年末年始、サッカーファンに衝撃が走った。
日本サッカー界を支えてきたベテランたちの現役引退が相次いだのだ。12月27日に“常勝軍団”鹿島アントラーズで20冠中17冠を経験したキャプテン小笠原満男が引退を発表。年の明けた1月8日にJ1歴代最多のフィールドプレーヤー連続出場記録(199試合)と連続フル出場記録(178試合)を持つ横浜F・マリノスの中澤佑二、そして2人が「ナラさん」と慕い、J1通算出場歴代最多記録(631試合)を誇る名古屋グランパスの楢﨑正剛がピッチを去ることを表明した。
JリーグMVPを受賞し、クラブの象徴だった3人
3人より先に川口能活(SC相模原)が引退を発表。J3のリーグ最終戦に出場してセレモニーも行なっている。まさか年末年始になって「引退連鎖」が起こるとは思ってもみなかった。
川口の場合は「ロシアワールドカップでの日本代表の戦い、各カテゴリーの日本代表の戦いを見て、日本サッカーに違った形で貢献したいという思いが強くなった」と夏ごろには引退の決意を固めていた。だが3人はシーズン後、またはシーズン終盤ごろから進退と向き合ったうえで結論を出したと思われる。
セイゴウ、ボンバー、ミツオ(年齢順)。
3人の共通項に、JリーグMVPがある。時系列に言えば、中澤がリーグ2連覇を達成した2004年に日本人ディフェンダーとして初の受賞。小笠原はリーグ3連覇の2009年に、その翌年にグランパスが初優勝して楢﨑がゴールキーパー初受賞となった。
無論、代表でのキャリアも豊富ながらここで取り上げたいのはあくまでクラブでの彼ら。楢﨑は名古屋に20年間、中澤は横浜に17年間、小笠原は鹿島に21年間在籍し、クラブのレジェンドとなってきたのだから。最高に輝いた1年をクローズアップするとともに、彼らのポリシーをレガシーとする願いをこめて。
中澤佑二、制空権を渡さないボンバーヘッド
中澤佑二がMVPに輝いた2004年シーズン。
岡田武史監督率いる横浜は前年、ファースト、セカンドの両ステージを制して完全優勝を果たしていた。04年のファーストも制し、浦和レッズとのチャンピオンシップでPK戦の末に2連覇を達成した。
アウェーの第2戦のことは今も記憶に焼きついている。後半途中に味方が1人退場。クリアミスでゴールに入りかけたピンチも中澤が救った。PK戦に持ち込まれたというよりも、持ち込んだ。チャンピオンシップMVPも納得だった。1シーズン通して働き、リーグ最少の30失点。制空権を渡すことはなかった。
センターバック出身の岡田はしみじみと語っていた。
「相手にフリーで持たれて中に蹴られても、ユージがいることではね返せる。高さがあるのはもちろんだが、しっかりとした読みがある。ウチにとってユージの働きは、本当に大きい」
高さと読み。ジーコジャパンでもレギュラーを張るようになり、大事な場面でさく裂するボンバーヘッドは全国区になった。
「90分間、一切手を抜かない」
以降も中澤は中澤であり続けている。
岡田の教えをずっと心に刻んできた。
「岡田さんに言われたんです。まあ大丈夫だろうって思うことをするな。パスが来なくたって守るんだよ。シュートが来なくたって守るんだよって」
90分間、一切手を抜くことがない。常にアラート状態を保って、ニラミを利かせる。中澤はイエローカードをもらう数が圧倒的に少なかった。イエローカードをもらう「無茶」はやらないが、徹底的に「無理」はする。高さよりも読みよりも、それこそが中澤の真骨頂と言えるかもしれない。
「危ないと思って全力でポジションに戻れば、ワンプレー、ツープレー(の時間)を稼げるじゃないですか。その時間を作ったら、味方が戻ってくることができる。瞬時の半歩でいいから(シュート)コースの切れるところを切っておけば、それだけでも違ってきますから」
小笠原満男、“常勝鹿島”のシンボル
小笠原がMVPに輝いた2009年シーズン。
イタリア・メッシーナから帰還した07年夏からの“鹿島第2章”。2列目からボランチにポジションを下げて持ち前の攻撃センスに加えてイタリアで磨いてきた守備の迫力を存分に発揮していくことになる。08年からはキャプテンに就任。9月の柏レイソル戦で左ひざ前十字じん帯を損傷して手術を余儀なくされたものの、全治10カ月の大ケガを乗り越えて09年シーズンの開幕に間に合わせている。
序盤から順調に勝ち点を積み上げながらも8月下旬からリーグ5連敗を喫し、3連覇に黄信号が灯ろうとしていた。チームのムードが落ちそうになっていたときに活気ある雰囲気をつくろうと声を出し、チームメイトとコミュニケーションを取っていたのが他ならぬ小笠原であった。5連敗の後に引き分けを挟み5連勝しての優勝劇。誰よりも勝負どころを押さえ、誰よりも駆け引きに長け、誰よりも体を張って鼓舞する彼の姿があった。
「みんなからチームを思う言葉が出てきて嬉しかった」
以降も小笠原は小笠原であり続けている。
2016年にチャンピオンシップを制して7年ぶりにリーグ優勝したシーズンも、終盤に4連敗を喫している。チームの雰囲気にアンテナを張りながら、どのように振る舞うか。
彼はこの年のシーズン後のインタビューでこう語っている。
「俺が言っちゃうとね……。でもみんなから(チームのためを思う言葉が)自然と出てきたから、それが凄くうれしくて。先に俺ら(年長者)が言っちゃうと、みんなああそうなんだってなっちゃうから。みんながどう感じているかを聞いて、でも、その言葉を聞いて俺は大丈夫だなと思った。
みんなで頑張った。自然と(まとまった)では片づけられない。そこで崩れないのがやっぱりこのチーム。ずるずるいかないというか、やっぱり立ち返る場所があるから。タイトルを取るんだったら、みんなでやらなきゃだめだろって。そういうのがあって人は成長して、失敗というか考えさせられてみんなも感じるものがあって。連敗したときもそうだけど、みんなでいろんな話をして。今だから言えることだけど、そこから得たものもあったかなとは思う」
最後のシーズンになった18年シーズン。左ひざ痛を抱えながらも、彼が練習を休むことはなかったという。鈴木満常務取締役強化部長はリスペクトの念をこめてこう言った。
「ミツオとソガ(曽ヶ端準)は試合に出られないときでも絶対に休まない。文句ひとつこぼさず、練習からやり切る。言葉は要らないですよ」
楢﨑正剛、目立つことを嫌った守護神
楢﨑正剛がMVPに輝いた2010年シーズン。
ドラガン・ストイコビッチ体制3年目に悲願の初優勝を達成した。それも2位鹿島を大きく引き離した独走劇。1点差で勝ち切る勝負強さが際立ち、優勝を決めた11月20日のアウェー、湘南ベルマーレ戦がまさにそれを象徴するゲームになった。
楢﨑は17本のシュートを浴びながらもゴールを割らせることはなかった。結果は1-0。このシーズンの被シュート数はワースト2位。それでもリーグ3番目に少ない37失点に抑え、楢﨑がゴール前に立ちはだかった。
派手なプレーよりも、堅実なプレーにこだわった。
大切にしていたのが基本。
「正面でボールをしっかり取る、しっかりと足を運ぶ。そういった基本の大切さを僕はこれまでのキャリアのなかでずっと言われてきましたからね。蓄積されてきたものがあると感じているし、すべては基本だと思う」
奈良育英時代にはシュートを横っ跳びでもして止めようものなら、監督からお叱りの声が飛んできたそうだ。卒業後、横浜フリューゲルスに入団し、2年目に出会ったブラジル人GKコーチのマザロッピもまた基本の大切さを口酸っぱく言う人だったという。
目立つことは好きじゃない。
チームを支え、ゴールを守り続ける。それ以上もそれ以下もない。
「フィールドプレーヤーは自分から気持ちを出して行けるけど……」
優勝を決めたあのシーズン、のちに意外な告白もあった。
「あのシーズンは最後の最後までもつれたわけじゃないし、もっと余裕はあったんですけどね。でも過去のJリーグを見ても何が起きるかわからなかったし、心のなかでは〝怖い、怖い〟って思っていた。だから早く決めなきゃいけないって思っていました」
怖い、怖い。
優勝経験がないだけに勝ち点差が詰まってくれば、何が起こるか分からない。だがそういった感情の一切を内に秘め、淡々と黙々と、己の役割をこなす。それが楢﨑だった。
600試合を達成した後に聞いた彼の言葉が印象的だった。
「フィールドの選手であれば『気持ちを出せ』と言われたら、自分から出していけるじゃないですか。でもGKというポジションはそうじゃない。受け身になるし、いろいろと(気持ちで)コントロールしなきゃならない。経験を重ねてきてようやく慣れてきた感じもあるんです」
以降も楢﨑は楢﨑であり続けている。
631試合のJ1最多出場記録。調子の大きな波を寄せ付けない「コントロールの妙」があった。
守るとは何か。能力そのものより瞬時の半歩をあきらめないディフェンスが何より大切なのだと中澤は教えてくれる。
勝利に導くとは何か。弱音を吐くことなく、疑うことなく、チームを思う姿勢を示し続けることが何より大切なのだと小笠原は教えてくれる。
支えるとは何か。状況に左右されず、いつでも最大限にやり抜こうとすることが何より大切なのだと楢﨑は教えてくれる。
彼らはMVPのシーズンだけ輝いたわけではない。
どのシーズンも中澤は中澤であり、小笠原は小笠原であり、楢﨑は楢﨑であった。
彼らのポリシーを、クラブのレガシーに――。
◆楢崎、中澤、小笠原……レジェンドたちはJリーグに何を遺したか(文春オンライン)