから抜かれていた。そうなったとき、どこでデュエルに持ち込むかといったら、ペナ内(ペナルティエリア内)だと思っている。

 ペナ内だと、ファーストタッチで抜かれるようなスペースがない。そこでガツンとぶつかったときに、いかに勝つか、相手のシュートモーションを崩すとか、相手からわずかでもボールを離すとか、そういうデュエルは日本人でもできると思う。

 ベルギー戦での失点シーンもクロスボールからだった。ペナ内でいかにタイトにマークできるのかはとても大事。もちろんレバンドフスキとかは、ペナ内での巧さがあるけれど、そこでハナから負けていたら『どうぞ点を取ってください』ということだから」

ペナ内に相手を入れないことが理想だが。

 槙野智章は「ディフェンスラインを高く保ち、相手選手をゴール前から遠ざけることを監督から求められている」と話している。そのためには前線からのプレスが必須となる。

「そうですね。ペナ内に相手を入れないことが理想だし、ラインをペナの外に構えるというのは理想です。でも、ブラジル戦では前からプレスへ行こうとするタイミングで、相手にファーストタッチで抜かれて、一気に攻め込まれた。相手陣地でボールを失っても、何秒後かにはうちのゴールまで来ている。

 そう思うと、全部が全部、前からプレスへ行けないだろうし。後ろでしっかりとブロックを組むことも大事。それをキーパー前で組むのか、ペナルティエリアの外で組むのか、その違いで局面は変わってくる。どうしても後ろに比重がかかる時間帯はあると思う。そういうときに、いかにデュエルで戦えるのかというのが大事なことだと思う。

 外で回されている分にはいいけど、中へ入ってきたタイミングでバッと行くのも手だと思う。“日本はなかなか入らせてくれないな”と相手に思わせるのもひとつの守備の仕方だから。でも、そこから攻撃へ繋げないと意味がない。守備だけをしていればいいというわけにはいかない、点をとって勝つスポーツですから」

勝つ喜びは大事。チームを明るくする。

 失点をしないことも重要なポイントとして挙げる昌子だが、一番は「勝つこと」だという。勝ち癖をつけて本大会へ向かうというのは、ハリルホジッチ監督が掲げるテーマでもある。

「ワールドカップイヤー最初の試合。負けて課題が出ましたというような試合をやっている場合じゃない。試合数も多くはないから、すべてに勝って、いいイメージを持って本大会へ臨みたい。

 サッカーはわからないところがある、勝っていたのに本番でダメだったり、全然ダメだったのに本番で良かったり……。だけど、勝つ喜びは大事。チームを明るくするので」

森重も復帰、CBの競争も激しさを増す。

 それに加えて昌子自身、代表内での競争という意味でも無失点で抑えるだけでは意味がないと考えている。

「センターバックは、チームを勝たせることが必要とされるポジションだから」

 負傷で離脱していた森重真人も復帰し、センターバックのポジション争いもほかのポジション同様に厳しさを増している。

 訪れたチャンスで力を発揮しなければ、次のチャンスがいつ訪れるかわからない。

 そんな競争の現場に立っているという覚悟が決まったからこそ、昌子は落ち着いた心持ちで、試合に挑めるのだろう。


昌子源が説くハリルJでのデュエル論。個で優る相手といかに戦うのか?






◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)




遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(4) 
中田浩二 後編

◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sporiva)


 3月10日のJリーグ第3節・サンフレッチェ広島戦を0-1で落とすと、3月13日のACL対シドニーFC戦も1-1と引き分けに終わった鹿島アントラーズ。試合後、SNSにはサポーターの厳しい声が上がっていた。

 シュート数では相手を上回りながらも、ゴールを奪えず、勝利を飾れない。鹿島の勝利を信じているからこそ、そのフラストレーションも大きい。共に戦っているという自負があるからこそ、チームを甘やかさない。彼らの声は熱く、そして真摯だ。そんなクラブ愛に溢れているのはスタンドを埋めるサポーターだけではない。長年スポンサーを務める企業もまた、鹿島とともに戦っている。

 2014年に現役を引退した中田浩二は、ピッチを離れた今、それを強く感じていると話す。

 大岩剛監督、柳沢敦・羽田憲司両コーチ、そして今季からは新たに佐藤洋平GKコーチが就任。ユースチームでも熊谷浩二監督が指揮を執(と)っている鹿島アントラーズ。かつての現役選手を指導者として起用することに以前から積極的だった。ブラジル人監督時代もOBの日本人コーチを置き、指導者育成に努めてきた。

 そんな鹿島が初めてクラブの職員にOB選手を起用したのが、2015年から事業部でクラブ・リレーション・オフィサー(C.R.O.)を務める中田だった。

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――現役引退後、指導者のキャリアを歩む人は少なくありません。そういうなか、ピッチという現場ではなく、クラブの職員として仕事を始めたのはなぜですか?


「サッカーに関わる仕事は、指導者だけではないだろうという思いがありました。日本のサッカーをよくしていくうえで、元選手が経営サイドに身を置くことの重要性を感じたんです」

――メディアやスポンサー、サポーターとクラブとを繋ぐC.R.O.を3年あまり務めての実感や手ごたえとはどんなものですか?

「たとえばスポンサーさんのもとへ行けば、とても喜んでもらえます。そこは元選手という僕の強みだと感じます」

――現在、トップチームをどのように見ていますか?

「客観的に見ています。練習を見る機会はあまりないですが、試合を見て、感じることがあれば、選手に声をかけます。特に若い選手。ちょっと悩んでいるのかなと思えば、クラブハウスで会ったときに自然と声をかける。そこは先輩という感覚かもしれませんね。

 でも、僕は強化部でもないし、監督でもコーチでもないから。事業部の僕はチームに干渉する立場ではない。でも、元選手、元チームメイトということで、話しやすいことがあるかもしれないし。そこは、適度な距離を保ちながら、『どうなの? なんか元気ないじゃん』と声もかけられるので。

 C.R.O.というのは、クラブと外部とのリレーションという役割でもあるけれど、クラブと選手とを繋ぐ仕事でもあるなと。

 たとえば、事業部としては、スポンサーやサポーターとトップチームとの距離を近づけたいと考えるけれど、同時に選手の負担になることは避けたい。そういうときに、『ここまでなら大丈夫』とか、『これは難しいかな』という意見を出すこともできます。

 基本は選手がサッカーに集中できる環境を維持することが重要ですが、サポーターやスポンサーなど、自分たちを支えてくれている人たちの存在を選手にも理解してもらいたいという気持ちもあります。だから選手サイドにも元選手として、意見を反映させながら、距離を縮めていくことができればと」

――今の仕事に就いたことで、そういう支えがあることを、改めて気づいた部分はありますか?

「そうですね。本当に応援してくれている。でも、選手との距離を感じている部分があるというのは、この仕事をしないとわからないことでした。同時にサッカー選手として生きていくことができるのは、いろいろな人の支えがあったからこそということも強く感じました。『いっしょになって戦っている人』の存在を選手にも伝えたい。そこは元選手だから話せることもあると思うので」




――今、新しい環境で、ご自身の力不足を感じるのはどんな点ですか?

「たくさんありますよ。確かにずっとサッカーをやってきたので、たとえば、エクセルやワード、パワーポイントなどをうまく使えるかと言われたら、そういう普通の人ができることができない。そして、プレゼンテーション力だとか、ファイナンスの知識もないし、ビッグデータから何を抽出するのかというような思考も弱い。実務能力はまだまだ足りないと思っています。

 それを認識したうえで、時間はかかるだろうけれど、学んでいくしかない。元選手というバリューに頼っているだけでは、この仕事は続けられないという覚悟はあります。実務面で仕事ができないとなれば、迷惑をかけてしまう。そこは元選手だからといって、甘えられるわけじゃない」

――鹿島アントラーズというクラブは、事業面、経営面でも「攻めの姿勢」というか、スタジアムの指定管理者になったりと、いろいろなチャンレジをしているなと感じます。

「スタジアムの有効利用をはじめ、いろいろな施策、仕掛けをしていかないと生き残っていけないクラブだという自覚があります。30km圏内をホームタウンと考えると、鹿島は半分が海だし、人口も少ない。立地としては恵まれているわけではないので、チャレンジし続けなくてはならない。

 先日、スペインのデポルティーボへ行ったのですが、町(ア・コルーニャ)の規模としては鹿島と変わらないけれど、ソシオが2万7000人もいる。鹿島はその10分の1程度ですから、まだまだやれることはあるんじゃないかと」

――フランスのマルセイユやスイスのバーゼルといった、ヨーロッパでの選手経験が、クラブ経営という面で武器にもなるんじゃないですか? サッカーが文化として根づき、スタジアムが街の中心地として機能しているさまを体験したのだから。

「特にバーゼルは、スタジアム内にショッピングセンターや老人ホームがあったりと、有効利用しています。そして、充実したVIPルームやサービス面での工夫も怠らない。日本はプロ化されて25年。100年を超える歴史のあるヨーロッパとすぐには同じようにはできないけれど、それを目指して歩んでいます。

 でも、ピッチ上のサッカーだけでなく、経営、ビジネス面でもヨーロッパのクラブはスピード感を持ち、進化し続けています。だからこそ、競技者としてサッカーを学び、経営も学んだ人間が必要だと思うんです」

――今の立場でも「チームが勝つためになにをすべきか」という思考は重要ですか?

「もちろん。クラブチームというのは、トップチームだけでは成り立たない。それを今つくづく感じています。当然クラブを引っ張るのはトップチームです。そこを充実させるためには資金も必要です。だから、事業部としてそれを準備する。強化と事業の両輪をバランスよく回すことで、いっしょに戦っている。

 スタジアムへ足を運んでくれるサポーターは、遠くからも来てくれます。バスを2、3時間乗ってきて、つまらない試合を見せるわけにはいかない。満足感を持って帰ってもらいたいし、それが愛着を生むはずです。いっしょに戦い、タイトルを獲れたときの興奮を味わってほしい。

 トップチームが勝つために『自分は何をやらなくちゃいけないか』をみんなが考えています。それがジーコのいう”ファミリー”なんだと思います」


中田浩二は考えた。「元選手が経営サイドに身を置くことは重要だ」



◆スタジアム近所の子供が守護神に。 曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み(Sportiva)




遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(5) 
曽ヶ端準 前編

◆新連載・アントラーズ「常勝の遺伝子」。 生え抜き土居聖真は見てきた(Sportiva)
◆土居聖真「ボールを持つのが 怖くなるほど、鹿島はミスに厳しかった」(Sportiva)
◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sporiva)
◆中田浩二は考えた。「元選手が 経営サイドに身を置くことは重要だ」(Sportiva)

 広いミックスゾーンの中央で、昌子源と話していたガンバ大阪の東口順昭は、鹿島アントラーズの曽ヶ端準(そがはた ひとし)の姿を見つけると、サッと駆け寄り挨拶をした。短い言葉を交わしたのち、両手で曽ヶ端と握手する姿が印象深かった。

 鹿島vsG大阪が行なわれた3月3日のカシマスタジアムでの光景だ。

「曽ヶ端さんをはじめ、(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)が長く活躍してくれているのは、本当に力になりますからね。もっともっと続けてほしい」

 試合の行方を左右するピンチを救い続けた東口は、日本代表ゴールキーパーの先輩たちの名前を口にした途端、敗戦でわずかに硬くなっていた表情が一気に破顔する。

 1998年、鹿島アントラーズに新加入した”高卒6人衆”。小笠原満男を筆頭に、世代別の代表にも名を連ねる高校サッカーの雄が揃っていた。曽ヶ端もその一員ではあったが、当時はまだ代表の守護神という立ち位置ではなかった。

 曽ヶ端のプロのキャリアは、市川友也に次ぐ2人目の鹿島ユース出身選手としてスタートした。その後、1998年のAFC U-19選手権、1999年のワールドユースを経て、2000年にA代表デビューを飾る。2002年日韓W杯メンバーに入り、2004 年にはオーバーエイジ枠でアテネ五輪にも出場した。

 鹿島での時間が曽ヶ端の進化を促したことは言うまでもない。ポジションは違えども、同期の活躍が後押しになっているのだろう。

***

――今季で、鹿島在籍21年目を迎えましたね。

「引退する選手もいるなかで、サッカーを続けていられることに幸せを感じます。僕はカシマスタジアムの近くで生まれて、育ちました。生まれた町にプロクラブがあり、そこでプレーできるなんていう幸せを味わえる人は、そう何人もいるわけじゃないでしょう? 同じ市ならまだしも、スタジアムが徒歩圏内ですからね」

――「ここにスタジアムができるのかぁ」と、子どもの頃は思っていたんですか?

「ジーコが住友金属サッカー部へ来たのが小学生の頃。スタジアムそばの小学校へ通っていました。そして、中学時代に鹿島アントラーズが生まれた。スタジアムもそうですけど、何もないところを切り拓くような感じでスタートしましたから」

――しかも、地元のクラブが国内有数のビッグクラブというのも幸せですよね。

「確かにそうですね。強くなければ、ここまで大きなクラブにはなれなかったと思いますね」

――鹿島中学から鹿島ユースへ。やはり、プロになるなら下部組織でという気持ちが強かったのでしょうか?

「プロになるという夢みたいなものはあったかもしれないけれど、ほかのポジションなら僕は違う選択をしていたと思います」

――ゴールキーパーだったから、というのは?

「当時の部活でゴールキーパーコーチがいる環境は少なかったと思うし、地元でそれを求めるとなれば、自然と鹿島しかなかった。だから一番の理由は練習環境でしたね。僕がユースへ入った年、兄貴が進学した鹿島高校が初めて高校選手権に出場したんですよ。僕の中学の同級生も出ました。

僕らが小学生だった頃はまだプロリーグがない時代で、サッカーを始める動機なんて『選手権に出て、国立競技場に立ちたい』が一番だったから、複雑な心境でしたね」

――そしてプロ入り。もう何度も曽ヶ端選手がお話しされていますが、そこで「~ら」問題が……。

「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」

――ゴールキーパーは勝敗に直結しやすいポジションです。極端な話、失点しなければ負けることはないですから。プロとしてその重責を担っていると実感したのはいつですか?

「デビュー戦(1999年5月アビスパ福岡戦)で勝利したあと、3連敗してポジションを失いました。そこから1年以上Jリーグでの出番がなかった。自分の実力のなさを痛感しましたね。ゲームのなかで何もできなかった。いつも前の選手に助けられているところがあった。だから、試合に出られないのはある意味納得できました。3冠を達成するチームを見ながら、結果、勝利へのこだわりは自然と強くなったと思います」

――2001年にレギュラーを獲得し、そこからリーグ優勝は3連覇を含む5回、ナビスコカップが4回、天皇杯3回。個人では出場500試合達成、連続フルタイム出場試合数244試合を達成するなど、Jリーグの歴史に名を残すゴールキーパーになりました。

「昔は試合に出たら、自分がいいプレーをしなくちゃいけないと思っていました。だから、チームが3点取っても1失点したら、『あぁ~やられたぁ』と落ち込んでいました。いつもとにかく無失点にしたいというふうに考えていた。

 もちろん、今もゼロにする、無失点で抑えるほうが勝利には近い形ではあるけれど、今、僕が大事にしているのは、『いかに勝ち点3を取るか』ということです。ゴールキーパーに限らず、フィールドの選手も含めてミスはあること。だから、失点しても、気持ちを持ち直せるようになりました」




――キーパーは自分のミスを取り返すのがほとんど不可能ですよね。得点をあげるという意味においては。

「可能性はゼロではないけれど、その通りですね。ゴールキーパーの後ろには守るべきゴールがある。その前に立つプレッシャーは、ゴールキーパーにしかわからないと思います」

――35歳を過ぎれば、身体に変化も生じると思います。今年で39歳になる曽ヶ端さんが、ゴールキーパーとして大事にしていることは? 

「キーパーとしては技術も身体能力も重要です。年齢を重ねれば、昔と同じというわけにもいかない。だけど、それをカバーできる経験もあります。うまくディフェンダーを動かすことでも補える。この仕事の難しさは今も日々感じています」

――メンタル面での成長も大きいのでしょうか?

「メンタルは絶対に大事ですね。いつからかわからないけど、『チームの状況に左右されたらダメだ』と考え、それができる試合が徐々に増えていきました。昔なら、(攻撃陣の)簡単なシュートが決まらない。そういうのを後ろで見ていて、イライラしてしまうこともありました。それが自分のプレーに悪影響を与えてしまうんですよね。

 今ではディフェンダーの選手に、昔の自分の姿を見るような気持ちになるときもあります。そんなときはひと声かけるようにしています」

――チームメイトとの関係性も変わりましたか?

「試合に出始めたころは、秋田(豊)さん、奥野(僚右)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、前にいるディフェンス陣にはさまざまな点で助けてもらいました。プレーもそうだし、守備範囲のカバーだったり、かけてもらう言葉だったり。

 今は(昌子)源やナオ(植田直通)をはじめ、みんな年下です。だからといって、いつも僕が何かをしてあげているわけでもなくて……。源たちに助けられることも多いし、中盤やフォワードの選手に助けられることもあります。それはチームとして当然のこと。誰かがミスをしてもカバーできれば、ミスがミスにならない。そういう気持ちが大切だと思います」

(つづく)


スタジアム近所の子供が守護神に。曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み


◆代表2戦目の三竿が劇的アシストも…「このままじゃ通用しない」(ゲキサカ)





[3.23 国際親善試合 日本1-1マリ リエージュ]

 味方を信じて放り込んだ。0-1で迎えた後半アディショナルタイム、PA内右手前の位置でセカンドボールに反応した日本代表MF三竿健斗(鹿島)の目にFW中島翔哉の姿は「見えていなかった」という。

「だれかしらがいるというイメージであそこに蹴った。そこにたまたま(中島が)いた」。右足ダイレクトで折り返したボールにゴール前の中島が左足で合わせ、劇的な同点ゴールが生まれた。

 国内組で臨んだ昨年12月16日のE-1選手権・韓国戦(1-4)に後半21分から途中出場し、A代表デビュー。国際Aマッチ出場2試合目で貴重な同点アシストを記録した。

 この日は後半15分からMF長谷部誠に代わってダブルボランチの一角で途中出場。「ボールを奪うところ、シンプルに前に付けることを言われていた」とピッチに入ったが、「自分にできることをやろうと思ったけど、球際の部分が足りなかった」と、身体能力の高いアフリカ勢相手に手を焼く場面もあった。

「ドリブルのリズムが全然違う。そこにしっかりアプローチして対応することが大事だった」。それでも「途中からは慣れて、うまくできるようになった」と、試合の中で適応したが、手応えと呼べるほどの収穫はなかった。「本大会の選手はレベルが違う。このままじゃ何も通用しない。もっとレベルを上げないといけない」。W杯を見据え、三竿は険しい表情を崩さなかった。

(取材・文 西山紘平)


代表2戦目の三竿が劇的アシストも…「このままじゃ通用しない」




◆三竿健 絶妙初アシスト!A代表2戦目で生き残り猛アピール(スポニチ)


国際親善試合 日本1―1マリ ( 2018年3月23日 ベルギー・リエージュ )





 MF三竿健が絶妙な右クロスで代表初アシストをマークした。 

 後半15分に長谷部に代わり途中出場。後半アディショナルタイムに小林の右クロスのこぼれ球を右足ダイレクトでファーサイドの中島に合わせた。一連のプレーも自身の左足の縦パスから始まっており、まさに起点&アシストの活躍を見せた。代表は国内組で臨んだ昨年末の東アジアE―1選手権の韓国戦以来2試合目だったが、生き残りへ猛アピール。それでも試合後は「このままでは何も通用しない。本大会へ向けてレベルを上げないと」と反省ばかりが口を突いた。


三竿健 絶妙初アシスト!A代表2戦目で生き残り猛アピール



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