日刊鹿島アントラーズニュース

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2026年6月6日土曜日

◆羽田憲司氏と高校サッカー部指揮官2人にProライセンス認定!! 2025年度参加者全員が取得(ゲキサカ)






「山梨学院高監督の大場健史氏(58)、U-23日本代表とU-21日本代表コーチの羽田憲司氏(44)についてJFA Proライセンスを認定したと発表した。」


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◆羽田憲司氏と高校サッカー部指揮官2人にProライセンス認定!! 2025年度参加者全員が取得(ゲキサカ)










2025年5月30日金曜日

◆仏・モーリスレベロTに参加する“ロス世代”U-20日本代表メンバー発表! 10番は川崎F大関、海外組は高岡&道脇(ゲキサカ)






下の世代別代表に選ばれていた選手もU-20日本代表に初選出。DF佐藤海宏(鹿島)、DF森壮一朗(名古屋)、DF大川佑梧(鹿島ユース)が新たに加わった


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◆仏・モーリスレベロTに参加する“ロス世代”U-20日本代表メンバー発表! 10番は川崎F大関、海外組は高岡&道脇(ゲキサカ)










2024年12月12日木曜日

◆鹿島アントラーズ、コーチングスタッフ3名の退任を発表…羽田憲司氏は在任わずか2ヶ月 「自分のできることを精一杯取り組みました」(Qoly)






その後は中後雅喜コーチが監督に就任し、ラスト6試合で3勝3分と無敗の成績。しかし中後監督は今季限りでの退任が濃厚と報じられており(コーチ復帰とも)、今回、彼を支えたコーチングスタッフの退任が発表された。


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◆鹿島アントラーズ、コーチングスタッフ3名の退任を発表…羽田憲司氏は在任わずか2ヶ月 「自分のできることを精一杯取り組みました」(Qoly)







鹿島アントラーズは11日、トップチームの羽田憲司コーチ、鈴木隆二コーチ、佐藤洋平GKコーチの3名が、今シーズンをもって退任すると発表した。

今季J1で5位になった鹿島だが、就任1年目のランコ・ポポヴィッチ監督を10月6日に電撃解任。アウェイで4-0の快勝を収めたアルビレックス新潟戦翌日の出来事だったこともあり各所に衝撃が走った。

その後は中後雅喜コーチが監督に就任し、ラスト6試合で3勝3分と無敗の成績。しかし中後監督は今季限りでの退任が濃厚と報じられており(コーチ復帰とも)、今回、彼を支えたコーチングスタッフの退任が発表された。

退任する3名の中でも、羽田憲司コーチは今年10月に就任したばかり。ただ、羽田氏は2016年から2019年にかけても鹿島のコーチを務めており、当時チームを率いていた大岩剛監督とともにパリ五輪代表のコーチとして今夏の五輪本大会まで働いていた。

以下はその羽田コーチの退任コメント。

「コーチを引き受けたのが残り6試合という非常に難しいタイミングでしたが、クラブのため、自分のできることを精一杯取り組みました。すべて勝つつもりだったので、全勝できなかったことは申し訳なく思っています。ただ、選手、スタッフ、全員の協力のおかげで一体感を持って戦うことができ、仲間たちに心から感謝しています。自分自身、もっと成長し、力をつけ、また鹿島アントラーズで仕事が出来るよう頑張ります。最終節のカシマスタジアムの雰囲気、最高でした。ありがとうございました」

鹿島は、今季まで8年間川崎フロンターレの監督を務め、クラブOBでもある鬼木達氏の来季監督就任が有力だと伝えられている。

2024年10月23日水曜日

◆【C大阪】来季監督にパリ五輪代表率いた大岩剛氏就任決定的 コーチに羽田憲司氏4年ぶり復帰も(ニッカン)






C大阪では高橋大輔コーチ(41)の今季限りでの退団も確実となり、大岩監督を支える新コーチには、パリ五輪でもタッグを組んだC大阪OBの羽田憲司氏(42)の4年ぶりの復帰の可能性がある。10月から鹿島アントラーズのコーチに就任したが、C大阪は9月の時点でコーチでの復帰を正式要請している。


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◆【C大阪】来季監督にパリ五輪代表率いた大岩剛氏就任決定的 コーチに羽田憲司氏4年ぶり復帰も(ニッカン)





セレッソ大阪の来季監督に、今夏のパリオリンピック(五輪)代表監督を務めた大岩剛氏(52)の就任が決定的となったことが22日、分かった。

クラブは前向きな返答を受け、交渉は大詰めという。契約の細部を詰めた上で正式発表となる。

今季はリーグ初優勝の目標を掲げながらV逸が決定。現在8位ながら、小菊昭雄監督(49)の今季限りでの退団が決まり、9月中旬から後任候補に大岩氏、前オーストラリア代表監督のグラハム・アーノルド氏(61)を挙げ、水面下で交渉を進めてきた。

森島寛晃社長(52)は、来季監督の条件に「リーグタイトルは(改めて)大事になってくる。よりチームが成長できる選択をしたい」とコメント。

その中で大岩氏は、選手起用などのマネジメントを含め、攻守に柔軟な采配が特長。ベスト8に進んだパリ五輪では予選を含め、その能力の高さを示し、クラブの理想に近い人材だった。

C大阪では高橋大輔コーチ(41)の今季限りでの退団も確実となり、大岩監督を支える新コーチには、パリ五輪でもタッグを組んだC大阪OBの羽田憲司氏(42)の4年ぶりの復帰の可能性がある。10月から鹿島アントラーズのコーチに就任したが、C大阪は9月の時点でコーチでの復帰を正式要請している。

◆大岩剛(おおいわ・ごう)1972年(昭47)6月23日、静岡県生まれ。現役時代は主にセンターバックで活躍し、清水商、筑波大を経て95年名古屋入団。00年9月に移籍した磐田では黄金時代を支え、03年から鹿島に移籍しリーグ3連覇、天皇杯2度優勝。10年限りで引退し、11年から鹿島コーチに就任。17年5月に監督に内部昇格し、リーグ戦は2位、3位、3位。18年ACL優勝。19年限りで退任し、20年から日本協会入り。24年パリ五輪代表監督でベスト8。選手として国際Aマッチ3試合出場、J1通算386試合10得点、監督としてJ1通算50勝20分け20敗。180センチ、75キロ。



2024年10月8日火曜日

◆鹿島 パリ五輪代表コーチ・羽田憲司氏を招へいへ 強化責任者には中田浩二氏の就任が決定的(スポニチ)






クラブは6日にポポヴィッチ監督を解任。今季終了までクラブOBの中後雅喜コーチが暫定的に指揮を執る見通しで、現役時代にチームメートだった羽田氏が年内までサポートするとみられる。


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◆鹿島 パリ五輪代表コーチ・羽田憲司氏を招へいへ 強化責任者には中田浩二氏の就任が決定的(スポニチ)




 鹿島が今夏までパリ五輪代表コーチを務めていた羽田憲司氏(42)をコーチとして招聘(しょうへい)することが7日、濃厚となった。クラブは6日にポポヴィッチ監督を解任。今季終了までクラブOBの中後雅喜コーチが暫定的に指揮を執る見通しで、現役時代にチームメートだった羽田氏が年内までサポートするとみられる。

 17~19年には大岩元監督の下でコーチを務めており、約5年ぶりの古巣復帰。また、退任した吉岡宗重フットボールダイレクターの後任となる強化責任者には元日本代表DFの中田浩二氏(45)の就任が決定的で、近日中に今後の体制が発表される見通しだ。

2022年3月27日日曜日

◆パリ五輪世代のU-21日本代表が接戦制して連勝! 斉藤光毅が股抜き先制弾、山本理仁がスーパーボレー弾(ゲキサカ)






[3.26 ドバイ杯U-23第2戦 U-21日本 2-0 U-23カタール ドバイ]

 パリ五輪世代のU-21日本代表は26日、アルマクトゥームスタジアムで行われたドバイカップU-23の第2戦でU-23カタール代表と対戦した。MF斉藤光毅(ロンメル)とMF山本理仁(東京V)のゴールで、2-0の勝利。今大会連勝を達成した。2試合を終えた日本は、29日に順位決定戦を行う。

 大岩剛監督体制の初陣となった23日のU-23クロアチア代表戦は1-0で勝利。連勝すべく、26日の第2戦でU-23カタールに挑んだ。初戦から先発メンバーを8人変更。DF半田陸(山形)、斉藤、MF甲田英將(名古屋)が引き続きメンバーとなった。

 日本は4-2-3-1の布陣を敷き、GKは小久保玲央ブライアン(ベンフィカ)。4バックは右からキャプテンを務める半田、DF鈴木海音(栃木)、DF木村誠二(山形)、DF加藤聖(長崎)が並ぶ。ボランチ2枚はMF松木玖生(FC東京)とMF川崎颯太(京都)。2列目は右に甲田、トップ下にFW荒木遼太郎(鹿島)、左に斉藤が入る。1トップはFW細谷真大(柏)となった。

 序盤から積極的に攻め立てる日本。前半5分、甲田が右サイドからドリブルを仕掛け、相手選手に止められるが、こぼれ球を荒木が後ろに戻し、川崎が左サイドの斉藤にダイレクトでパスを出す。斉藤はPA左からカットインをして、右足シュート。ゴール右外に外れたが、早々にファーストシュートを打ってみせた。

 カタールは前線からプレスを仕掛け、日本のミスを誘発する。しかし、前半12分には加藤が左サイドから浮き球パスでチャンスを創出。斉藤が左サイドを駆け抜けてPA中央に折り返すが、荒木のトラップは収まらず、シュートまで持っていけない。

 その後はしばらくカタールがボールを保持し、決定機を連発。前半18分にはカウンターでピンチに陥るが、鈴木海が素早くカバーし、ボールを奪い取る。同27分には相手の攻め気を突いて反撃。小久保のロングフィードから甲田が右サイドでドリブル突破。カットインからの左足シュートは惜しくもゴール枠外に外れた。

 前半28分、日本は前半最大のチャンス。相手のビルドアップを松木が中盤でカット。すかさず浮き球パスで最前線に送ると、細谷が左横にパスを出す。斉藤がPA左に入り、鋭いシュート。しかしゴール左ポストを叩き、枠を捉えなかった。同39分にはカタールのFKのチャンスからDFモハメドエマド・アヤシュにヘディングシュートを打たれる。小久保が好反応ではじき、ボールはポストに当たって枠から外れた。

 前半はスコアレス。日本は徐々に押される展開となったが、しのぎきって無失点で後半に折り返した。

 だが、日本は後半開始から一気に攻勢を強める。後半4分、荒木が右サイドでボールを収めると、相手選手を引き付けて、右サイドの縦にパス。ノーマークで反応した半田がPA内に折り返し、PA中央に詰めた甲田が左足ダイレクトで合わせる。相手に阻まれたが勢いはそのまま、同8分に均衡を破る。

 日本は自陣近くの右サイドからスローインで再開。ボールは右サイド縦方向に流れていくと、細谷が反応して加速する。右サイドライン際から豪快な右足クロスを上げ、PA内へ。斉藤が収め、ボディフェイントで相手DFを揺さぶりながら右足シュート。股下を抜き、ゴール左に流し込んだ。

 1-0と先制に成功した日本は後半9分にも決定機。荒木のスルーパスから甲田が最前線を抜ける。甲田はそのままPA中央に進入。だが、2度放ったシュートはそれぞれ相手GKに阻まれた。同19分には2枚の交代カードを切る。甲田と川崎を下げ、MF松村優太(鹿島)と山本が入った。

 攻勢を強める日本は引き続きチャンスを作る。後半22分、左サイドの加藤のパスを受けた山本がPA左でノーマークに。強烈な左足シュートは相手GKに阻まれる。同26分には左サイドで斉藤との連係から加藤がPA左へ。クロスではなく、相手の虚を突く左足シュートを放ったが、わずかにゴール左外に外れた。

 日本は後半31分に3枚替え。荒木、斉藤、松木に代えて、FW鈴木唯人(清水)、FW藤尾翔太(徳島)、MF藤田譲瑠チマ(横浜FM)を投入。4-4-2の布陣で、細谷と藤尾が2トップを組み、鈴木唯は左サイドへ。藤田はそのままボランチ2枚の一角に入った。

 そして、日本は後半41分に価値ある追加点。左CKを鈴木唯が蹴り込むが、相手選手に跳ね返される。浮き球はワンバウンドしながらPAライン上に向かうと、山本がジャンピングボレー。豪快なシュートをゴールに突き刺し、チーム2点目とした。

 2-0と点差を広げた日本は後半44分、加藤に代えてDF内野貴史(デュッセルドルフ)を入れる。そのまま完封で試合を守り切って試合終了。見事連勝を達成した。




◆パリ五輪世代のU-21日本代表が接戦制して連勝! 斉藤光毅が股抜き先制弾、山本理仁がスーパーボレー弾(ゲキサカ)





2021年12月17日金曜日

◆パリ五輪代表コーチに羽田憲司氏入閣 現役時代鹿島で大岩剛監督とプレー(ニッカン)






2024年パリ五輪を目指すU-20(20歳以下)日本代表の大岩剛監督(49)が16日に誕生することが15日、分かった。

日本サッカー協会が同日に行う理事会で、現在U-18日本代表監督の同氏の就任を正式に承認する。

東京五輪で逃したメダル獲得を目指すチームには、現在C大阪でコーチを務める羽田憲司氏(40)が入閣することも分かった。

大岩氏は日本協会からパリ世代の監督を打診されたことを受け、互いをよく理解している羽田氏にいち早くコーチ就任を持ちかけた。

羽田氏は現役時代は主に鹿島でプレーし、大岩氏とも共闘した。鹿島のコーチとして16年にリーグと天皇杯で優勝を経験。17年に大岩氏が監督となってからもコーチとしてサポートし、18年にはチームをアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)優勝へと導いている。

パリ五輪世代には日本代表MF久保建英(20=マジョルカ)をはじめ、有望な選手がそろっている。鹿島でアジアのタイトルをつかんだ2人が、ふたたびタッグを組み、68年メキシコ五輪以来となるメダルに挑戦する。

またGKコーチとして、日本代表や浦和などで指導経験のある浜野征哉氏(49)に正式オファーしている。

◆羽田憲司(はねだ・けんじ)1981年(昭56)12月1日生まれ、千葉県出身。現役時代のポジションは主にDF。市船橋高の主将として、全国高校選手権で優勝。00年に鹿島入りし、01年にはU-20日本代表の主将としてワールドユース(現U-20W杯)に出場した。12年に現役引退。13年からC大阪のスクールコーチとして指導者に。15年にトップチームのコーチとなった。16~19年は鹿島、20年は松本、21年は再びC大阪でコーチを務めた。




◆パリ五輪代表コーチに羽田憲司氏入閣 現役時代鹿島で大岩剛監督とプレー(ニッカン)


2020年9月26日土曜日

◆松本山雅、布監督と羽田コーチ解任、柴田峡新監督(ニッカン)






J2松本山雅FCは25日、同日付で布啓一郎監督(59)と羽田憲司コーチ(38)を解任し、新監督にクラブの編成部部長だった柴田峡氏(54)、U-18監督だった西ケ谷隆之氏(47)がコーチに就任することを発表した。柴田新監督は25日の練習から指揮を執る。

チームは昨季、J1からJ2へと降格。12年から長く指揮をとっていた反町康治氏(56=現日本サッカー協会技術委員長)が退任し、新たに高校サッカーの名門、市船橋やJ2群馬などで結果を残してきた布氏が監督に就任していた。しかし、今季はここまで4勝7分け10敗と不振で、20位と低迷。シーズン半ばで柴田新監督へとバトンを渡すことになった。

布氏はクラブを通じ「成績を上げることができずに、サポーターをはじめ、クラブをサポートしていただいている皆様にたいへん申し訳なく思います。これからは、外から松本山雅を応援させていただきます。短い間でしたが、ありがとうございました」とコメント。コーチだった羽田氏も「短い期間でしたが、結果を残すことができず、力不足で申し訳ない気持ちです。満員のアルウィンでサポーターの皆さんと共に戦うためにこのクラブに来たので、それを経験することができなかったことが残念です」とつづった。

柴田新監督もクラブを通じてコメントを発表。「今回の監督交代は、強く責任を感じています」と謝罪し「クラブをサポートしてくれている皆様の思いに結果をお見せしないといけないのが我々のクラブです。次の試合まで大きなことを変えることはできませんが、選手たちが新たにチャレンジする気持ちやそれぞれの思いを1つにして、チームを良い方向に向かわせるように、力を合わせて頑張ってまいります。皆様の応援をよろしくお願いいたします」と意気込んだ。


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◆松本山雅、布監督と羽田コーチ解任、柴田峡新監督(ニッカン)




2019年8月9日金曜日

◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)



羽田憲司 Kenji.Haneda


DVDでマスター! サッカー 鉄壁ディフェンス 学研スポーツブックス / 岩政大...


 サッカー界で「谷間の世代」と言えば、アテネ五輪に22、23歳で出場した、1981年(及び1982年)生まれを指す。
 10代のころから「黄金世代」と比較され、あまり評価をされてこなかった世代だ。だが、そんな評判を覆すように、彼らのなかからはJ1リーグの得点王や、クラブのレジェンド的存在が生まれている。
 当事者である彼らは世間の評価をどう受け止め、どう成長していったのか。今年38歳となり、現役を続ける者が少なくなってきたいま、彼らの証言から「谷間の世代の真実」を探る。今回は代表チームでキャプテンを務め、鹿島アントラーズなどにも在籍した羽田憲司に訊いた。


 天気のよい平日の昼下がり。鹿島アントラーズのクラブハウス内にある一室で待っていると、ほどなく、練習を終えた羽田憲司がジャージ姿のままやってきた。

「インタビューされるのなんて、久しぶりだな」

 2012年シーズンを最後に、ヴィッセル神戸で現役を引退した羽田は、セレッソ大阪のアカデミーとトップチームで3年間コーチを務めた後、2016年シーズンから、自身がプロ選手としてのキャリアをスタートさせた、古巣・鹿島にトップチームのコーチとして復帰。以来、指揮官の右腕となり、クラブ通算20冠を達成した常勝軍団を支えている。


最初は“谷間”を意識してなかった。


 今回の取材テーマは、「谷間の世代」。もちろん、事前に伝えてある。

「もうかなり前のことだし、ちゃんと思い出せるかな」

 日焼けした顔にはしわも目立つようになってきたが、軽口とともに見せる人懐っこい笑顔は、約20年前から変わっていない。

 2000年1月、18歳の羽田は至福の瞬間を味わっていた。

 第78回全国高校サッカー選手権大会。千葉県代表の市立船橋は、松井大輔らを擁する鹿児島県代表の鹿児島実業を決勝で2-0と下し、3度目の優勝を成し遂げた。しかも1回戦から決勝まで、相手に1ゴールも許さない無失点優勝。そんなスキのないチームのキャプテンを務め、鉄壁を誇るディフェンスの中心にいたのが羽田だった。

 世代屈指のセンターバックは高校卒業後、鹿島入り。一方で、同世代の選手が集まるU-20日本代表にもチーム立ち上げ当初から選ばれ、そこでもキャプテンを務めた。当時のU-20代表とは、すなわち、谷間の世代と呼ばれた選手たちである。

「そう言われていたのは知っていました。ふざけて『オレたち、谷間だからさ』とか言い合っていたこともあったと思います(笑)。でも、いい選手はたくさんいたので、(実力的には)谷間ではなかったと思うし、当時はそれほど意識していませんでした」


経験値は他の世代よりもなかった。


 とはいえ、同世代の選手のなかに、所属クラブでコンスタントに出場機会を得ていたのは数人程度。加えて国際経験という点でも、U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)はおろか、そのアジア予選を経験している選手すらほとんどいなかった。

「経験値としては、他の世代よりもなかったんじゃないかな。たぶん、それはみんな感じていたと思います。だから、海外遠征にすごくたくさん行きましたよね。今の時代なら、アントラーズでも育成年代はどのカテゴリーでも海外へ行くし、珍しくはないけれど、当時はそうではなかった。

 僕らは経験がないから、厳しい環境を経験させるためにやってくれているんだな、と。当時もそう思っていましたが、自分が指導者になってみて、それをより強く感じます」


今でもずっと、自分のせいだと。


 ところが、彼らは、自分たちが谷間などではないことを証明するはずだった舞台――2001年6月、アルゼンチンで行われたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)で、グループリーグ敗退に終わる。





「自分のせいだって思いました。グループリーグを突破できなかったのは自分のせいだって。ずっと思っていたし、それは今でも思っています」

 今もなお、羽田の心のなかに深く根を張り、生き続ける悔恨である。

 ワールドユース開幕をおよそ1カ月半後に控えた2001年5月、羽田はJリーグでの試合中に腰椎横突起骨折のケガを負った。当初の診断結果は、全治1カ月から1カ月半。ワールドユース出場は、もはや絶望かと思われていた。

 しかし、2週間の安静の後、リハビリを始めた羽田を、U-20代表監督の西村昭宏は「本番では戦力になると判断した。初戦が大事なので、グループリーグから使いたい」と、登録メンバーに加えることを決断。出発直前の国内キャンプにも参加せず合流する、異例の扱いだった。

 当時のU-20代表の主戦システムは、3-4-2-1。フィリップ・トルシエが率いるA代表の影響もあり、最終ラインは「フラット3」が採用されていた。3人のDFの中央を務め、しかもキャプテンである羽田は、このチームに不可欠な存在だったのである。


初戦でまさかのオウンゴール。


 急仕上げで、どうにか間に合わせた大舞台。だが、およそ1カ月間ピッチから離れていた影響は、決して小さなものではなかった。

 グループリーグ初戦の相手は、オーストラリア。日本は初戦の緊張から硬さが見られたが、ボールポゼッションでは上回り、優勢に試合を進めていた。

 羽田を欠いて以降、不安定さを見せていた守備も、DFラインの要が復帰したことで、明らかに落ち着きを取り戻していた。当時の羽田も試合後、「前半のDFラインはパーフェクト。行けるぞ、っていう感じがみんなにあった」と、コメントしている。

 ところが59分、思わぬ落とし穴が待っていた。

 左サイドから入ってきた低く速いクロスに、ゴール前の羽田が体勢を崩しながら懸命に足を伸ばす。しかし、左足に当たり損ねたボールは自陣ゴール方向へ跳ねると、不運にも絶妙なループシュートとなってGK藤ヶ谷陽介の頭上を越えた。

「試合の入りもよくて、どこかで点が入れば(勝てる)っていう感じだったんですけど、まさかのオウンゴールで……。そこから、自分たちの経験のなさだったのか、チーム全体がバタバタしてしまいました」


「なぜここで?」って感じでした。


 そして羽田は、再び自責の念を口にする。

「あのオウンゴールがすべてだった。自分はずっとそう思っています。そのインパクトが強すぎて、自分がどういう気持ちであの大会に臨んでいたのか、そういうことを覚えていないというか、オウンゴール以外の記憶が薄れています。

 この世代の中心でやってきた自負もあったし、キャプテンもやらせてもらっていたから、チームを引っ張っていこうっていう意識でやっていました。だから、余計に責任を感じた。流れがよかったのに、『あそこでキャプテンがオウンゴールするか?』って。自分でも、『なぜここで?』って感じでした」

 大事な初戦を落とした日本は、続く第2戦でもアンゴラに1-2で敗れて2連敗。最後のチェコ戦でようやく本来の力を発揮し、3-0で快勝したものの、時すでに遅し、だった。

 1勝2敗のグループ最下位。日本がこの大会でグループリーグ敗退に終わるのは、開催国枠で出場した1979年大会を除けば、初めてのことだった。


3年後にはアテネ五輪がある。


「最後の試合では、自分たちが今までやってきたサッカーを出して、ああいう結果になったから余計に悔しかったし、複雑な気持ちでした。みんなも『なんでこれをもっと早くできなかったんだろう』って思いながらプレーしていたと思います。あれを最初からやれていれば、間違いなく決勝トーナメントにも行けただろうし……」

 羽田は18年前の記憶をたどりながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「そこらへんが、結局は経験のない谷間の世代だったのかなって。初戦はやっぱり、みんな緊張していましたよね。そこに経験のなさが出たというか、プレッシャーのかかる経験をしたことがないっていうのが出たんじゃないかと思います」

 2年前の前回大会で準優勝という偉業を成し遂げた、小野伸二ら、いわゆる「黄金世代」との比較も手伝い、この結果が谷間の世代なるネガティブなイメージをさらに強く印象づけたのは間違いない。

「やっちまったと思いました」


 それが羽田の本心だった。

 敗戦の責任をひとりで背負い込んだ羽田は、しかし、キャプテンとして「このままでは終われない」とも考えていた。そこで羽田は、日本へ発つ前に選手だけをホテルのミーティングルームに集め、ひとりひとりが思っていることを言い合う時間を作った。

 3年後にはアテネ五輪がある。その先にはA代表もある。このメンバーが全員オリンピックへ行けるわけじゃないけど、それぞれがクラブで活躍して、できるだけ多くオリンピックに出て、この借りを返そう。そんなことをそれぞれが口にした。


帰国してから足首痛に襲われた。


 当然、羽田自身もそのつもりだった。

「アントラーズでレギュラーを取って、A代表に選ばれるんだ。自分ではそう思って、ギラギラしていたというか、若かったし、変な自信もありました」

 だが、羽田の夢がかなえられることはなかった。というより、羽田はその後、満足にプレーすることさえできなくなる。

 アルゼンチンから帰国して、およそ2カ月後の2001年8月。羽田はJリーグの試合を終えた翌週の練習中、ふいに足首に違和感を覚えた。

「その後も練習を続けていたんですけど、とうとう我慢できなくなって……」


3年11カ月ぶりの公式戦出場。





 足首は「腫れが引かなくて、歩くのも痛かった」が、痛みの原因は不明。検査と手術を繰り返しても一向によくなる気配がなかった。ジーコのつてをたどってブラジルへ渡り、ようやく現地のドクターによって原因が特定されたときには、最初の違和感から1年以上が経過していた。

 一緒にワールドユースを戦った仲間が、アジア予選の死闘を経て、アテネ五輪を戦っていたころは、ほぼ丸2年を要したリハビリの真っただ中だった。

「長く休んでいる間にみんなが成長していくのを見ていたら、同年代なのに、すごく遠くへ行ってしまった感じがしました」

 対照的に自分自身は、ボールを蹴るどころか、走ることもできず、「精神的に大変だった。意識的にサッカーから離れていたというか、先の見えない日々に病んでいました」。

 ようやく、練習に復帰できたのは2004年のシーズン後半戦。翌2005年7月のJリーグ復帰戦は、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を除けば、実に3年11カ月ぶりの公式戦出場だった。


31歳での引退に未練はなくとも。


 だが、ケガとの戦いは、これで終わったわけではなかった。痛みから完全に解放されることはなく、加えて、およそ4年のブランクは想像していた以上に大きかった。

「復帰してから、自分のプレースタイルが変わったというか、変わらざるをえない状況になったときに、『もう上は目指せない。A代表は無理だな』と思いました。そこからは、同世代の選手たちのこともライバルではなく、頑張れっていう気持ちで見ていました。もちろん、Jリーグで対戦したときには勝ちたいけど、誰かがA代表に選ばれても、うらやましいとか、そういう感情はなかったです」

 結局、羽田は思うようなプレーができないまま、セレッソ大阪、神戸へと移籍した後、31歳でスパイクを脱いだ。将来を嘱望され、世代の先頭を走っていた頃を思えば、あまりに短い現役生活だった。

「僕の場合、引退を決断するのは簡単でした。復帰した後も、ずっと足の痛みを我慢しながら、毎日薬を飲んでいる状態でしたから。だから、未練はなかったです。逆に、この足でよくここまでやったなって思います」

 ただ、と言って、羽田が続ける。

「不本意でしたけどね、自分のプロサッカー人生は」




◆谷間の世代・初代主将、羽田憲司。 今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。(Number)





2018年12月24日月曜日

◆植田直通は「いつも難しいほうを選ぶ」 だから鹿島入りを迷わなかった(Sportiva)


遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(41)
植田直通 後編


植田直通 Naomichi.Ueda


「何度も何度も第4審判が、もうアップをやめろと言ってきた。確かにもう3人の交代枠は使っていたけれど、延長になれば、4人目の交代が認められる。その4人目の準備を続けなくちゃいけない。そういう気持ちで選手たちにアップを命じていました。でも、第4審判には僕らの気持ちが伝わらなかった。だから、数名だけ残して、あとはベンチに引き上げるよう選手たちに伝えました。非常に悔しかったですね」

 そう語る羽田憲司コーチからは勝負を諦めない想いが伝わってくる。

 2018年12月19日。クラブW杯準決勝の対レアルマドリー戦で、鹿島アントラーズは1-3で敗れた。前半終了間際に失点し、後半開始から10分間で2失点を喫した。土居聖真のゴールで1点を返したものの、それ以上挽回する時間も力も鹿島には残ってはいなかった。

 1-3というスコア以上にピッチに立った選手たちが味わった屈辱は大きい。

 試合開始直後に2度の得点機はあったが、決め切れなかった。その後レアルはギアをあげることもなく、ゆっくりとパスを回し続けるだけだった。ボールを獲りに行けばかわされるかもしれない。かといって、距離を保てば、好きにやられ続けるだけだ。ゆったりとゲームを進めようとする相手をねじ伏せるべきだったのかもしれない。仕掛けてはこない相手にどうするべきかという迷いがチーム内に漂っていた。相手に合わせるつもりはなくとも、合わせざるを得ない、そんな時間が続いた。そして後半、ミスからの2失点目が大きく響き、続けざまに追加点を許すことになった。

「勝ちに行く」

 その想いを結果に繋げられなかった。対応力も組織力もそして選手個人の力、プレースピードや技術精度、戦略、あらゆることが足りなかった。

「チームとしてももう少しいろんなバリエーションというか、懐というか、幅というか、どういう言葉が適切なのか今はわからないけれど。いろんなものに対応できる大きさ、チーム力の大きさ、幅の大きさ。レベルが上がれば(それらが)もっともっと必要になってくる。これは選手だけじゃなくて、スタッフも含めてね。だからこそ無駄にしたくない。この悔しさだとかは、僕にとってはエネルギーになる。今後の監督人生もそうだし、このチームを率いている上では絶対に忘れてはいけない試合のひとつになった」

 12月20日の練習後、大岩剛監督はレアル戦をそう振り返った。見せつけられた力の差は選手個人だけでなく、監督やコーチ、そしてフロントなど、鹿島アントラーズに関わる様々な人間たちにとっても同様なのかもしれない。

「どんな試合でも100点満点なんてない。悔しさはサッカー選手にとって必要なことだけど、僕は勝って成長したい」

 レアル戦後、泣き崩れるようにして感情を発露させた安部裕葵はそう言って前を向いた。

 負けることを許さず、たとえ相手が欧州王者であってもその姿勢は変わらない。鹿島アントラーズもまた、勝つことで、成長し続けたクラブだ。しかし、勝利の美酒だけで成長してきたわけじゃない。

 白い巨人と言われる名門中の名門チームと対戦した。選手個々の力の差、歴史の差、クラブの格の違い。それは試合前から自覚していたはずだ。日本のクラブが負けるのは、世界的に見れば当然の結果だろう。それでも、これほどまでに悔しいと感じられることが選手やチームの可能性を示しているのかもしれない。

 中2日で今季60試合目となる南米王者リバープレートとの3位決定戦が待っている。多分この試合でもまた、悔しさを味わうに違いない。勝利したとしても多くのことを気づかされる一戦になるだろう。その気づきがまた鹿島を強くすると願う。




 ベルギーリーグ1部のセルクル・ブルージュでプレーする植田直通。U-17W杯に出場するなど各年代の日本代表として活躍を続けてきた植田にとって、2018年夏、念願の海外移籍が実現した。リーグ戦第3節にはスタメンデビューも飾り、現在では先発に定着したと言ってもいいだろう。

 中学生時代にはテコンドーで日本一に輝いたという異色のCBは、高校時代から”超高校級”と注目を集めた。熊本県大津高校卒業時には、数多くのJクラブから獲得のオファーがあった。そして、植田は「一番、試合に出るのが難しそうだったから」という理由で、鹿島アントラーズ入りを決めた。

――鹿島アントラーズからのオファーをどう受け止めましたか?

「実は、高校時代は、自分がプレーすることに夢中で、(他チームの)サッカーを見ていなかったので、鹿島がたくさんタイトルを獲っている強豪だっていうこともあまり知らなかったんです。でも、先生やチームメイトがいろいろ教えてくれたんですよ」

――いくつものクラブからオファーがあるなかで、鹿島に決めた理由は?

「5チームくらい、練習に参加させてもらったんですが、そのなかで、鹿島が一番試合に出るのが難しいだろうなと感じたんです。CBの選手を見ても、(岩政)大樹さん、青木(剛)さん、ヤマ(山村和也)さん、(昌子)源くんがいて、それに(中田)浩二さんもいましたからね」





――自身は6番手くらいですか?

「ほかのチームの中には、試合に出られそうだなというチームもありましたけど。今までの僕の人生はいつも、難しいほうを選ぶという選択をしてきたので、迷わず鹿島に決めました」

――加入早々のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でデビューしたものの、そのシーズンはカップ戦3試合に出場しただけで、リーグ戦には1試合も出場していないですよね。

「そうなんです。ゼロです(笑)」

――そこは覚悟していたとは思うんですが、それでも……悔しさもあったんじゃないんですか?

「悔しさは多少ありましたけど、腐ったりすることはなかったです。紅白戦には出させてもらっていたし、そこで学ぶことがたくさんあったので。当時は紅白戦にも出られない選手がいたし、1年目なんてそれが当たり前というような環境でしたから」

――Jリーグでそういう下積み時代を過ごしたことは、海外でプレーするうえで重要な忍耐力を培ってくれたのではないでしょうか?

「それは間違いなくそうですね。僕もそう思います」

――ポジションを獲っていくという意味では今も鹿島時代と同じような立場を経ていると思うのですが。

「僕は1年目だけじゃなくて、ベンチのシーズンがたびたびあったので、そういうときの経験が活きていると思います。当時の気持ちは今も覚えています。普段の練習から、相当必死でした。そして今、気づくことは、そういうときこそ、あまり自分の考えを変えないほうがいいのかなって。自分がやっていること、やってきたことを継続してやり続ければ、必ず結果に結びついている。だから、試合に出られないから、なにかを大きく変えるとかじゃなく、今までやってきたことをずっと続ける。そのうえで必要なことはプラスしていくという方法でいいんだと考えています。必ず結果が出るという想いを信じて、結果を出してきた。もちろん、そういうときのつらい経験もいい経験だったなって思います」





――試合に出たり、出なかったりというのは、メンタルを保つのも難しいでしょうね。

「鹿島時代には前日練習ではスタメン組だったのに、試合当日ベンチ外というのもありました。監督から何かを説明されることもなかった。当時はまだ、僕が幼かったのもありますけど、かなりイラついたこともありました。時にはそれが態度に出てしまったこともあった。そういう経験があって、自分のメンタルも強化されました」

――2015年のナビスコカップ優勝のときは、決勝でまさかのベンチ外でしたね。

「ガンバ大阪相手に3-0で勝ちましたけど、僕はスタンドで観戦していました。遠征メンバーにも選ばれて、突然のベンチ外でしたから、優勝しても嬉しくなかったです。逆にセレモニーのときにはちょっと気持ちが荒れました。ピッチに出てみんなで喜ばなくちゃいけないのに、喜べなくて。そしたら当時コーチだったヤナ(柳沢敦)さんに『今は我慢して、こういう場所に相応しくふるまえ。次タイトルを獲るときは、必ずピッチに立っていろ』と言われたんですが、その言葉が僕のなかに刺さったというか、すごい思い出として残っています。最初は厳しい口調で、『お前が悔しいのはわかるけど』みたいな感じでしたね。そんなヤナさんの言葉を、選手としてだけでなく、ひとりの人間として大切なことだと受け止めました。だから、それ以降、自分がベンチだとしても、チームが勝てば自分が出たかのように喜ぶようになりました。そういうのは、『こいつはチームのために戦っている。チームとともに戦っている』とチームメイトにも伝わるし、監督にも伝わると思うんです。それが信頼に繋がる。だから、ヤナさんに言ってもらえて本当によかったですね」

――先輩たちに声をかけてもらったことは?

「それはまったくなかったですね。鹿島はそんなに先輩が声をかけるタイプのチームじゃないから。それは自分で乗り越えろ、みたいな感じがあるので。でも僕は、それは最大のやさしさだと思っています。そっと見守るじゃないけれど、そういう感じで接してくれるというのは。何かを質問すれば、答えてくれる。でもそのときも、すべてを教えるわけじゃない。やっぱり、自分で気づくというのが一番大事なことだから。そういうことを教えてくれたり、気づかせてくれたりしたのが鹿島の先輩たちです。本当にすごい人たちがたくさんいて、いろいろ学ぶことも多かった。気づかせてくれる人の存在が僕にとっては重要だったと思います」

――鹿島はなぜこんなに多くのタイトルを獲れるのでしょうか?

「僕も何個かタイトルを獲りましたけど、そこはよくわからないところですね。やっている僕ら自身は、ただ必死に戦っているだけだから。とにかく無失点で試合を終えたいと。1-0の勝利というのは、燃えますね。そこにこだわりを持っているDFは鹿島には多いと思うし。ゼロというところにはかなり執着しているというか。後ろが必ずゼロで終われば、あとは前の選手が得点をすれば勝てる。無失点であれば、負けないから」

――鹿島のCBが持つ、独特な雰囲気の源ってなんでしょう?

「鹿島の歴代のCBの選手というのは、誰が見ても本当にすごい方たちばかり。そういう方たちと比べられる機会がたくさんあります。そういうのもあって、今までの選手を越えたいという気持ちはずっと持っていました。もちろん、鹿島アントラーズのCBということに誇りを持っていたし、鹿島のエンブレムを背負うというのは日本を背負うことでもあるというのは、鹿島に入ったときからずっと言われてきましたから。そういう想いで僕はずっとやってきました」

――鹿島のCBのほとんどが日本代表ですからね。鹿島で培ったもののなかで、今後も大事にしていきたいものとは?

「試合に出られないときの悔しさというのが、今の僕を作っていると思うし、そういうときの悔しさを忘れないということが、今の僕の教訓です。これから先、試合に出られないとか、そういう立場、壁にぶち当たったとしても、鹿島での経験があるから、これからもやっていけると思うので、それはすごく大事にしていきたいです」

――試合に出られないところから始まるというのは、レベルアップの必須条件?

「そうですね。欧州にはいろんな選手がいますからね、そして、いろんな監督もいる」

――いい出会いが最高な状況を生み出すこともあれば、逆もある。巡り合わせでうまく行くこともあれば、巡り合わせが悪くて、最悪な状況になることもある。欧州では「絶対」がないし、とにかく猛スピードでいろんなことが起き、変わります。

「でも、それが面白いと思います。いろんなことが起きるけれど、それを面白がれないと、こっちではダメだと思っています。とにかく、僕は今までどおり、這い上がっていくだけです」


◆植田直通は「いつも難しいほうを選ぶ」 だから鹿島入りを迷わなかった(Sportiva)


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2017年8月26日土曜日

◆【C大阪 vs 鹿島】 ウォーミングアップコラム:セレッソが強くなったというところを、ハネさんに見せたい/キム ジンヒョン(J's GOAL)





C大阪にとっては、さらなる高みに登るための大一番がやってくる。J1第24節、ホームで迎えるのは、現在、首位を走る鹿島との上位直接対決。2位につけるC大阪としては、勝てば勝点1差に詰め寄って優勝戦線に再び食い込むことができるが、敗れれば勝点4差に広がり、常勝軍団・鹿島の背中が遠くなってしまう。いわゆる『勝点6』の価値のある大事な試合に、桜色の戦士たちが身を置く。

C大阪のなかで、選手として、また、スタッフとして、大きな役割を担ってきた男が、いま、鹿島の躍進を支えている。その人は、羽田憲司コーチ。2007年に鹿島からC大阪に活躍の場を移すと、当時J2だったチームを牽引し、09年からはキャプテンに就任。抜群のリーダーシップでイレブンをまとめ、J1復帰、ACL出場権獲得などに貢献してきた。また、現役引退後、13年にC大阪へ戻ると、スクールコーチ、U-18チームのコーチ、そして、15年にトップチームコーチと歴任。16年、古巣でもある鹿島から声がかかり、浪速の地を離れることになったが、C大阪における羽田氏の存在は、今なお絶大なものがある。

その羽田氏へ、感謝の想いを述べるひとりが、GKキム ジンヒョン(写真)。桜の不動の守護神がC大阪にやってきた09年から、チームに馴染み、活躍を続けることができているのは、常に周りに気を配る羽田氏のサポートがあったからこそだという。「ハネさん(羽田氏)にはすごく僕はお世話になっていましたし、1年目から、まだ試合の中でも外でも(日本語を)しゃべれないときも、すごく僕をサポートしてくれて、引っ張ってくれていた。そういうところにすごく感謝しています」。いまや、キム ジンヒョンが、柿谷曜一朗らとともに、桜の牽引役のひとりとなったが、その成長を見せるためにも、この試合で、勝利という結果で、『恩返し』をしたいものだ。「ハネさんにも教わったことは多いし、ハネさんのおかげで成長したというところを見せたい。そして、セレッソが成長したところを、ハネさんにもしっかり見せたい」。だからこそ、追い求めるのは、羽田氏とともにピッチに立って勝利をつかんだ10年シーズン以来となる、鹿島戦ホームゲーム勝利だ。

文:前田敏勝(C大阪担当)


明治安田生命J1リーグ 第24節
8月26日(土)19:00KO ヤンマー
セレッソ大阪 vs 鹿島アントラーズ


【C大阪 vs 鹿島】 ウォーミングアップコラム:セレッソが強くなったというところを、ハネさんに見せたい/キム ジンヒョン

2017年8月11日金曜日

◆【後編】鹿島を支えるふたりのOBコーチ、柳沢敦と羽田憲司のいま。彼らの追求する指導者像とは?(サッカーダイジェスト)


◆鹿島を支えるふたりのOBコーチ、柳沢敦と羽田憲司のいま。彼らの追求する指導者像とは?【前編】(サッカーダイジェスト)

「大事なのは負けた時の負け方や選手の姿勢」(柳沢)


 6月頭に新体制へと移行して以来、9戦連続不敗(8勝1分け)と快進撃を続けている鹿島アントラーズ。チームの指揮を執る大岩剛監督を支えているのが、柳沢敦と羽田憲司の両コーチだ。まだ若い彼らの指導者歴は短いが、それぞれの任務に対して、誠意を持ってあたっている。監督だけでなく、クラブや選手たちから彼らが信頼を得られるのは、現役時代に鹿島の一員として過ごし、クラブの哲学が身体に染みついているからだろう。

「当たり前のことを当たり前にやる。練習から厳しさがある。それが鹿島らしさだと思う」と羽田は言う。そして、柳沢は次のように語る。
「プロ中のプロであるジーコが築いたものがクラブの原点。それをずっと大切にしてきた。どんなに苦しい状況になってもその原点に立ち返って、正しい目で正しい判断を下してきた。しかも我慢強く。そこが根っこにあり、そのなかで選手たちが成長してきたし、(クラブとして)僕ら指導者にも多くは語らないけれど、大切なことを伝えてくれる。連勝が続いている現在も大岩監督は『いつか負ける時は来る』というのを理解している。大事なのは、負けた時の負け方や選手の姿勢。そこがブレなければ、すぐに修正できると思っているし、それが鹿島なんだと」

 2015~17シーズンに二度の監督交代を行なったという事実は、それだけチームが危機に陥ったということだ。素早くそれに対処したフロントの手腕がクラブの総合力を示しているのだろう。しかし、二人のコーチの立場も監督交代に合わせて変わった。
「正直、僕のなかでは、ペースが早いなというか、自分がその立場に追いついていないという事実も感じている。けれど、与えられたところで、しっかりと力を尽くさなくちゃいけないという思いでいます」

 そう語る柳沢は、現役時代の彼と変わらない。謙虚に自身の力不足を常に口にし、向上しようと努めてきた姿と重なる。

 鈴木隆行、平瀬智行、興梠慎三、大迫勇也……鹿島の歴代FWには大きな特徴がある。前線での豊富な動き直し、クサビのパスをしっかりと受ける強さと巧さ。柳沢につながるそのスタイルは、移籍加入した金崎夢生や若い鈴木優磨へと引き継がれている。

 その理由を鈴木満は「謙虚さ」だと語っていたが、柳沢自身にも訊いてみた。
「自分が鹿島に加入した時から、良い見本がチームにいるというのが一番大きい。どんな言葉よりもそばにそういう選手がいることが刺激的だし、学べるから。そして、僕がいつも言われてきた『点を獲るだけがFWじゃない』ということを理解し、認めてくれたのが鹿島だった。他のクラブだったら、ここまで長くサッカーはできなかったと思う。そういう評価というか、FWの在り方というのは、変わらず、このクラブにあると思います」

「『なんでだよ』という思いを抱いた選手とどうコミュニケーションを取ればいいのか。それが僕らの仕事」(羽田)


 技術について語るよりも、その姿勢や精神について、選手へ話すことが多いという柳沢のスタンスは、『「献身」「尊重」「誠実」=ESPIRITO(ポルトガル語で「精神」の意味)』というジーコが残した伝える作業につながっているに違いない

「自分にはまだ若い選手がどんな風に成長させていくのかという意味での経験がない」と話す指導者5シーズン目の羽田。今季は植田直通の負傷もあり、本来のボランチだけでなく、CBで起用される三竿健斗や2年目の町田浩樹に先発機会が巡ってきた。

「健斗は昨季までメンバー外になることも多かったけど、その頃から地道にトレーニングに取り組んできた。練習をやり続けてきたからこそ、チャンスが巡ってきた時に力を発揮できている。神戸戦で先発した町田とは、相手ストライカーへの対応を練習したけれど、抑えることができなかった。だからこそ、練習の重要性を痛感したと思うし、それは僕自身も同じ」(羽田)

 現役選手であれば、練習で全力を尽くすだけで良かった。しかし、コーチになると、選手たちが力を尽くせる環境を作るところから考えなければならない。
「練習のテンポもそうですし、雰囲気もとても大事だと思っています。やはり練習でしか鍛えられないモノもあるから。練習で培った力を試合で試し、練習でさらに磨いていくという作業が重要。ちょっと試合に出て、活躍しても、レギュラーの座を手に入れられるものじゃない。やはりレギュラー選手には経験があるし、若手と経験者とでは見えない差はあるから。それは自分が鹿島に入った時にも痛感したこと。
 確かに若手が『なんで今度は外されたのか』と、疑問や不満に思う気持ちも理解できるけれど、つべこべ言わずにただやり続けなくちゃいけない。言って分かるものでもないだろうし、実際は言葉で理解するのではなく、選手自身が自然に気づくことが大事だと思います。『なんでだよ』という思いを抱いた選手とどうコミュニケーションを取ればいいのか、それは選手それぞれで対応も違うので、難しいところではあるけれど、それが僕らの仕事だと思っています」

現役時代から変わらない「なにより大切なのは今日の練習」という柳沢の姿勢。


 選手のメンタルについての重要性を語ってくれた羽田は、カシマスタジアムでプレーする選手を見ながら、「僕自身はあまり鹿島でプレーできなかったから、『こんななかでプレーする、選手はすごいな』って思うこともある」と笑い、続けた。

「鹿島のコーチはみな現役時代、クラブに貢献した人ばかり。正直、選手としては貢献できなかった僕が今、トップチームでコーチをやらせてもらっている。そう考えると、今、コーチとしてしっかりと貢献しなくちゃいけないという責任の重さを感じています」

 いつかはJリーグで監督をやりたいという目標を持つ羽田だが、柳沢は将来について訊くと「監督とか、まだまだそんな先のことは考えられない」と答える。

 柳沢は彼らしく、目の前にある現実の課題と向き合っていた。寡黙な男は、言葉の力が求められる指導者という仕事の難しさを実感しながら、奮闘している。そして、現役時代同様に、「なにより大切なのは今日の練習」という姿勢も変わらない。

「指導者としては選手を育てるとか、チームのマネジメントとか、先のことも考えなくちゃいけないけれど、今日、いい練習ができるのかというのは重要じゃないですか? 選手時代は余計なことは考えず、一生懸命与えられた練習で力を尽くせば良かった。でも指導者は、一生懸命やったことで身につく練習をさせなくちゃいけない。選手個々もそうだし、グループとして必要なものを提示していくうえでは、細かいことに目を向けて、繊細な心配りができないといけないし。そういう意味でも誠実さが大事だと思います」

 実戦的にリーダシップを発揮し、行動する羽田と実直ながらもカリスマ性を漂わせる柳沢。同じスピリッツのもとで鍛えられている個性の違うふたりの若いコーチ。彼らの成長が鹿島の未来へとつながっていく。

取材・文:寺野典子(フリーライター)



◆鹿島を支えるふたりのOBコーチ、柳沢敦と羽田憲司のいま。彼らの追求する指導者像とは?【前編】(サッカーダイジェスト)


「最初は何をしようと考えながらウロチョロしている感じでした」(柳沢)



 鹿島アントラーズのコーチ陣には、必ず日本人が就任している。

「ブラジル人監督と契約する時には、必ず、日本人をコーチとするよう要請します。というか、その条件が飲めない監督とは契約はしない」

 長年、強化を担ってきた鈴木満はそう語り、「そうやって日本人指導者を育て、準備してきた」と話す。

 2015年シーズン途中に、トニーニョ・セレーゾ監督が解任され、コーチだった石井正忠が監督に就任。リーグ王者、CWC準優勝、天皇杯優勝と結果を残した。しかし今季、ACLでベスト16での敗退が決まると、石井に代わり大岩剛コーチが監督に昇格。リーグ戦8試合で7勝1分けと成績が一気に回復している。そんなトップチームのコーチをふたりのOBが務めている。日本を代表するストライカーとして君臨した柳沢敦と、将来を嘱望されながら負傷に悩まされたセンターバックの羽田憲司だ。

「鹿島へ戻ってきて、コーチの仕事を始めて、今年で3シーズン目。監督交代が二度あり、優勝も経験できた。本当に激動の2年半でした。指導者というものがまだまだ分かっていないなかで、チームの良い時と悪い時に接して、自分がどういうことをしなくちゃいけないかを考えた。力不足、未熟さを痛感する出来事がたくさんあります」

 そう語る柳沢は、1996年に鹿島でプロデビューし、その後イタリアへ移籍、2006年に鹿島に復帰するが、2008年には京都へ移籍し、2014年に仙台で現役を引退。翌2015年に鹿島のトップチームのコーチに就任したが、当時は石井、大岩に続く3人目のコーチだった。

「現役引退して、すぐにトップチームのコーチに就任。いきなり上手くできるなんて思っていなかったから、気負いもなかった。石井さんや(大岩)剛さんのもとで、いろいろと勉強し、学ぼうと。もちろん、見て盗むという感じですけど、見ているだけじゃ仕事はない。やっぱり自分で探さなくちゃいけないから、最初は、何をしようと考えながらウロチョロしているような感じでした」

「いつか鹿島で仕事がしたいという思いがあった」(羽田)


 柳沢から遅れること1年、2016年に古巣へ復帰を果たしたのが羽田だった。2000年に市立船橋高から加入、天性の守備センスとリーダーシップが高く評価され、2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではキャプテンを務めている。しかし、2001年夏以降、原因不明の足の痛みと戦い、幾度の手術とリハビリを4年以上も行なうこととなる。
 2007年にはセレッソ大阪へ移籍。2009年にJ1昇格を果たし、2010年にはリーグ3位でACL出場権を獲得。香川真司をはじめ多くの選手に慕われるキャプテンだった。そして、2012年に神戸で現役を引退すると、翌2013年からセレッソ大阪で指導者としてのキャリアをスタートさせる。
「セレッソでは、スクールから始まり、ユース、トップのコーチと短期間ではあったけれど、いろいろな現場で仕事をさせてもらった。様々な勉強をできているという実感があるなかで、鹿島からのオファーを頂いた。どうするべきか、本当に悩みました。鹿島のトップチームのコーチが自分に務まるのかという風にも思ったし、なによりセレッソを離れて良いのかという葛藤もありました。それでも、鹿島からのオファーはこのチャンスを逃せば、二度とないだろうし、いつか鹿島で仕事がしたいという思いもあったので。送り出してくれたセレッソの方々には今でも強く感謝しています」
 現役時代に苦労した羽田は、選手の気持ちをより深く理解できる指導者になるだろうという声もあるが、羽田はそれを否定する。
「もちろん僕自身、長く負傷に悩まされたから、同じような立場の選手の気持ちを分かる部分もあるのかもしれないけれど、性格も育った環境も違うんだから、同じ気持ちを持てるわけがない。現役時代の経験がコーチをするうえで、良い影響につながればそれは素晴らしいことだけど、そんなシンプルなものでもないと思うんです」
 そして、柳沢も似たような話をした。
「元選手だから、選手の気持ちを理解できるというわけじゃないんです。やっぱり、人それぞれに考え方があるから。僕がこうすべきだと感じても、それを押し付けてもうまくいかない。プロになるくらいなんだから、選手それぞれが強い個性や考え方を持っている。そこを尊重しながら、僕の考え方を伝えていく。どんなふうに伝えれば、選手たちにきちんと届くのか、その難しさをいつも感じているけれど、そこが最も大切なことだから」

「ピッチ外ではミツさん、ソガさん。ピッチ内ではミツ、ソガと呼んでいます」(羽田)

 柳沢40歳、羽田35歳と選手たちとの年齢は近い。しかし、コーチと選手の間には、太くて明確な線が引かれているとふたりは言った。
「チームには小笠原選手や曽ケ端選手という、現役時代、先輩だった選手もいますが、まったくそこは気になりません。ピッチ外ではミツさん、ソガさんと呼びますが、ピッチ内では“ミツ”、“ソガ”と呼んでいます。年齢的に二人が上ですが、選手とコーチという立場、仕事が別ですから。そこは明確にしています」(羽田)
「僕がコーチに就任した時、最初にトニーニョ(・セレーゾ監督)から言われたのが、選手との間にしっかりと一線を置かなくちゃいけないということでした。確かに、僕らコーチは監督と比べたら、選手と近い存在です。だから、声もかけやすいし、話しやすいのかもしれない。だけど、選手同士ではないという気持ちはいつも忘れずに持っています」(柳沢)
「選手と密にコミュニケーションを取ることを意識しているけれど、厳しさも持って、接していかなくちゃいけないと思っています。練習前の遊びのボール回しを選手の中に入ってやることもあるけれど、そういう時でもメリハリというのを考えています。あまり楽しみすぎて練習への切り替えが上手くできず、練習の入りが悪くなったら元も子もないので」(羽田)
 大岩新体制になり、練習のアップメニューを羽田が担当する機会が増えた。そして、ポジション別練習でも柳沢が攻撃陣を、羽田が守備陣を担当することも多いという。
「新しいメニューを監督に提案すると、『いいんじゃないか? やってみよう』と受け入れてくれます。そうやって、新しいものを取り入れようとする監督のもとで、やはり練習メニューのバリエーションをもっともっと増やしていかないくちゃいけない」と羽田が話す。
 現役時代のキャリア、経験は、指導者にとってのひとつの個性になるだろう。しかし、柳沢や羽田の言葉から感じるのは、選手時代の自身に囚われることなく、ひとりの若い指導者として、選手と向きあおうとする誠実さや実直さだ。

「何気ない細かいプレーや態度を見逃すことなく」(柳沢)

「とにかく、しっかりと選手たちを見ていきたい。何気ない細かいプレーや態度を見逃すことなく、できるだけ詳細に見たいと努力しています。今、監督から『FWのことは任せる』と言ってもらい、プレーだけでなく、メンタル面でも気を配っています。だから、自分が発した言葉を意識しながら、選手がプレーし、結果を出してくれた時は嬉しいですね。受け止めてくれたんだなと。話している時には『ちゃんと伝わったかな』と思うこともありますからね」と柳沢が小さく笑う。
 プロ選手特有のプライド。選手の性格、個性を受け止めながら、言葉や対応を考える。そういう繊細な作業が彼らコーチの日常のほとんどを占めている。
「選手を見る」というのは、マネジメントの重要なポイントだと羽田も語っている。「きちんと見てもらえている」という手応えが、公平な選手間競争の基本になることは、大岩監督の、そして鹿島のチーム強化における哲学のひとつだ。
 次回は、強豪であり続けるクラブのコーチとしての矜持について、ふたりに訊く。

取材・文:寺野典子(フリーライター)

◆【後編】鹿島を支えるふたりのOBコーチ、柳沢敦と羽田憲司のいま。彼らの追求する指導者像とは?(サッカーダイジェスト)

鹿島を支えるふたりのOBコーチ、柳沢敦と羽田憲司のいま。彼らの追求する指導者像とは?【前編】


2016年1月7日木曜日

◆【鹿島】クラブOBの羽田氏をコーチ招へい(報知)


http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20160106-OHT1T50204.html

 鹿島が今季トップチームのコーチに、クラブOBで、昨季までC大阪のコーチを務めていた羽田憲司氏(34)を招へいすることが6日、分かった。

 コーチは現職の大岩剛(43)、柳沢敦コーチ(38)と合わせ、平均年齢38・3歳と若い陣容となる。羽田氏は00年鹿島に加入。12年、神戸で現役を引退後、C大阪で下部組織などのコーチに就いていた。現役時代には足のけがで3年以上、公式戦から遠ざかりながらも現役を続けた苦労人。選手に年齢が近く、技術指導もさることながら、精神面への指導にも期待が寄せられる。

◆鹿島OBの羽田氏、トップチームのコーチに入閣(スポニチ)


http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/07/kiji/K20160107011814560.html

 鹿島はクラブOBの羽田憲司氏(34)がトップチームのコーチに入閣することが分かった。

 市船橋(千葉)卒業後の00年から06年まで、センターバック、ボランチとして鹿島でプレー。01年にU―20日本代表の主将として世界ユース選手権(現U―20W杯)に出場しながら、同年から原因不明の足首痛に悩まされて4年以上も離脱した経験は、選手を指導する上でプラスになりそうだ。昨年7月には当時コーチだった石井監督が昇格。手薄になったコーチ陣を厚くするため、栄光と挫折を知るOBが加わった。

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