日刊鹿島アントラーズニュース

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2021年1月31日日曜日

◆鹿島一筋だからこそ 沖と曽ケ端氏の特別な師弟関係(ニッカン)






鹿島アントラーズGK沖悠哉(21)が、今季からアシスタントGKコーチに就任した曽ケ端準氏(41)との“師弟関係”を明かした。チームメートから「選手とコーチ」の関係になり、以前に増して「自分が思ったこと、疑問に思っていることを素直に聞けている」と感じているという。

昨季までは1つしかない定位置を争うライバルでもあった。沖は昨夏から定位置をつかみ、21試合に出場。東京五輪候補合宿にも参加するまでに成長した。去年までも曽ケ端氏から「聞きたいことがあったら、ウエルカム」と言われていたが、沖は「互いに選手である以上、ソガさん(曽ケ端氏)にもプライドもあるし。自分もある程度(プライドを)持っていた」。聞きたいことを聞けず、自分で考えたり悩む日々を送ったこともあった。プロの世界ならではの複雑な人間関係の中で必死にもがいたのだろう。

今季からは鹿島ユースを経て鹿島一筋23年の先輩がコーチになった。沖も小学生時代から鹿島の下部組織で育った生え抜きだ。偉大な先輩に自主トレーニング期間の過ごし方、技術面など、私生活やプレー面で気になることをすべて、素直に聞けるようになった。曽ケ端氏も「コーチ目線」でアドバイスを送り、沖は「ソガさんの考えを聞いたりするのはなかなかできないこと。今の関係を大事にしていけたら」と現在の環境への感謝を口にする。

鹿島は今季、ユースの監督に柳沢敦氏が就任し、小笠原満男氏が引き続きテクニカルアドバイザーとしてユースを中心に指導を行う。トップでも曽ケ端氏がコーチに就任し「チームを勝たせられる選手を育てたい」と意欲を持つ。勝負にこだわり20冠を獲得した常勝鹿島のDNAが、OBから次世代を担う若手へ受け継がれる土台はできつつある。曽ケ端氏の経験、指導を受け継いだ沖がどう飛躍を遂げるか。サポーターも楽しみに違いない。【岩田千代巳】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)




◆鹿島一筋だからこそ 沖と曽ケ端氏の特別な師弟関係(ニッカン)





◆“J最強助っ人”マルキーニョス、15年を捧げた日本への思い 「決して忘れることはない」(FOOTBALLZONE)









【あのブラジル人元Jリーガーは今?】マルキーニョス(元横浜FM、鹿島ほか):前編――3連覇初年度の浦和戦が最も記憶に残る試合


 日本で計15年間プレーしたブラジル人FWマルキーニョスは、パワーとスピードがあり、技術的なクオリティーも高く、どんな距離、どんな角度からでも、ゴールを決めて数々のタイトルに貢献した。J1通算152ゴールは、Jリーグ外国籍選手の最多得点記録となっており、特に4シーズン所属した鹿島アントラーズでは2007年からのJ1リーグ3連覇の原動力の1人となり、08年にはリーグMVPと得点王のダブル受賞を果たしている。

「あの3連覇から10年以上になるけど、忘れるわけはない。みんなで一つになって戦った日々は、今でも素晴らしい記憶として、心に刻まれている」

 鹿島では、清水エスパルスから加入した07年当初から適応し、リーダーの1人として戦った。

「3連覇の1年目、チームは序盤に苦しんで、開幕5試合で(3分2敗と)勝つことができなかったんだよね。覚えているのは、その時期、サポーターがチームと話をしたくて、僕らの乗っているチームバスにまで、乗り込もうとしたことがあったんだ。もちろん、あの時は動揺したよ。それで、オズワルド・オリヴェイラ監督がミーティングを開いて、僕ら選手を落ち着かせようとしたんだ。『冷静になろう、集中し続けよう。我々はこれから勝ち始める』とね。その時からだ。チームの結束が強まり、歯車が噛み合い始めて、結果に結びつくようになった」

 その07年、最終節直前の第33節・浦和レッズ戦は、Jリーグ時代で最も記憶に残る試合だという。

「首位だった浦和との直接対決で、その試合を含めて、僕らは最後の2試合に勝たなければならなかった。浦和の最終節は横浜FC、僕らは清水エスパルス戦。対戦相手の当時の状況から、浦和のタイトルの可能性が高いと思われていたんだ。それでも僕らはまず、目の前の試合に勝つ、それだけを考えていた。アウェーだったから、スタジアムには5~6万人の浦和サポーターがいてね。試合前、オズワルドも『あのサポーターの声援が、我々を脅かしてくるぞ』と、僕らに気持ちの面で準備をさせた。それで、1-0で勝つことができたんだ」


日本ではオリヴェイラ監督、岡田武史監督、オシム監督ら名将の下でプレー


 続く08年、鹿島はシーズンを通して安定した戦いを維持し、マルキーニョス自身もJ1得点王&MVPという個人タイトルを獲得した。

「あの年は自分たちがやっていることに最初から自信を持って、全力で取り組めた。僕の個人賞も、チーム全体が落ち着いて戦えたことによるもの。選手や監督、技術スタッフやクラブスタッフのみんなで生み出した安定感だ。みんなが個々に努力し、同時に協力し合う。そういうつながりのなかで、結果は出るべくして出た。僕も、アシストもすれば、守備もサポートした。プロとしての友情の輪ができて、鹿島のように家族同然になった時、僕らは誰もが、みんなで成長したいと望むようになるものなんだ」

 3連覇最終イヤーの09年は、17試合無敗(12勝5分)の記録を打ち立てるなどトップを独走したが、その後、まさかの5連敗も経験した。

「シーズン終盤(第24~28節)に負け始めたんだけど、それは他のチームが僕らをよく研究するようになったから。でも、鹿島がそういう存在になった、という証拠だから、それも素晴らしいこと。しかも、それでも僕らは3度目のタイトルを獲得したんだからね」

 マルキーニョスは鹿島のオリヴェイラ監督はもちろん、数々の名将の下でプレーしてきた。03年の横浜F・マリノス時代は、岡田武史氏(現FC今治会長)が指揮を執っていた。

「オカダサンは、すごく尊敬する監督なんだ。能力がとても高く、人としても、心の広い素晴らしい人。僕は彼の下で成長したし、彼と一緒に進歩した。彼とともに優勝した。あの2003年のJ1優勝は、僕にとっての初タイトルだったから、僕の人生にも、僕の心にも刻まれる監督になったんだ」

 翌04年のジェフユナイテッド千葉では、イビチャ・オシム氏の下でプレーした。

「彼は厳格で、怒りっぽく見えるけど、愛情の深い人。すごく対話をする監督でもある。試合が終わった時、すぐにそこで起こったミスについて話し、翌日には、もう一度その確認をしながら練習させるんだ。『君はこういうミスをしたけど、こんなふうに修正することができる』とね。彼から多くを学んだよ」

 当時、マルキーニョスが練習に遅刻したことがあった。しかも、オシム氏がその罰としてランニングを命じたにもかかわらず、彼は走らずに帰ってしまった。監督の怒りを買うのではと、周囲はハラハラしたものの、当のオシム氏が「大丈夫。次の試合でも、彼は良いプレーをするはずだから」と許したことで、さらに話題となった。

「ははは。お互いに信頼し合っていたんだ。彼は多少神経質なところがあったけど、僕に走れと言ったのは怒ったからではなく、時間を守るということを教育するため。でも、僕は問題を起こすような人間ではなかったし、遅刻もあの時だけ。だから、ちゃんと彼に謝って、彼も受け入れてくれて、すべて上手くいった(笑)」





「ここに僕という日本サッカーのサポーターがいることを、覚えていてほしい」


 最後に、マルキーニョスはサポーターへのメッセージも語ってくれた。

「みんなのことがすごく恋しいよ。僕の名前を呼び、歌ってくれたあの声が、今も心に響いている。たくさんの思い出の瞬間を作ってくれた。例えば、鹿島で一番心に刻まれているのは、僕が入団した時だ。サポーターが僕を呼んで、僕のために作った歌を聞かせてくれたんだ。そんなことは初めての経験だった。

『マルキ~ニョス、マルキ~ニョス、オオオオッオー』

 あんなふうに、これからもずっと、チームと選手たちを支え続けてほしい。上手くいかない時があっても、決してあきらめないように。鹿島は強いんだから。いつでもポジティブさと忍耐を持っていて欲しい。

 他のクラブでも、歌を作ってくれたんだよ。清水では『ヴァモ、ヴァモ、ヴァーモス、ヴァーモス』だった。

 そういうすべてを、これからも決して忘れることはないし、日本中のサポーターに感謝するばかりだ。できるだけ早く、みんなと再会できることを願っているし、そのために日本へ行く計画を立てているんだよ。だから、ここに僕という日本サッカーのサポーターがいることを、覚えていてほしい。アリガトウゴザイマス!」




◆“J最強助っ人”マルキーニョス、15年を捧げた日本への思い 「決して忘れることはない」(FOOTBALLZONE)





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