
日刊鹿島アントラーズニュース
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2018年6月28日木曜日
◆徳島ヴォルティス、杉本太郎が再び負傷 全治6~8週間(徳島新聞)

サッカーJ2徳島ヴォルティスは27日、MF杉本太郎(22)が右ハムストリングス腱損傷で全治6~8週間の診断を受けたと発表した。検査日は13日。杉本は今季2度目の負傷離脱となった。
杉本は4月15日の岐阜戦で、右ハムストリングス肉離れを起こして離脱。6月2日の福岡戦で8試合ぶりに実戦復帰し、7日の天皇杯、10日の町田戦に出場したが、続くリーグ戦2試合は欠場していた。
杉本は2017年にJ1鹿島から期限付き移籍で徳島へ。出場停止の1試合をのぞく41試合に出場し、6得点を記録した。移籍期間を延長して臨んだ今季は、11試合出場で1得点となっている。
徳島ヴォルティス、杉本太郎が再び負傷 全治6~8週間

◆鹿島内定の順大・名古、キャンプでしっかりアピール(ニッカン)

鹿島アントラーズは「清水キャンプ」最終日となった26日、清水J-STEPで中国1部リーグの天津泰達と練習試合を行った。静岡学園出身で来季加入が内定しているMF名古新太郎(順大4年)が初実戦に臨み、ボランチとして45分間出場。小気味いいパスで攻撃のリズムを作った。20日から始まったキャンプはこの日が打ち上げで、名古は「自分のプレーをしっかりアピールできたと思います」と充実した表情を見せた。
スタンドでは静岡学園の川口修監督(44)が観戦していた。恩師の前で健在ぶりをアピールすると、試合後は1日でも早いプロデビューを目標に掲げた。先月25日には大学に籍を置きながらJリーグ公式戦に出場できる「特別指定選手」に登録された。今後も定期的にクラブの練習に参加予定で「自分の特徴を出して、試合に絡んでいきたいです」と決意を示した。
高校の先輩でもある川崎フロンターレの大島僚太(25)はワールドカップ(W杯)ロシア大会の日本代表メンバーに選ばれた。名古は「4年後は自分もという思いでいる。まずは鹿島でスタメンを勝ち取りたい」と言葉に力を込めた。【神谷亮磨】
◆名古新太郎(なご・しんたろう)1996年(平8)4月17日、熊本県天草市生まれ。幼稚園年中から大阪豊里中SCでサッカーを始め、中学時代は東淀川FCでプレー。静岡学園では3年時に全国選手権8強。順大に進学し、17年ユニバーシアード日本代表に選出。家族は両親、妹、弟。168センチ、64キロ。
鹿島内定の順大・名古、キャンプでしっかりアピール

◆日本―ポーランド戦の主審はシカズウィ氏 16年クラブW杯決勝・鹿島VSレアル戦でも笛(スポニチ)

国際サッカー連盟(FIFA)は26日、W杯ロシア大会で日本の決勝トーナメント進出が懸かる1次リーグH組第3戦のポーランド戦(日本時間28日午後11時キックオフ)の主審を、ザンビアのジャニー・シカズウィ氏(39)が担当すると発表した。
シカズウィ主審は今大会、18日の1次リーグG組のベルギー―パナマで笛を吹いた。試合は3―0でベルギーが勝利。同主審はベルギーに3回、パナマに5回の警告を与えている。21日のフランス―ペルーでは第4審判を務めた。
また、同主審はJ1鹿島がレアル・マドリード(スペイン)と対戦した2016年12月18日のクラブW杯決勝の主審を担当して物議を醸したこともある。この試合では2―2の同点で迎えた後半終了直前、RマドリードのDFセルヒオラモスが鹿島FW金崎を背後からの激しいチャージで倒したが、反則の笛を吹いた同主審は胸ポケットに手を伸ばしたものの、既に1度警告を受けていたセルヒオラモスに2枚目のカードは出されず。鹿島の石井監督(当時)は試合後に「レフェリーが勇気を持てなかった場面があり残念だ」と話していた。
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日本―ポーランド戦の主審はシカズウィ氏 16年クラブW杯決勝・鹿島VSレアル戦でも笛

◆「やっぱ凄い」 U-19日本代表10番MF、現地観戦の本田弾に驚愕「それがあの人の力」(Football Zone)

セネガル戦を現地観戦、MF安部「ゴールを決めた時、日本でトップの選手だと思った」
セネガル戦で日本は前半11分に先制点を献上するも、同34分にMF乾貴士の同点弾で試合を振り出しに戻す。1-1で迎えた後半26分に2点目を叩き込まれるが、同33分に乾のパスから本田が左足で蹴り込み、そのまま2-2の引き分けに持ち込んだ。
同点となった瞬間、U-19日本代表の選手たちも興奮し、「めちゃくちゃ盛り上がってました」と安部は振り返る。本田が携わるエスティーログループのジュニアユース「S.T.FC」出身でプロ第1号の安部は、「本田選手が出て来て、正直やってくれると信じていた」という。
「あのゴールを決めた時、日本でトップの選手だと思った。持っているのもそうですけど、それがあの人の力。ああいうところでチームを助けられる選手というのは素晴らしい」
本田は2010年W杯から3大会連続ゴールを成し遂げるなど、大舞台で圧倒的な勝負強さを見せつけてきた。何かを引き寄せるかのような姿に“持っている”とも言われるが、安部はそれも含めて本田の力と力説した。
本田の決め切る力に驚愕、もし自分があの場にいたら…「もちろん自信はあります」
「やっぱり凄いよなって、みんな言いますね。あそこで決め切れる。チャンスがあってもあそこで決め切れない選手もいるので」
何よりチャンスを確実にモノにする集中力と決定力に驚きを隠せなかったようだ。「自分があの瞬間、あの場にいたら?」と問うと、安部や少しははにかみながら「もちろん自信はあります」と力を込めた。
東京五輪での活躍が期待される世代だが、W杯の現地観戦は安部を含めてU-19日本代表の選手たちにとって、大きな財産となったようだ。
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◆守備の要・昌子の祖母、W杯の地へ寄せる特別な思い(朝日新聞デジタル)

サッカー・ワールドカップ(W杯)ロシア大会で、日本の躍進をひときわ喜ぶ人がいる。昌子(しょうじ)源(げん)(25)の祖母、盛枝(もりえ)さん(81)=松江市=だ。盛枝さんの父は戦後、シベリアに抑留され帰らぬ人に。父が眠る地での孫の活躍に「夢のよう」と目を細める。
世界的ストライカーを相手に、体を張った守備で貢献する昌子。海外組ではないJリーグ所属選手として唯一、1次リーグ2試合にフル出場した。テレビで観戦した盛枝さんは「相手に倒された時、思わずテレビに顔を近づけ、『大丈夫?』と叫んでしまいました」と笑う。
開催国のロシアには、特別な思いがある。
盛枝さんが7歳のころ、父の浅野隆吉さんに赤紙(召集令状)が届いた。甘いものが大好きだった父。旧満州への出征の日、つぼに入った砂糖をさじですくい、口いっぱいにほおばってから出かけていった姿が記憶に残る。
「子どもたちは元気か」。父からは、そんな手紙が届いた。終戦後、シベリアのイルクーツク州に抑留されたことをはがきで知った。「メガネ、万年筆、時計をとられ、困っている。寒さも厳しい」と記されていた。父の音信はこの後、途絶えた。
一向に帰還しない父の安否確認のため、母静枝さんに手を引かれ、何度も役所を訪ねた。あるとき、職員から「もう都合が悪いから、死亡公報を受け取ってくれ」と言われた。「父がどんな最期だったのか、全く情報もない。それが悔しくて、悲しくて」
4人きょうだいの長女として母を支え、苦しい時期を乗り切った。結婚、出産と家族が増え、楽しみになったのが孫の活躍だった。昌子は、米子北高校(鳥取県)に通った。松江市内で試合があれば観戦し、鹿島アントラーズに入団してからは、夫の貞夫さんが試合を録画し、盛枝さんが新聞や雑誌を切り抜いた。夫婦で何度も見返した。
昨年3月、貞夫さんが亡くなった時、昌子はアジア最終予選の真っ最中だった。葬儀には参列できなかったが、「おじいちゃんのために頑張るから」と電話で約束してくれた。
有言実行ともいえる、W杯での存在感ある孫のプレー。持病でロシアには行けなかったが、テレビにロシアの青い空が映るたび、盛枝さんは画面に向かって、呼びかけるという。「お父さん、源を見守ってやってね」
28日、日本は決勝トーナメント進出をかけて、ポーランドとの一戦に臨む。(山本亮介)
守備の要・昌子の祖母、W杯の地へ寄せる特別な思い

◆昌子躍動、父の誇り 国内組唯一の2戦先発 サッカーW杯(神戸新聞)

サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会で、日本代表センターバック(CB)の昌子源選手(25)=鹿島アントラーズ、神戸市北区出身=が存在感を高めている。主力を海外組が占める中、1次リーグの2試合に唯一の国内組として先発。特に初戦のコロンビア戦ではエースを止め、アジア勢初の南米勢撃破に貢献した。「日本のCB像を変えてほしい」と現地観戦するサッカー指導者の父力さん(54)の期待も背に、28日のポーランド戦で決勝トーナメント進出を狙う。
初のW杯だが、格上相手でも落ち着いている。持ち前の足の速さと判断力を生かした守りで先手を奪い、コロンビア戦では世界屈指のFWファルカオ選手をシュート2本に封じた。国際サッカー連盟は公式サイトで「驚きはゲン・ショウジ」と言及。続くセネガル戦でも快足のニャン選手と渡り合い、海外でも評価は急上昇中だ。
開幕前まで立ち位置は不安定だった。昨年8月、アジア最終予選のオーストラリア戦に先発してロシア大会出場に尽くしたが、同11月の海外遠征は帯同しただけ。ブラジル、ベルギーの強豪国を相手に力を試す機会は与えられず、CBでは3番手の選手とみられていた。
昌子選手は納得できず、力さんに愚痴をこぼしたという。だが、日本の指導者で最高位のS級ライセンスを持つ父は「慢心」と一蹴。「2試合に出られなかったのはむしろ良かった。腐っている時間はないよ」と背中を押した。
W杯開幕前のガーナ、スイスとの国際親善試合でも出番はなかったが、続くパラグアイ戦で先発のチャンスが巡ってきた。同点弾の起点となる縦パスを通すなど攻守でアピールし、W杯のピッチにつなげた。
従来の日本人CBとは違う積極的な守備を力さんも買っており、大会前には「これ見てみ」と、タイプが似ているアルゼンチン代表マスケラーノ選手らの映像を送った。昌子選手も「現代サッカーに機動力は欠かせない」と価値観は一致する。ポーランド戦は大エースのレバンドフスキ選手への対策が不可欠。身体能力に優れた強敵にも、決してひるまない。(有島弘記)
昌子躍動、父の誇り 国内組唯一の2戦先発 サッカーW杯

◆昌子源のディフェンスは世界レベル、FIFAも賞賛する実力とは(ダイヤモンドオンライン)

ワールドカップ・ロシア大会で快進撃を続ける西野ジャパンが日本時間28日午後11時、引き分け以上で決勝トーナメント進出が決まるポーランド代表とのグループリーグ最終戦に挑む。開幕前の芳しくない下馬評を鮮やかに覆した選手たちのなかで異彩を放っているのが、先発メンバーで唯一の国内組となるセンターバックの昌子源だ。Jリーグを代表する常勝軍団、鹿島アントラーズのディフェンスリーダーを託されて5年目。サッカー人生で何度も味わわされてきた挫折を、強さと上手さをあわせもつセンターバックへ成長する力に変えてきた25歳は開幕直前にレギュラーを再奪取。世界からも熱い視線を浴びながら、ヴォルゴグラード・アリーナのピッチに立つ。(ノンフィクションライター 藤江直人)
国内組では唯一先発メンバーでフル出場
FIFAも「一番の驚きはゲン・ショウジ」と称賛
ポジションは与えるものではなく、自らの力で奪い取るもの――。サッカーを含めたスポーツの世界におけるこの鉄則を、Jリーグ最多となる19もの国内三大タイトル獲得数を誇る常勝軍団、鹿島アントラーズはあえて覆したことがある。
直近では2013シーズンのオフ。前人未踏のリーグ戦3連覇を達成した2007シーズン以降の3年間を含めて、アントラーズの最終ラインを10年間支えてきた岩政大樹(現東京ユナイテッドFC)との契約更新を見送っている。
アントラーズは背番号に「ストーリー」をもたせるクラブのひとつだ。たとえば「3番」は歴代のディフェンスリーダーが背負い、2大会連続でワールドカップに出場した秋田豊(現解説者)から金古聖司(現本庄第一高校監督)をへて、2006シーズンから岩政に受け継がれた。
ピッチには立てなかったものの、岩政も2010年のワールドカップ・南アフリカ大会の代表メンバーに名前を連ねている。功労者と袂を分かち合った理由を、1996年から強化の最高責任者を務める、アントラーズの鈴木満常務取締役強化部長はこう説明してくれたことがある。
「次のシーズンから昌子と植田にシフトする、という明確なプランがあったからです。かつて岩政にシフトするときに、秋田との契約を更新しなかったのと同じ考え方になります」
アントラーズの歴史を振り返れば、黎明期の1993シーズンから活躍してきた秋田は2003シーズンオフに退団。入れ替わるように、東京学芸大学から2004シーズンに岩政が加入している。
ポジションは与えるものではなく、自らの力で奪い取るもの――。サッカーを含めたスポーツの世界におけるこの鉄則を、Jリーグ最多となる19もの国内三大タイトル獲得数を誇る常勝軍団、鹿島アントラーズはあえて覆したことがある。
直近では2013シーズンのオフ。前人未踏のリーグ戦3連覇を達成した2007シーズン以降の3年間を含めて、アントラーズの最終ラインを10年間支えてきた岩政大樹(現東京ユナイテッドFC)との契約更新を見送っている。
アントラーズは背番号に「ストーリー」をもたせるクラブのひとつだ。たとえば「3番」は歴代のディフェンスリーダーが背負い、2大会連続でワールドカップに出場した秋田豊(現解説者)から金古聖司(現本庄第一高校監督)をへて、2006シーズンから岩政に受け継がれた。
ピッチには立てなかったものの、岩政も2010年のワールドカップ・南アフリカ大会の代表メンバーに名前を連ねている。功労者と袂を分かち合った理由を、1996年から強化の最高責任者を務める、アントラーズの鈴木満常務取締役強化部長はこう説明してくれたことがある。
「次のシーズンから昌子と植田にシフトする、という明確なプランがあったからです。かつて岩政にシフトするときに、秋田との契約を更新しなかったのと同じ考え方になります」
アントラーズの歴史を振り返れば、黎明期の1993シーズンから活躍してきた秋田は2003シーズンオフに退団。入れ替わるように、東京学芸大学から2004シーズンに岩政が加入している。
アントラーズ入団も3年で13試合のみ
高校時代の自信を打ち砕かれる日々
少年時代のポジションはフォワード。ガンバ大阪のジュニアユースでは故障に苦しみ、同期には怪物と畏怖された宇佐美貴史(フォルトゥナ・デュッセルドルフ)がいたこともあり、3年生の途中で退団している。
高校ではサッカーをするつもりはなかったが、日本サッカー協会公認のS級コーチライセンスをもつ父親の力さん(姫路獨協大学サッカー部監督)の計らいもあり、力さんの知人がコーチを務めていた鳥取県の米子北高校へ進学。サッカーを続けることになり、2年生からディフェンダーへ転向した。
昌子自身はフォワードへの未練が残っていたが、米子北高校の首脳陣は昌子の潜在能力を見抜き、大きな期待をかけていた。U-19日本代表候補に名前を連ねるほど急成長を遂げた昌子は、複数のJクラブから練習参加を打診されている。
これも運命の導きと言うべきか。京都サンガではアントラーズのレジェンドである秋田監督から、現役時代の十八番でもあった強烈なヘディングを放つ術を伝授された。そして、練習からいっさいの妥協を許さない厳しさをもつアントラーズに魅せられ、2011年に常勝軍団の一員になった。
「高校生のときにできていたことは、プロの世界では通用しないぞ」
しかし、待っていたのは、一から叩き直せという厳しい言葉だった。声の主は岩政とともにアントラーズの最終ラインを支え、前年限りで引退した大岩剛コーチ(現監督)だった。額面通りに受け取ることができなかった昌子だが、すぐに伸びかけていた天狗の鼻をへし折られる。
最初の3年間はわずか13試合に出場しただけ。センターバックではなく左サイドバックで出場したこともあった。青森山田高校から加入した同期生、MF柴崎岳(現ヘタフェ)が放つまばゆい輝きをピッチの外から見つめる日々を、昌子はこんな言葉で振り返ったことがある。
「やっぱり自信はあったわけですよ。高校のときにけっこう相手を抑えられていたから。それをそのままプロで出したら、まったく歯が立たんかったよね」
日々の練習でも、岩政やレジェンドの一人、中田浩二(現鹿島アントラーズ・クラブ・リレーションズ・オフィサー)から数え切れないほどのカミナリを落とされた。当時の自分を「あのころはホンマにヒヨッ子だったからね」と、昌子は笑い飛ばす。
「(岩政)大樹さんや(中田)浩二さんに、何回同じことを言われたか。何回同じミスをするねん、何でそこでそんな(余計な)足が出るねんと。僕としては『いやぁ』と言うしかなかったですよね」
しかし、自信を打ち砕かれるたびに、絶対に上手くなってやる、と歯を食いしばりながら昌子は立ちあがってきた。成長を続ける軌跡を高く評価したアントラーズの強化部は、満を持して岩政が握っていたバトンを託すことを決めた。岩政は熱き思いを昌子に残している。
「お前なら絶対にできる」
2014年は全34試合で先発出場
「3番」を託され、2016年にはJリーグ頂点へ
迎えた2014シーズン。昌子はリーグ戦で全34試合に先発し、1試合を除いてフル出場を果たした。しかし、アントラーズは前年に続いて無冠に終わる。特にリーグ戦はサガン鳥栖との最終節で勝てば優勝する可能性もあったが、ホームでまさかの苦杯をなめさせられた。
2015シーズンからは、岩政の退団後は持ち主不在となっていた「3番」を託される。名実ともにディフェンスリーダーとなった昌子だが、ファーストステージでアントラーズは8位に低迷。セカンドステージの序盤でつまずいた段階で、トニーニョ・セレーゾ監督が解任された。
「強い鹿島というのは僕たちの大先輩、レジェンドの方々が築いた時代のこと。言うたら強い鹿島を壊してしまったのは僕たちとなる」
常勝軍団の屋台骨を背負うプレッシャーを、昌子はこんな言葉で表現したこともある。日本代表に目を移せば、アギーレジャパン、そしてハリルジャパンに継続的に招集されながら、出場機会をなかなか得られなかった時期。もがきながらも、昌子はファイティングポーズを失わなかった。
「ミスを引きずったら2点、3点とまたやられて負ける。失点に絡んだことのないセンターバックなんて絶対におらんと思うし、これまでのいろいろな人たちも、こうやって上り詰めてきたはずなので。大きな大会や舞台になるほど、失点したときの責任の重さは増してくる。そういう痛い思いを積み重ねながら、強くなる。もちろん無失点にこだわるけど、サッカーは何が起こるかわからんし、たとえまた失点に絡んだとしてもスパッと切り替えたい」
2015シーズンのヤマザキナビスコカップ(YBCルヴァンカップ)を制し、3年ぶりとなるタイトルを獲得。復活の狼煙をあげたアントラーズは、翌2016シーズンのファーストステージでも優勝。チャンピオンシップでも川崎フロンターレ、そして浦和レッズを撃破して頂点に立った。
年間順位3位からの下剋上を成就させたチャンピオンシップの期間中に、3連覇を達成した2009年12月5日のレッズ戦の映像を何度も見ている。アントラーズの伝統とは何なのか。畏敬の念を抱く「3番」の前任者が見せた鬼気迫るプレーに、自問自答を繰り返してきた結論があった。
「試合終盤は押せ押せになった浦和を鹿島がことごとく跳ね返して、結局はゼロに抑えて優勝した。確か高原(直泰)さんが放った決定的なシュートを、大樹さんが一歩寄せて、左足に当てて防いでいた。あの時間帯、あの場面で左足が出るなんて、もう奇跡としか言いようがない。何が大樹さんを動かしていたのか。あれが鹿島や、あれが鹿島の『3番』やと思いましたね」
開催国代表として出場したFIFAクラブワールドカップでも決勝進出を果たし、延長戦の末に敗れたものの、ヨーロッパ代表のレアル・マドリード(スペイン)と白熱の戦いを繰り広げた。
後半にはカウンターで抜け出したポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウドを、追走した昌子がファウルなしで止め、ボールを奪う場面もあった。ファンの一人として見ていた中村憲剛(川崎フロンターレ)は、昌子に対してこんな言葉を残している。
「試合ごとに成長していく彼の姿を見ていましたけど、特にレアル・マドリード戦では『最後は自分が守る』という気概を感じました。これだけたくましい日本人のディフェンダーが、若い選手のなかから出てきたことを、率直に嬉しく思いますね」
森重など先人へ畏敬の念を頂きながら
ポーランド戦のピッチに立つ
迎えた2017シーズン。活躍の舞台に、いよいよ日本代表が加わる。FC東京で精彩を欠き、選外となった森重真人に代わる形で、6月のシリア代表との国際親善試合から吉田麻也(サウサンプトン)とコンビを組むセンターバックのファーストチョイスになった。
日本が6大会連続6度目のワールドカップ出場を決めた、昨年8月のオーストラリア代表とのアジア最終予選でも歓喜の瞬間をピッチのうえで味わった。直後に明かしたのは、前回ブラジル大会にも出場したベテラン、森重への感謝の思いだった。
「それまではずっと森重君が守っていたし、ここまで導いてくれたのは間違いなく森重君だった。僕のなかでは偉大な存在です。森重君の貢献度を忘れてほしくないと思います」
ロシア大会へ向けた強化試合シリーズが幕を開けた昨年10月以降は、槙野智章(レッズ)がファーストチョイスになった。アントラーズでも一時は首位を快走しながら失速し、フロンターレに歴史的な逆転優勝を許して人目をはばかることなく号泣した。
再び逆風にさらされても、もちろん心は折れない。進むべき道を見失わなかったからこそ、開幕直前のパラグアイ代表とのテストマッチで見せたパフォーマンスで、西野朗監督が描く構想のなかで槙野との序列を逆転させた。昌子の胸中にはいま、ぶれることのない信念が脈打っている。
「目の前の試合で、自分が一番いいプレーをしようとは思わない。チームが勝つために何をしなければいけないのかを考え抜くことが、自分のいいプレーにつながっている。チームを勝たせることのできる選手にならないといけない。秋田さんや大樹さんは、そういう選手だったと思うので」
森重を含めた先人たちへの畏敬の念を常に抱きながら、成長の二文字を貪欲に追い求め続けてきた。引き分け以上で2大会ぶり3度目の決勝トーナメント進出が決まる、28日のポーランド代表とのグループリーグ最終戦でも、西野ジャパンを勝たせるために昌子は体を張り、頭脳をフル回転させ続ける。
昌子源のディフェンスは世界レベル、FIFAも賞賛する実力とは
◆昌子源から鳥取の恩師へ届いた返信。 「ポーランド戦、絶対に勝ちます!」(Number)

6月19日、日本vs.コロンビア戦のキックオフを約1時間後に控えた20時過ぎ。鳥取県米子市にある米子北高校の第1会議室から、大歓声が上がった。
この日、サッカー部員や学校関係者に加え、米子市の伊木隆司市長も駆けつけての観戦会が行われた。その試合を前に、同校出身のDF昌子源が、先発メンバーに名を連ねたことが発表されたのだ。
「情報はまったく調べていなかったので、その瞬間まで分かりませんでした。発表されたときは興奮したし、少しホッとしましたね」
同校サッカー部の城市徳之総監督は、心境をこう振り返る。昌子が在籍した2008年から2010年までは、監督として指導した。教え子のワールドカップ・デビューを「特に後半は、落ち着いてプレーしていましたね。安定していたと思います」と振り返った。
1年のときから物おじしなかった。
「8割くらいは槙野智章選手が先発するだろうと思っていたので、うれしかったですね」
在籍時はコーチとして、城市監督とともに昌子を指導した。ラダメル・ファルカオなど名だたる攻撃陣に立ちはだかるプレーを見ながら、「いつもよりもポジショニングが細かくて、落ち着いている」と感じた。
同校の食堂のスタッフとして歴代のサッカー部員を見守っている小川真紀子さんは、自宅で観戦していた。1年のときから大人にも物おじせず、気軽に声を掛けてきた昌子とは卒業後も交流があり、自宅にはサインが飾ってある。
試合終盤のピンチでは、体を張って相手に立ちはだかった。「プロになっただけでもすごいと思っていたけど、ワールドカップに出るなんて。こんなにすごかったんだ」と感慨に浸った。
試合終了後40分ほどで「勝ちました!」
勝利の瞬間、第1会議室からはこの日一番の大歓声が湧き起こった。直後に城市総監督が昌子の携帯電話に祝福のメッセージを送ると、40分ほどで返信が来たという。
「『勝ちました! ありがとうございます!』って。ロッカールームに戻って、着替えてすぐくらいじゃないかな。落ち着いてから返信してくれればいいのに。律儀なところがあるんですよ」
鹿島アントラーズで地歩を固め、Jクラブ所属の選手では唯一、先発メンバーに名を連ねた昌子源。10年前に入学した米子北高校でのプレーが、キャリアの大きな転機だった。
2008年、G大阪ジュニアユースから米子北高校に進んだ昌子の当時のポジションは、FWだった。
Jクラブのアカデミーで磨いた技術は一級品で、キックも素晴らしいものを持っていたが、「うまくてボールを持てるがゆえに、判断のスピードが遅いところがあった」(城市総監督)。足を止めてしまうことが多く、堅守速攻をベースとする米子北高校のスタイルでは、持ち味を発揮しにくい状況にあった。
泣いている昌子に語りかけたこと。
城市総監督は「オールラウンドな能力があったので、あのままFWでもプレーできただろうし、アタッカー、ボランチ、サイドバックでもできたと思う」と語る。だがチーム事情も踏まえて、1年の途中でセンターバックにコンバートすることを決めた。
本人の将来も考えた上でのコンバートだったが、得点を決めることが好きだった昌子にしてみれば、面白くない。親元を離れての寮生活によるホームシックも重なり、ある日の練習中に涙を流し、途中で寮に帰ってしまった。
その日の夜、寮に向かった城市総監督は、泣いている昌子に語りかけた。
「きちんと練習すればスーパーな選手になるし、やらなければダメな選手になる。真ん中はないと感じていました。だから『スーパーな選手とダメな選手、どっちになりたいんだ』と聞いたら、『スーパーな選手になりたい』と答えたんです。本人がそう思っているのは分かっていました。だから『それなら、やるしかないだろ』と」
卒業後には食堂へと足を運び……。
センターバックになる決意を固めた昌子は、守備の基本をイチから学びながら、徐々に力を伸ばしていった。2009年、2年時のインターハイ予選までは控えだったが、全国大会では先発メンバーとなる。
米子北高校は快進撃を見せ、鳥取県勢としても過去最高となる準優勝の好成績を残した。昌子は、相手の攻めをはね返すプレーが得意な3年生と最終ラインの中央でコンビを組み、危機察知能力を生かしたカバーリングや、速攻の起点となるロングフィードで貢献した。
これを機に注目の存在となると、3年生になっても成長を続け、鹿島アントラーズから誘いを受けた。城市総監督は「カバーリングは得意だけど、足元のボールに激しく当たりに行けないところがあった。精神面も含めて良いところ・悪いところをすべてスカウトの方に伝えて、それでも『獲得して、育てたい』と言ってもらったんです」と振り返る。
2011年3月1日、一足早く鹿島の練習に参加していた昌子は、米子北高校に戻って卒業式に出席。式が終わった後に向かったのは、食堂の小川さんの元だった。
「他の選手は友達と騒いだりしていたけど、昌子くんは仲間2人を連れて、あいさつに来てくれました。礼儀正しくて、律儀な子。『プロで頑張るよ!』と言ってくれた優しさが忘れられません」
プロ1年目には母校の円陣に参加。
鹿島に進んでからも時折、鳥取に帰ってきた。プロ1年目の2011年には、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝でベンチ入りして優勝を経験した翌日、高校選手権予選決勝に臨む母校の応援に訪れ、試合前の円陣にも参加。旧知の関係者にプロでの様子を聞かれると、「試合に出られなくても、練習のレベルが高いから、めちゃくちゃ成長してますよ!」と声を弾ませた。
やがて鹿島で不動の存在となり、2014年からは日本代表にも選ばれるように。昨年8月のワールドカップ最終予選・オーストラリア戦では先発フル出場し、2-0の勝利と予選突破に貢献した。
セネガル戦でも起点の縦パスが同点弾に。
その後は定位置争いで後れを取ったかと思われた時期もあったが、ワールドカップで先発の座を勝ち取った。中村監督はあらためて、「高校時代から、持っている能力が計り知れなかった」と思い出している。城市総監督も「ワールドカップの舞台に立つことは、本当にすごいこと」と喜んだ。
セネガル戦でも先発フル出場した昌子は、FWムバイェ・ニアングらと激しくマッチアップし、攻撃では自らドリブルで持ち上がる積極性も見せた。78分には岡崎慎司への鋭い縦パスが、本田圭佑の同点ゴールにつながった。
「ガツガツ当たりに行っていて、ビルドアップにもよく参加していた」と評した城市総監督は、今回も試合終了直後に携帯電話へメッセージを送った。
「お疲れ様。ポーランド戦も粘り強く、タフに戦ってください」という激励に、今度も1時間ほどで返信が来た。
「ありがとうございます! 次は絶対に勝ちます!」

◆今日ポーランド戦。守備のキーマン昌子源を支えるリバウンドメンタリティー(THE PAGE)

試合前に配られるスタートリスト。日本の先発メンバーの所属クラブの欄には、ヨーロッパのクラブ名がずらりと並ぶ。ドルトムント、ガラタサライ、マルセイユ、フランクフルト、サウサンプトンといったネームバリューは、コロンビアやセネガルのそれに見劣りすることはない。
そういう時代になったのか、と感慨深い一方で、だからこそ、その中でたったひとつの「(JPN)」の文字が燦然と輝く。
海外組が実に10人も占める日本のスタメンのなかで、ただひとり、国内でプレーしているのが、鹿島アントラーズのセンターバック、昌子源である。
ロシア・ワールドカップ初戦のコロンビア戦での落ち着いたプレーがFIFAの公式サイトで紹介され、海外のサッカーファンからの注目、賞賛も集まっている。
日本国内で唯一プレーする、あの素晴らしい選手はいったい何者なのか――、と。
だが、昌子自身はそうした取り上げ方について、一笑に付す。
「センターバックは麻也くんと他の誰が出ても国内組になるし、僕は国内組を代表しているつもりもない。自分にできることをしっかりやっているだけ。でも、もちろんJリーガーも見てくれていると思うので、昌子でもやれるなら俺もできると、プラスに思ってくれたら嬉しいですね」
コロンビア戦、続くセネガル戦における昌子のプレーが実に安定していて頼もしく、安心して見ていられたのは間違いない。
コロンビア戦ではクリアを香川に繋げ、先制点となるPK獲得の起点となったプレーを始め、インターセプト、カバーリングと、あらゆる局面で「正解」のプレーを披露した。むろん、コロンビア戦は数的優位の中でのプレーだったが、圧巻だったのは、続くセネガル戦だ。
昌子が唯一の国内組だから、なのかどうかは定かではないが、セネガルの攻撃陣は明らかに昌子を狙っていた。攻撃においても、守備においても。
センターフォワードのエムバイ・ニアン(公式記録では184センチだが、明らかに190センチ以上だろう)は常に昌子の近くにポジションを取り、ロングボールやゴールキックを昌子と競り合った。189センチの身長を誇り、プレミアリーグでプレーする吉田麻也と競り合うより、182センチの無名のセンターバックと競り合った方が勝てると踏んだのがあからさまだった。
日本が攻撃をビルドアップする際にも、吉田や長谷部誠には厳しくプレスを掛けず、昌子の方へパスを出させるように誘導し、ボールが昌子に渡った瞬間、プレスを掛けて奪おうとした。
だが、25歳のセンターバックは落ち着いていた。
「自分でもすぐに気づいた。19番(ニアン)は俺の方にいたのでヘディングする機会が多かったし、ここで俺が起点を作らせたら、相手の思うツボかなって。自分のできることを精一杯やった。(ビルドアップでも)ハセさんや麻也くんがボールを持った時に、俺のほうにどうぞ、みたいにやっていた。そこで冷静に、ああ、俺かって受け止められたのがよかった。そこで消極的なパスをするといけないなと思って、強気に縦に入れていこうと思っていた」
次第に昌子が制空権を握るようになると、イライラを募らせたニアンは後半、長谷部や昌子に対して肘打ちや手のひらで顔面を殴打して警告を受け、ポジショニング自体も吉田のほうへと逃げていく。ニアンとの勝負は、昌子の完勝に終わったのだ。
ワールドカップ初出場とは思えないほど落ち着いたプレーを見せている昌子だが、これまで日本代表で確固たる地位を築いていたわけではない。
2014年11月に初めて招集されたが、代表デビューは2015年3月まで待たなければならず、その後もコンスタントに招集されたわけではなかった。
アジア最終予選の途中で、不調の森重真人に代わって吉田のパートナーに抜擢されたが、予選が終わると槙野智章にポジションを奪われた。今年4月に西野朗監督が就任しても、当初は立ち位置に変わりはなく、5月30日のガーナ戦、6月8日のスイス戦ではベンチスタート。だが、本大会前最後のテストマッチとなった12日のパラグアイ戦でのプレーが評価され、コロンビア戦でのスタメンの座を射止めるのだ。
オーストリア・ゼーフェルト合宿が始まったばかりの頃、昌子が自身の代表キャリア、選手キャリアについて、こんな風に言っていた。
「僕のサッカー人生はいつも悔しい思いをしていて、一気に二段上がったことはないですし、一気に二段落ちることもあった。でも、そういう経験が間違いなく僕を強くしてくれている。そういう経験があったから今、23人に選ばれてここにいるのかなって」
ガンバ大阪のジュニアユースからユースに昇格できず、鹿島に加入してからも3年間はレギュラーポジションを掴めず、年代別代表で国際大会を戦ったこともない。リバウンドメンタリティー、反骨心、雑草魂……。昌子にとっていつだって、理想の自分とのギャップに対する悔しさが、成長の肥やしとなってきたのだろう。
もとより大舞台に強い一面もある。Jリーグチャンピオンシップを制した鹿島の一員として出場した2016年のクラブ・ワールドカップではアトレティコ・ナシオナル、レアル・マドリー相手にインターセプトを連発したかと思えば、カバーリングにシュートブロック、ボール奪取後のフィードと、獅子奮迅の働きを見せた。
ワールドカップデビューとなったコロンビア戦でも自らメンタルをコントロールして臨んでいる。
「いろんなところから見られていると思ったので、自分で『俺、落ち着いてますよ』という雰囲気を出そうと。『アイツ、緊張してるわ』って思われて、それがチームメイトに伝染したら嫌だったから。最初のトラップがいきなり浮いてしまったりとか、そういうのを心配されたら、それだけでチームにとってマイナスだから。そういうことがないように、『大丈夫ですよ、俺は』という雰囲気でやっていました。それは上手いこといったんじゃないかなと」
鹿島でコンビを組む2歳年下の植田直通はコロンビア戦での昌子のプレーについて「個人的にはいつもどおりの源だと思いました」と語った。裏を返せば、ワールドカップでも「いつも通り」のプレーを出せたというわけだ。
セネガル戦ではセットプレーの際にニアンに肩を何度もぶつけられるとやり返し、まくしたてて挑発されると、同じように言い返した。
「言い返したり、やり返したり。いい意味で楽しんでいたかな」
能力の高さは鹿島でのプレーからも明らかだが、それが世界の舞台でも通用することが証明された。自身も言うように、昌子のプレーに勇気づけられたJリーガーも多いだろう。国際舞台での経験と自信は、悔しさと同じくらい栄養剤となり得るものだ。世界の舞台で自信を膨らませた昌子の今後が、さらに楽しみだ。
(文責・飯尾篤史/スポーツライター)

◆柴崎岳と大迫勇也 “寡黙なふたり”はなぜチームの中心になれたのか(文春オンライン)

2度もリードを許したものの、2-2と引き分けに持ち込んだセネガル戦後。取材エリアにキャプテンの長谷部誠と大迫勇也の姿はなかった。ともにドーピング検査が長引き、ベースキャンプ地へ向かうチャーター機の離陸時間が迫ったことで、取材対応をしなかったからだ。
そんなミックスゾーンで最後まで取材に応じていたのが、柴崎岳だった。
あの夜、日本代表は柴崎のチームだった
守備陣と攻撃陣とを繋ぐ、ボランチというポジションでプレーした柴崎は、攻守に渡りチームを牽引した。この日の日本のMVPを挙げるなら、得点した乾貴士でも本田圭佑でもなく、柴崎だろう。最初の得点ではピッチ中央から長友佑都へ長いパスを出し、そこから乾の得点が生まれた。ほかにも相手ボールを奪い、何本も決定機を演出する縦パスを送っている。この夜、日本代表は柴崎のチームだったと言っても過言でない。しかし、いやだからこそ、彼に満足感はなかった。
「悔しいですね。 勝てるゲームだったと思いますし、その可能性も十分にあったので残念です。失点は防げたと思いますし、得点も多くチャンスを作り出せたので、決めきらなければならない。攻守両方にゴール前での精度をもう少し上げなきゃいけない。僕自身、ボールを触る回数が少なかった。それでも、セカンドボールを拾うところはある程度できたと思います。チームの二次攻撃に繋がるプレーもできたかなと思います。ゴール前に迫る回数が徐々に増えてきていると思うので、そこは継続してやっていきたい。自分に対して、もっとできるだろうという気持ちが強い。納得していない部分が強い」

自身のプレーや試合内容を振り返る。試合前日の取材では、「僕のパフォーマンス次第だと思います」と自身が担うモノの大きさを自覚し、それに見合う仕事ができるという自信をのぞかせた。
そんな柴崎の姿に、「メディア嫌い」と噂されたこともある鹿島アントラーズ時代の面影はなかった。1年半のスペインでの時間が彼を変えたのだろうか。不甲斐ない試合をしたときはもちろん、どんなに活躍しても、その発言はわずかなものだった。今も寡黙な一面は変わらないが、自身の感情やプレーについて、丁寧に語る姿は、当時の柴崎を取材していた人間にとって、驚きでもあった。
出れば何かを残せる男、それが柴崎だ
10代のころからその才能を高く評価され、U-17ワールドカップ出場時には10番を背負っている。Jリーグからの争奪戦も当然激化することが予想されていたが、高校2年のとき、鹿島アントラーズと仮契約を交わす。
プロ入り後は強豪クラブで先発の座を手にするのは容易ではなかった。それでも出場機会を得るとそのプレーは強く印象に残った。

2011年10月9日Jリーグヤマザキナビスコカップ準決勝対名古屋グランパス戦。大迫勇也のゴールで先制するも同点に追いつかれた延長後半107分に柴崎が決勝ゴールを決める。この試合ボランチでプレーした柴崎は、ピッチの中央でバランスをとる仕事に注力し、あまりゴール前へ上がることがなかった。確か2度か3度だったように記憶している。しかし、そのうちの1度で得点を決めたのだ。その嗅覚に驚かされた。
「不安障害」に陥ったと報道されたことも
柴崎がこの大会で最優秀選手賞を獲得したのは、決勝戦で2ゴールを決める2012年だったが、若きゲームメーカーは非凡な才能を示し続けていたのだ。
鹿島でも試合経験を重ねていた柴崎だったが、日の丸とは縁遠かった。2014年のロンドン五輪代表チームにも選ばれてはいない。それでも柴崎自身の海外志向は強かった。しかし、なかなか納得のいくオファーは届かなかった。そして2016年、クラブワールドカップ決勝戦でレアルマドリード相手に2ゴールとブレイク。2017年スペイン1部リーグのクラブへ移籍という報道が流れ、海を渡ったものの、結局、2部のテネリフェに移籍。当初は慣れない環境での苦闘が始まる。「不安障害」に陥ったと現地で報道されるほどだった。それを克服し、シーズン終盤にはチームを牽引した。その活躍が評価され、2017年夏には1部のヘタフェへ移籍している。初ゴールはバルセロナ戦だった。

内田篤人を変えたドイツでの経験
海外のクラブで味わう厳しい生存競争は孤独な戦いだ。それは選手を大きく変える。
「若いころは、サッカーに対する熱さは自分のなかに隠していればいいやと思うところがあった。でもドイツへ来たら、自分の感情を引きずり出された。そうじゃないとやっていけない。『人のうしろでもいいや』と思っていたけれど、前に出ないと生き残れないから。それは海外へ行ってみないとわからないことだった」
今季、ドイツから帰国し、鹿島アントラーズに復帰した内田篤人がそんなふうに語っていた。柴崎も同じなのかもしれない。自己主張しなければ、何も感じていないのと同じ。そんな欧州文化のなかで、生き残るために、ひとつ殻を破ったのだろう。
多くを語らずとも、プレーに支障のなかった鹿島時代とは違い、スペインでは黙したままでは、埋もれてしまう。熾烈なレギュラー争いのなかでは、自分のミスを認めない選手もいる。主張しなければ、負け犬のままで終わってしまうのだから。
自分の居場所を作るためには、たとえ言葉の壁があったとしても、コミュニケーションは必要不可欠だ。そこから逃げれば、サッカーもうまくはいかない。
それはメディアも同じだと柴崎はスペインでの孤独な戦いのなかで感じたに違いない。もちろん、彼が身に着けた自信がメディアへの発言にも繋がっているだろう。

大迫はドイツで何が変わったのか
同じく鹿島アントラーズ出身の大迫もまた、ドイツへ渡り変わった。
彼が最初に所属したのは、1860ミュンヘンという長年2部に所属するチームだった。加入直後、初出場初ゴールを決めると6試合で4得点と違いを見せた。しかし、その後はゴールから遠ざかっていた。
2014年4月、前半で4失点し、2-4と敗れたドレスデン戦を現地で取材した。大迫自身のゴールもない。鹿島時代ならメディア対応はしなかっただろう。しかし、彼はメディアの前に自ら立ち、「こんな不甲斐ない試合をしてしまって悔しい」と強い口調で語った。彼の思いが伝わってきた。

同時に大迫のプレーに違和感を抱いた。プレーエリアが非常に狭くなっていたからだ。ゴール前でディフェンダーと駆け引きしながら、何度も動きなおしを繰り返し、味方のパスを引き出すという彼のストロングポイントが活かせていなかった。エースをつぶそうとする、大柄な相手ディフェンダーに苦労している印象だった。そういう相手であっても、彼のポジショニングや動きで対応できるはずだろうにと思ったからだ。
フォワードらしい図太さを3カ月で身に着けた
「あまり動きなおしをすると、『パサーが見失うから、動くな』って言われているんですよ」
数日後、練習場で話を聞いた大迫はそんなふうに現状を語った。ドイツとはいえ、どのチームも選手の質が高いわけではない。特に2部ともなれば、フィジカル重視で戦うチームや選手も多い。視野の広さでいえば、日本人選手のほうが広いのだろう。
しかし、その日見た練習での大迫は、試合以上に動き、味方に声をかけパスを要求していた。

「僕は諦めないですよ。味方とうまくコミュニケーションが取れれば、変わっていくと思うから」
パスが出てこなければ、仕事ができない。それがフォワードだ。Jの強豪クラブ鹿島とは違うチームメイトに対して、不満を口にすることもなく、そして、周囲に合わせるのではなく、自身に合わせろと強く要求することを躊躇わない。ドイツへ来て、3カ月ほどだというのに、大迫には欧州でプレーするフォワードらしい図太さを漂わせていた。
「サイドで出るなら、出ないほうがいい」
そして大迫が示したフォワードとしての矜持は、2014年に1部ケルンへ移籍しても保たれていた。
ケルン2シーズン目の15-16シーズン。ケルンの1トップにはフランス人ストライカーが起用され、大迫はサイドやトップ下などでプレーしている。トップ下ならまだしも、サイドでのプレーではまったく彼の強みが見られなかった。高い技術力があるから器用にこなすことはできても、便利屋として使われている印象が拭えなかった。2016年春に見た試合。サイドで出場し、相手を後ろから追いかけるような守備をする姿を目にし、移籍をしたほうがいいんじゃないかとすら思った。実際、ドイツメディアからも大迫の移籍報道が流れている。

「FWでプレーできないという葛藤はあった。でも、やっぱり、このままじゃ終われない。サイドで出るなら、いっそ試合に出ないほうがいいとも考えた。監督には何度も、『FWでやりたい』と話している。監督もわかってくれてはいたんだけど、『今は1トップでうまく行っている。でも(サコを)試合に使いたいから』と言われていた」
監督に対して自己主張するのは当然の権利
たとえ、どんなポジションでも試合出場機会は貴重だ。しかし、大迫は黙ってそれを受け入れているわけではなかった。日本でなら、指揮官の判断に異を唱えるのはご法度かもしれない。しかし、欧州では、監督に対して自己主張するのは選手にとって、当然の権利だ。何も言わなければ、「大迫はサイドでの起用に満足している」と思われるだけだ。

そのシーズンは25試合に出場したものの1ゴールで終わっている、確かに不本意なシーズンではあったが、監督と大迫とは強い信頼関係で結ばれた。
「絶対にいいことが来ると思い、我慢していた」とそのシーズンについて振り返り、大迫は語った。
「ただただ、このブンデスリーガで本当に活躍したい、結果を出したいということしか考えていなかった。ケルンでできなかったら、もう終わりだなって思っていた。だから自分を追いつめて、追いつめて、追い込んだ。同時にやれる自信もあったから。いい感じに流れを持っていけば、絶対に行ける」
“7ゴール6アシスト”を記録した2016-17シーズン
そして迎えた16-17シーズンは、大迫にとってもケルンにとっても非常に有意義なものとなった。2トップの一角に立つ大迫は、そのポジショニングと動き出しで、味方のパスを数多く引き出した。ディフェンダーの選手はボールを奪うと、すぐに大迫を探す。そしてパスを受けた大迫が前線で身体を張り、攻撃チャンスを演出する。
2016年10月、アウェイで王者バイエルン・ミュンヘンと引き分けた試合では、ドイツ代表のディフェンダーを背負いながら、前線でボールを保持するシーンは圧巻だった。
当時は代表招集されない時期だったが、「今はリーグに集中できているから楽しい」と話した。代表活動期間は、リーグ戦がないため、数日間のオフがあり、それを利用して家族旅行へ出かけて、リフレッシュできると笑った。
そのシーズン、大迫は7ゴール6アシストと活躍し、チームにヨーロッパリーグ出場権をもたらした。

ドイツへ来たらサッカーしかないから
大迫もまた鹿島時代は寡黙なストライカーだった。
自身の特性を理解し、活かしてくれる指揮官とチームメイトに恵まれた。だから、淡々と自身の仕事にまい進するだけで、十分だった。しかし、欧州ではそういうわけにはいかない。自身のプレーの良し悪しを判断し、どうすべきかを自分で決めていかねばならない。当然、鹿島でもその作業は同じだが、ドイツでは、アドバイスをしてくれる先輩もいなければ、励ましてくれるチームメイトも少ないだろう。欧州で戦う選手たちの多くは誰もが自分のことを一番に考えている。だからこそより孤独な戦いとなる。
「鹿島でもそうだったけど、僕はもともと時間がかかるタイプだから。最初は時間がかかる。でも、頑張るしかない。ここ(ドイツ)へ来たらサッカーしかないから。試合に出られないから移籍します、結果出ないから移籍しますじゃ話にならないから。やるしかない。ドイツでは日本みたいに助けてくれる人はいない。試合中も誰も助けてはくれない。だから、ひとりでがんばるしかない。でもそれが楽しさでもあるんですけどね」
ケルンの練習場で大迫の覚悟を聞いた。

海外移籍にも快く送り出す、「鹿島」という環境
欧州に出て変わる。
鹿島では、小笠原満男や中田浩二、内田など、数々の前例がある。だから、海外移籍のオファーがあり、選手が望めば、クラブは快く送り出す。
「せっかく育ってきたなと思ったら、出ていくからね」と鹿島の鈴木満強化部長はそう語りながらも、息子たちの成長に目を細め、「いつでも戻ってこいとオファーは出し続けているよ」と笑う。主力選手の移籍は、チームにとっては大きな打撃だ。しかし、また育てればいい。厳しさのなかで選手を育む。そんな鹿島の環境が、大迫や柴崎の土台を作った。
だから、彼らは欧州の地で戦い、苦闘を糧に成長を続けられる。
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柴崎岳と大迫勇也 “寡黙なふたり”はなぜチームの中心になれたのか

◆新時代へのプロローグ。プラチナ世代が紡ぐ日本代表の物語(GOAL)

日本代表の最大勢力は実は「プラチナ世代」である。この世代の選手たちが、先輩から学び、存在価値を示していくことが、ここまで続いてきた日本代表のさらなる前進につながる。ロシア・ワールドカップ。ここにきて緩やかではあるが見えてきた新たな物語とは?
■1992年生まれは今年で26歳
その称号に込められた期待を思えば、あまりに遅いと言えるだろう。
かつて比較された小野伸二、稲本潤一、高原直泰らの“黄金世代”が20代前半で日本代表の主力だったのに対し、彼らはすでに20代半ばなのだ。
だが、2010年の南アフリカ大会を戦った30代のベテランたちが今大会で経験に見合った活躍をする一方、彼ら――1992年生まれの“プラチナ世代”の一員である柴崎岳と昌子源の二人が際立つ存在感を放っているのは間違いない。
“プラチナ世代”がロシアの地でようやく日本代表の主軸として定着し始めた。
言うまでもなく、日本代表はあらゆる世代、年代の集合体である。西野朗監督が選んだワールドカップメンバー23人の中で、実は最大勢力なのが“プラチナ世代”だ。
この世代のトップランナーである宇佐美貴史を筆頭に、柴崎、昌子、武藤嘉紀、遠藤航、大島僚太の6人が名を連ねる。「多いよね、って話はしてます。僕らがもっと絡むのが理想ですけど、この世代がこれだけいるのはポジティブなことだと思います」と遠藤は言う。
西野監督が最も期待していたのは、間違いなく宇佐美だろう。
西野監督にとって宇佐美は17歳でトップデビューさせた、いわば教え子。5月の国内合宿初日にも「彼の魅力はフィニッシュ。シュート力があり、いろいろなバリエーションも持っているので、相手ゴールに近いところでのプレーを期待している」と話している。
だが、ここまで宇佐美はその期待に応えられていない。テストマッチのガーナ戦、スイス戦と先発出場したが不発に終わり、現状はスーパーサブの立ち位置だ。
■移り変わる。日本代表のメインキャスト
一方、宇佐美とは逆に、本大会直前で序列を覆したのが、柴崎と昌子だ。
柴崎がポジションを争っているのは、同世代の大島である。トラップとパスの技術がチーム随一で、ショートパスで局面を打開し、時にドリブルで運びもする大島に対して、柴崎のプレースタイルはもう少し攻撃的だ。ロングフィードやサイドチェンジを多用し、FIFAクラブワールドカップのレアル・マドリー戦や、ラ・リーガのバルセロナ戦に代表されるように、得点への意欲も高い。
それゆえ、事前キャンプではトップ下でも試されていたが、柴崎自身は「僕より適任がいるんじゃないかなと。もう少し低い位置から行きたいと思っている」と、あくまでもボランチでのプレーにこだわっていた。
ガーナ戦、スイス戦には大島が先発したが、スイス戦で大島が腰を痛めたことに加え、スタメンを入れ替えたパラグアイ戦で柴崎がチームに推進力をもたらす縦パスを連発。このパフォーマンスを見れば、コロンビア、セネガルと続けてスタメン出場したことにも納得がいく。
セネガル戦で長友佑都に通した糸を引くようなロングパスは、まさに彼の真骨頂。中盤のオーガナイザーと呼ぶにふさわしく、日本代表に新たな司令塔が誕生した瞬間だった。
昌子もパラグアイ戦での好パフォーマンスによってコロンビア戦での先発起用をたぐり寄せた。エムバイェ・ニアンを封じ込めたセネガル戦でのプレーは圧巻の一言。2試合通じて“陰のMVP”とも言うべき働きで世界的な注目を集めている。

2試合を終えた時点で、大島、遠藤、武藤の3人は出場機会を得られていないが、酷暑のヴォルゴグラードで行われるポーランド戦ではメンバーの入れ替えも予想される。とりわけ武藤は、5月の国内合宿に参加した当時からコンディションの良さが際立っていた。大会を勝ち抜いていくには、ラッキーボーイの存在が不可欠であり、ポーランド戦でゴールを奪えれば、決勝トーナメント以降、スタメンの座を射止めてもおかしくない。もちろん同じことは宇佐美にも言える。
日本代表とは、メインキャストが移り変わる壮大な大河ロマンである。
初出場となった98年フランス大会から02年日韓大会、06年ドイツ大会の3大会は中田英寿と黄金世代をめぐる物語だった。
10年南アフリカ大会から14年ブラジル大会、18年ロシア大会の3大会は本田圭佑とその仲間たちの物語である。
その物語の最終章で、遅ればせながらプラチナ世代が台頭してきたという事実――。それは、新たな物語のプロローグなのかもしれない。
文=飯尾篤史

◆W杯で躍動する昌子源、“あのレジェンド”からメッセージ受け取る(サッカーキング)

2018 FIFAワールドカップ ロシア・グループステージのポーランド戦を前に、昌子源が日本を代表する“先輩”から連絡をもらったことを明かした。
国内組で唯一、コロンビア戦とセネガル戦に先発フル出場を果たし、勝ち点4獲得に貢献した。その活躍に、Jリーグを代表する選手たちも手放しで喜んだと語る。
「ヤットさん(遠藤保仁)からラインきたんですよ。『ナイス。次も頑張れよ』って。コロンビア戦の後ですね。今ここにいてもおかしくない日本のレジェンドが、個人的に連絡をくれたのがすごく嬉しかった。Jリーグ組とか関係なく、みんなの気持ちも背負って戦っていきたいと思います」
「W杯始まる前には、森重(真人)くんからも連絡をもらいました。内容は言えないですけれど、それもすごく嬉しかったですね。そういう風に応援してくれる人たちの分も、自分がやらなくちゃって感じですね」
W杯で躍動する昌子源、“あのレジェンド”からメッセージ受け取る
◆敗退国の意地を警戒する昌子「2戦目までのポーランドより強い」(ゲキサカ)

W杯は国を背負って戦う大会であり、他の大会とはやはりひと味違う。日本代表DF昌子源(鹿島)の目には、グループリーグ2試合を終えて未勝利だった韓国が前回王者のドイツに2-0で勝ち、モロッコが前々回王者のスペインと2-2で引き分けた第3戦の印象が、深く刻まれたようだ。
「これが国を背負った戦いなのかな。国を背負うという気持ちはポーランドも絶対に持っていると思うし、僕らが逆だったら絶対にそうだし」。ここまでとつとつと語ると、「2戦目までのポーランドより、僕らとやる最終戦のポーランドのほうが強いと思う」と強調した。
ポーランドには世界トップクラスのストライカーであるFWロベルト・レワンドフスキがいるが、明日の戦いに関しては個の力以上にチームが一丸となって臨んでくる状況に警戒心を募らせる。
「レワンドフスキ選手に限らず、ポーランドは未勝利では帰れないと思う。FIFAランク10位以内のプライドがあるだろうし、明日は勝ちに来ると思う」
日本として大事になってくるのは、ここで受け身にならないことだ。そのために必要なマインドは「引き分け狙いではなく、勝ちに行く姿勢」であると意気込む。
試合前日の公式練習ではスタジアム内の気温や湿度、芝の状態、問題になっている「虫」の飛散状況などを入念にチェックした。暑さに関しては「思った以上に涼しかった」と言い、虫に関しても「もっとおるのかなと思っていたし」と笑い、問題はない様子だ。
一方で気をつけたいのは芝の状況。「縦にラインが入っていたし、ここ2試合よりはボールが転がりにくそう。難しそうな印象」と言う。もっともそれは相手にとっても同条件であり、より冷静に試合をコントロールできたほうが勝利に近づくことに変わりはない。
「明日はチャレンジャー精神で」。世界に新鮮な驚きを与えている日本の先発陣で唯一のJリーガーが、日本を決勝トーナメントへ導く。
(取材・文 矢内由美子)
敗退国の意地を警戒する昌子「2戦目までのポーランドより強い」

◆W杯で評価急上昇の柴崎岳、複数クラブが関心…ヘタフェは交渉に応じる構え(サッカーキング)

2018 FIFAワールドカップ ロシアで大健闘している日本代表の中盤を支えるMF柴崎岳だが、所属するヘタフェでの去就にも動きが出始めているという。
テネリフェを昇格プレーオフに導いたリーガ・エスパニョーラ2部での半年間のプレーを経て、昨年夏に1部のヘタフェに移籍した柴崎。瞬く間にトップ下のレギュラーの座を掴み取ると、開幕4戦目ではバルセロナを相手にスーパーボレーを決めた。ところが、離れ業をやってのけたこの試合で左足中足骨を骨折し、長期離脱を余儀なくされると状況が一変。約3カ月後に復帰したものの、自身が不在の間にトップ下を置かないシステムへと変更したチームで完全に定位置を失った。
ヘタフェで出場機会が激減したことにより、W杯メンバー入りに黄信号が灯ったかにも見えた柴崎だが、大会直前にヴァイッド・ハリルホジッチ監督から西野朗監督へと指揮官交代が行われる中で代表招集を果たした。そしてレギュラーに抜てきされると、コロンビア代表を2-1で破った第1戦でも、セネガル代表と2-2のドローを演じた第2戦でも、チームの頭脳として攻守両面でチームをけん引。クラブでの不遇により急降下した評価は、代表での活躍により急上昇している。
スペイン紙『マルカ』によると、リーガ・エスパニョーラの複数のクラブが、W杯で創造的なプレーを披露している柴崎に関心を寄せており、ヘタフェも交渉に応じる構えだという。復調した柴崎はヘタフェにとって、戦力として期待するもよし、売却して移籍金を手にするもよしという、重要な存在になりつつあるようだ。
この夏、日本代表ではMF乾貴士がエイバルからベティスへと移籍を果たしたが、柴崎にもスペインでのステップアップが待っているのだろうか? 残留するにしても移籍するにしても、ロシアの地で活躍すればするほど良い選択肢が増えるだけに、まずは28日のポーランド代表戦で日本を決勝トーナメントに導くプレーに期待したい。
文=北村敦
W杯で評価急上昇の柴崎岳、複数クラブが関心…ヘタフェは交渉に応じる構え

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