日刊鹿島アントラーズニュース

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2020年4月22日水曜日

◆『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:いつかの僕を探して(名良橋晃)(ゲキサカ)



名良橋晃 Akira.Narahashi


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 きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、グラウンドの片隅で前だけを向いて走っている、名前も知らない誰かを。きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、この一歩の先へ世界が待っていると信じてボールを追い掛けている、名前も知らない誰かを。「『どこで誰が見ているかわからない』ことに気付いてほしいなと。僕は全国の舞台に立てない選手でしたけど、『練習や試合を見て、僕みたいな選手を情報として発信すればいろいろな人が注目してくれるかな』という想いは強いですね」。名良橋晃。48歳。世界を知る男は秘めたる野望と共に、またサッカーのある所へと足を運んでいく。

 のちにワールドカップのピッチに初めて立った日本代表の選手となる少年は、ある漫画をきっかけにサッカーの道へと足を踏み入れる。「“キャプテン翼”の翼くんが好きだったんです。ただ、『僕はあんなふうになれないな』というのが自分の中でちょっと見え始めてきて。歩道橋の階段をリフティングなんて無理ですし(笑) だから、サッカー選手のポスターを貼りまくって翼くんの部屋だけマネしたんですけど、結局『勉強に集中できないんじゃない?』って母親に怒られて。でも、そこだけはブレずにやり通しましたけどね」。

 とにかく足が速く、運動神経抜群。最初は野球と“兼任”していたが、小学校4年生からサッカーに絞ると、すぐに千葉市の選抜にピックアップされる。キャプテン翼を見て憧れていた、よみうりランドでの全国大会には出場できなかったものの、着実に力を伸ばしていった名良橋少年は中学でも当然のようにサッカー部へ。今度はとうとう千葉県の選抜に招集される。だが、ここで1つの問題が発生した。行きたくなかったのだ。

「人見知りするタイプだったので、そこの“入口”に入ることが苦手だったんです。だから、申し訳ないですけど、選抜とかは『極力行きたくないです』と。その時もイヤイヤ行った感じでした」。遠征に行ったら行ったで、枕投げをして楽しむくらいの社交性は持っていたが、とにかく“入口”が苦手だったという。これは名良橋にとって小さくない障壁として、その後もつきまとうこととなる。

 時代はJリーグ前夜。高校選手権が今以上に隆盛を誇っていた。中学3年になった名良橋が志望していたのは、当時からその名を知られていた本田裕一郎監督(現・国士舘高総監督)率いる習志野高。参加した練習会での手応えもあり、何より眩しく見えたのは“制服”だった。「習志野は学ランなんですよ。しかもボタンが金じゃなくて黒で、それにもちょっと憧れがあったんです」。ところが、まさにちょっとしたボタンの掛け違いが、15歳の運命を変えていく。

「中学校のサッカー部の先生が、千葉英和高校のサッカー部の監督の先輩だったんです。それもあって、僕の中学校から毎年1人は千葉英和へ行くような流れになっていたんですけど、その流れに乗ってしまって、“ドラフト1位”みたいな形で行くことになりました」。過去には日本一を勝ち獲っている名門から、全国出場の経験もない新鋭校へ。この針路転換こそがのちの日本代表選手を形作っていくのだから、人生はわからない。

 高校に入学し、サッカー部の門を叩くと、すぐに気付いたことがあった。部員数が想像より少なかったのだ。「『もしかしたらこれは1年生から出られるかも』という期待が自分の中では高くなって、逆にモチベーションが上がったんです」。案の定、夏からはレギュラーに抜擢されて選手権予選にも出場する。加えて同級生にも実力者が揃っていた。

「小学校の千葉県選抜に入っていたヤツから連絡があって、『オマエが英和に行くなら、オレも行くよ』と。そういう友達も入ってきましたし、僕たちの年代は上手いヤツらが揃っていましたね。だから、『これは楽しくできるのかな』『勝てそうなチームになるのかな』と」。3年生が引退すると、名良橋の学年がチームの中心になっていく。そして、全国もおぼろげながら視界に捉え始めていた2年生の総体予選。千葉の“青い巨人”が彼らの前に厚く立ちふさがる。市立船橋高だ。

「いきなり野口(幸司・元日本代表)さんにキックオフシュートを打たれて、それがクロスバーに当たったんですよ。もう『翼くんかよ!』と思って(笑) そこで完全にメンタル的にへこんでしまって、何もできずに試合が終わった記憶があります。0-4で負けたんですけど、木端微塵にやられましたね。もうなすすべがなかったので。チームとしても、個人としても」。結果的に市立船橋はそのまま夏の全国連覇を達成。選手権でも準優勝に輝くなど、スーパーチームであったことは間違いないが、まざまざと見せつけられた実力差に、改めて千葉を勝ち抜く壁の高さを突き付けられた。

 リターンマッチの機会は、いよいよ最上級生になった冬の新人戦。千葉英和は快進撃を続け、あれよあれよという間に決勝へ進出してしまう。相手は市立船橋。数週間前に国立競技場で日本一を懸けて戦っていたチームと、再び対峙する。その一戦。名良橋に張り付いていたマーカーこそが、現在『Foot!THURSDAY』で彼と共演している1学年下の“ワッキー”こと脇田寧人だった。

 試合は0-3の完敗。またしても悔しさを募らせたものの、“マーカー”の印象はそれほど残っていない。「僕はワッキーがマークに付いていたのをあまり覚えてなくて。ゼロで抑えられたので、そこそこ抑えられたんだろうなと(笑) あの時はヒデ(中川秀樹・ペナルティ)もそうですけど、選手権に出ているメンバーがいたので、そっちに負けたくない気持ちが僕の中で強かったんですよね」。残念ながら名良橋の記憶はおぼろげのようだが、2人が既に10代の頃に“共演”していた事実も非常に興味深い。

 3年生の総体予選。千葉英和は順当に勝ち上がり、今では福島の尚志高で監督を務める仲村浩二が絶対的な中心選手だった習志野と、準々決勝で激突する。名良橋にとっては因縁の相手。気合がみなぎっていたのは言うまでもない。試合は激闘。追いつ追われつの展開の中、2-2でPK戦へともつれ込む。「僕が外して負けました。それからPKはトラウマで…」。エースが失敗した千葉英和は惜しくも敗退。千葉県に2つ用意されていた全国出場の権利は露と消える。

 3年生の選手権予選。千葉英和は真夏にスタートした1次トーナメントを潜り抜け、11月の決勝トーナメントへ駒を進める。苦楽を共にした仲間と臨む高校最後の大会。「インターハイ予選でも習志野といいゲームをしたので、全国に行ける手応えは少なからずあったと思います」。名良橋もチームメイトも頂点だけを目指した挑戦は、しかし呆気なくベスト8で終焉を迎えた。

「市原緑に負けました。それに勝てば準決勝からは“全校応援”だったんですよ。やっぱり選手権といえば“全校応援”じゃないですか。みんな来るということで、そっちに少し頭が行ってしまって、目の前の相手に少し気持ちが行かなかったのか、先に4点取られて、3点返したけど、結局追い付けずに負けてしまって…」。その次の準決勝では習志野が、決勝では市立船橋が待っているはずだった。みんな涙が止まらない。名良橋も秋津のグラウンドで、いつまでもいつまでも悔しさと寂しさを噛み締めていた。

 それから数週間後。サッカーキャリアの転機は意外な所でやってきた。実は選手権敗退の少し前。名良橋にはユース代表合宿参加の通知が届いていた。「サッカー部の監督に職員室へ呼ばれて、『オレ何かしたかな…』と思ったら、ニコニコしながらそれを知らされて。千葉英和のそれまでにはなかったことだと思うので、学校中がザワついてましたね(笑)」。とはいえ、ここでまたあの“問題”が発生する。

「やっぱりイヤイヤですけど、『行くしかないか』という感じで(笑)グラウンドが家からバスで行ける距離だったので、最寄りのバス停で下りてからもちょっと『どうしようかな』とジタバタしていたら、練習を見に来ていた女の人に声を掛けられて、『ユース代表の方ですか?宿舎はあっちですよ』って言われて(笑) 僕はわかっていたんですけど『あ、わかりました』って。その人に言われてしまったので、『もうこれは行くしかないな』って開き直って、ようやく行った感じですね」。

 藤田俊哉。田坂和昭。名波浩。大岩剛。錚々たるメンバーが居並ぶ中、同学年に知り合いは1人もいなかった。「最初に『千葉英和から来た名良橋です』って自己紹介するのが、もう恥ずかしかったですね。みんな『どこの高校?』って感じで。でも、その時に木山隆之(現ベガルタ仙台監督)も来ていて、彼が通っていた伊丹西高もそんなに全国区じゃなかったので、最初に友達になったのは木山でした(笑)」。3泊4日の代表合宿。1日目は本来のフォワードでプレーしたものの、2日目に与えられたのは意外なポジションだった。

「いきなり左サイドのウイングバックにコンバートされて。未知のポジションですし、守備もやらなきゃいけなくて、本当に自分のプレーで精一杯でしたね。でも、そこそこ左足も蹴れましたし、今でいうカットインしながら右足のクロスも入れていたので、攻撃は結構楽しかったことを覚えています。守備での1対1も負けなかったですし、もちろん葛藤はあったんですけど、自分の中で『オレはウイングバックで成功しなきゃいけないんだな』と完全に割り切ってやりましたね。そこで『このチームで生き残りたい』という気持ちが出てきたんです」。サイドプレイヤー、名良橋晃の誕生である。

“コンバート”がサッカーキャリアの大きな分岐点となった彼だからこそ、高校年代の選手たちに伝えたいことがある。「僕はスピードがあったので、後ろから走ればそのまま相手を振り切れる面白さも感じましたし、『新しい自分を見つけ出せたな』という感覚がありました。他の人から言われて違う自分の良さに気付くことも絶対あるので、自分次第で“コンバート”もプラスに捉えられるんじゃないかなとは思います」。ワールドカップまで届いた男だからこそ、その言葉は説得力を帯びる。

 千葉英和での3年間は、今でも名良橋の心の中の大事な位置を占めているようだ。「『出会いは大事なんだな』と実感できたのは、自分の中で本当に財産です。よくあのメンバーが集まったなと思いますね。キャラも濃かったですし、高校3年間を共にしたサッカー部員との絆が、僕の中では凄く財産になっていて、もうみんな子供が大きくなってきていて、集まるペースは減っていますけど、お酒も入ると試合のこととか遠征とか、結局いつも同じ話になっちゃいますよね(笑)」。最高の仲間と過ごした日々を想えば想うほど、あの時の“針路”は間違っていなかったと、今なら胸を張って言うことができる。

 1998年。フランス。日本代表が初めて世界と対峙したワールドカップから、22年の月日が流れた。初戦のアルゼンチン戦。名良橋が「試合前の握手の時。1人だけ力を入れてギュッと握ってきたんですよ。『コイツ、イテーな』と思って」と振り返るディエゴ・シメオネ(現アトレティコ・マドリー監督)とマッチアップしていたことを、今の若者たちはほとんど知らない。インタビューする高校生との「名良橋っていうんですけど、僕のこと知ってますか?」「いや、知りません…」というやりとりは、『Foot!THURSDAY』の“定番”になりつつある。

 グループステージ3試合のすべてにスタメン出場した名良橋は、最終戦のジャマイカ戦でワールドカップにおける日本代表の“初ポスト”を記録している。0-2とリードを許していた後半11分。名波のパスを受け、右足のインサイドで叩いたシュートは、左のポストに当たって枠を外れた。「ぶっちゃけですけど、アレは正直入ってほしかったです(笑) 自分の中ではジャストだと思ったので。でも、あのシュートが入らないのが僕なのかなって」。

 この“初ポスト”は、2つの記録が達成できなかったことを意味している。1つはワールドカップにおける日本代表の初ゴール。もう1つは、日本代表戦における名良橋自身の初ゴールである。国際Aマッチは38試合に出場して、0得点。2003年のラストマッチまで、日の丸を背負った試合でゴールネットを揺らすことは叶わなかった。

 もう1つ。「持っていなかった」エピソードとして、“ジョホールバルの真実”も挙げる。1997年11月16日。ワールドカップ初出場の懸かったアジア地区第3代表決定戦。岡野雅行の劇的なVゴールで、世界の扉をこじ開けた伝説的な試合にも、名良橋はフル出場を果たしている。だが、殊勲の岡野を中心にできた歓喜の輪を切り取った写真の中に、名良橋の姿はまったくと言っていいほど見当たらない。

「ベンチサイドにオカちゃんが走って行ったから、みんなそっちに行くじゃないですか。でも、右サイドは逆側だったんですよ(笑) ゴールの瞬間は本当にヘロヘロというか、精魂尽き果ててしまって、そこまで行く気力もなかったので、そこの輪の写真の中に僕は1枚もいないんです。今振り返れば『行けばよかったな』と思うんですけど、本当に死力を尽くしたゲームだったので。延長の前半にオカちゃんが決めてくれていれば、輪の中心にいたのは相馬直樹じゃなくて名良橋晃だったのに(笑)」

 続けた言葉がさらなる笑いを誘う。「本当にもう僕はいろいろな意味で“持っていない”んですよね。『そういう星の下に生まれてきたのかな』って自分の中で思っていますから」。日本サッカー史に残るあれだけの偉業に立ち会ってきた名選手にもかかわらず、こうやって自分を面白おかしく語れる所も、名良橋の大きな魅力だと個人的にはひそかに思っている。

『Foot!THURSDAY』は育成年代のサッカーを扱っている番組であり、名良橋はそこでMCを任されている。また、昨年はクラブユース選手権と全国総体で共に決勝の解説を務めるなど、とりわけ高校年代に関わる解説者としても、活躍の場を広げている。「僕はサッカーを見るのが現役時代から好きだったので、引退してから『解説とかやってみたいな』とは思っていたんです」という彼は、常に真摯に目の前のサッカーへ向き合っている印象を受ける。

 一昨年の年末。名良橋は波崎(茨城県)で行われる横山杯の決勝を解説することになっていた。その決勝前日。大会を取材していたメディアの友人からLINEが届く。「名良橋さん、一人で試合を見に来られてましたよ」。12月の波崎は極寒だ。日陰に入れば、立っているだけで足元から凍り付いていくような感覚すら覚える。決勝リーグ最終節は決勝と同じ日に行われるため、当日だけ取材すれば解説に必要な情報は事足りたはずだ。それでも名良橋は、2日続けて波崎まで車を走らせた。

 ある時は「見に行くと約束したから」という理由で、平日の夜に清水エスパルスユースの練習へ顔を出し、当時の平岡宏章監督を驚かせたこともあった。ある時は「記事を見て面白そうだと思ったから」という理由で、埼玉県の新人戦支部予選へ足を運んだこともあった。またある時は、「どっちも見たかったから」という理由で、駒沢とよみうりランドを“ハシゴ”したこともあった。フットワークの軽さはもちろん、その取材対象にも大会の大小、選手の有名無名に左右されない“軸”があるように見える。そこにはかつての自身と、彼らを重ね合わせる心情があった。

「『どこで誰が見ているかわからない』ことに気付いてほしいなと。僕は全国の舞台に立てない選手でしたけど、『練習や試合を見て、僕みたいな選手を情報として発信すればいろいろな人が注目してくれるかな』という想いは強いですね。やっぱりもっとこの年代を見てもらいたいのが正直な想いで、単純に僕がサッカーを好きだということと、いろいろな試合を見に行けば、あの頃の僕みたいな選手もいるかもしれないという所で、僕なりに行かせていただいてはいますけど」。

 溢れる言葉は止まらない。「だから、『この高校、どこ?』というようなチームに目が行きますね。そういう所でも良い選手は絶対いますし、そういう選手をどう伸ばしていくか、どう全国に広めていくか、どう輩出していくか、というのは日本サッカー全体でやっていかないといけないのかなと、凄くそこは思います。僕みたいに“強いチームに行けなかったけど良い選手”は絶対にいるので、たとえば横山杯とかイギョラ杯とか、そういう大会にもどんどん皆さんに足を運んでほしいなっていう想いはありますね」。

 高校生の今を伝えてきたからこそ、かねてから抱いてきた夢への想いがより強くなったという。今まで以上に口調へ熱が籠もる。「最終的な所は育成の現場に立ちたいなと。じゃあどこの育成なのという最終的なゴールがまだ見えていないですし、まだぼやけている所ですけど、メディアとして育成年代を追い掛けていく中で、どれだけ指導する側が情熱を持って、真摯に向き合えるかが本当に大事だなとよくわかってきたので、コーチでも監督でも1回はやってみたいという想いは、自分の中でより一層強くなってきていますね」。

 あの日に届かなかった全国大会を、あの日に届かなかった世界のゴールを、託せる誰かは現れるだろうか。キャプテン翼に憧れ、ワールドカップのピッチにまで立った男は、それが仮に取材者としてでも、それが仮に指導者としてでも、サッカーというスポーツの持つ可能性を信じ、その誰かと出会える日を楽しみに待ち侘びている。

 きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、グラウンドの片隅で前だけを向いて走っている、名前も知らない誰かを。きっとこれからも探し続けていく。いつかの僕のように、この一歩の先へ世界が待っていると信じてボールを追い掛けている、名前も知らない誰かを。名良橋晃。48歳。世界を知る男は秘めたる野望と共に、またサッカーのある所へと足を運んでいく。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」




◆『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:いつかの僕を探して(名良橋晃)(ゲキサカ)





◆ホームグロウン選手の人数が判明…最多C大阪16人、次点広島は半数超え15人(ゲキサカ)






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 Jリーグは21日、J1クラブのホームグロウン選手の人数を発表した。初回登録ウインドー最終日にあたる3月27日時点で2人以上保有することが義務付けられているが、今季は初めて全クラブが基準を満たした。

 ホームグロウン選手制は2019年に始まった生え抜き、アカデミー出身選手の優遇制度。12歳の誕生日から21歳の誕生日を迎える年度までの期間において、トップチームやアカデミーに990日間以上登録されていた選手が各クラブの「ホームグロウン選手」とされ、一定数の保有が義務付けられている。

 2019〜20年はJ1クラブが各2人で、J2・J3クラブは対象外。21年はJ1クラブが3人となり、22年からはJ2・J3クラブでもスタートする。22年はJ1クラブが4人、J2・J3クラブが1人。基準を守らなかった場合、翌シーズンのプロA契約選手枠が人数分だけ減らされるペナルティもある。昨季は松本山雅FCが不遵守だった。

 なお、最もホームグロウン選手が多いのはセレッソ大阪。U-23チームを保有するため通常より多い登録人数46人のうち16人が該当する。次点は15人のサンフレッチェ広島。登録人数は29人のため半数以上となった。最も少ないのは4人の大分トリニータ。全クラブの合計は昨季が合計159人だったが、今季は1人増えて160人となった。

J1クラブのホームグロウン選手の人数は以下のとおり

札幌 9人
仙台 6人
鹿島 11人
浦和 5人
柏 12人
FC東京 14人
川崎F 7人
横浜FM 6人
横浜FC 6人
湘南 5人
清水 12人
名古屋 5人
G大阪 12人
C大阪 16人
神戸 8人
広島 15人
鳥栖 7人
大分 4人


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◆ホームグロウン選手の人数が判明…最多C大阪16人、次点広島は半数超え15人(ゲキサカ)





◆鹿島アントラーズ、歴代最強外国籍選手5人。神様ジーコに続く、常勝軍団を作り上げたブラジル人たち(フットボールチャンネル)






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1993年に開幕したJリーグは、今年で28年目を迎えた。その間、世界的なスター選手や素晴らしい素質を持った外国籍選手たちが活躍している。今回、フットボールチャンネルでは、鹿島アントラーズで活躍した外国籍選手を5人紹介する。




優勝請負人





ビスマルク(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月17日
在籍期間:1997年~2001年
J1通算成績:137試合出場/33得点


 ヴェルディ川崎では1993年のリーグ初年度から連覇に導き、2年連続のベストイレブンに選出。3年半で5つのタイトルをクラブにもたらしたビスマルクは、97年に鹿島にやってきた。

 ジーコがつけていた10番を受け継いだビスマルクは、1年目から自身3度目のベストイレブンに輝き、チームは2冠を獲得した。98年のジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では先制ゴールをアシストすると、直接FKを決めてリードを2点に広げた。これを守った鹿島は2年ぶり2度目の年間王者に輝いている。

 敬虔なクリスチャンであるビスマルクが行うゴールセレブレーションは、当時の子どもたちの間で大流行。右足から繰り出される正確無比なキックで幾度となくチームを勝利に導いた。2000年にはJリーグ初の国内3冠を達成。5年間で7つのタイトル獲得に貢献したビスマルクは優勝請負人と呼ばれた。

●1998年の基本先発メンバー

▽GK
28高桑大二朗

▽DF
22名良橋晃
3秋田豊
5内藤就行
7相馬直樹

▽MF
8マジーニョ
4奥野僚右
6本田泰人
10ビスマルク

▽FW
13柳沢敦
11長谷川祥之




友達なら当たり前





アルシンド(ブラジル代表)
生年月日:1967年10月21日
在籍期間:1993年~94年
Jリーグ通算成績:71試合出場/50得点


 フラメンゴでチームメイトだったジーコに乞われる形で、Jリーグ開幕を控える1993年に鹿島にやってきた。

 スピードとパワーを兼ね備えたストライカーはゴールを量産し、サントリー(第1)シリーズ優勝の原動力となった。頭のトップが薄く、襟足を肩まで伸ばした独特のヘアースタイルも注目を集め、当時のテレビコマーシャルに出演してお茶の間の人気者となった。

 93年は22得点、94年は28得点を挙げたが、2年で鹿島を退団。その後はヴェルディ川崎でもプレーしている。2012年には息子のイゴールが鹿島に加入し、親子2代での鹿島所属が実現したが、2試合の出場に終わった息子は1年で退団した。

●1993年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
秋田豊
杉山誠
大野俊三
賀谷英司

▽MF
本田泰人
サントス
ジーコ
黒崎比差支

▽FW
アルシンド
長谷川祥之




最強ストライカー





マルキーニョス(ブラジル出身)
生年月日:1976年3月23日
在籍期間:2007年~2010年
J1通算成績:119試合出場/59得点


 東京ヴェルディ、清水エスパルスなどを渡り歩いたマルキーニョスは、2007年に鹿島に加入した。オズワルド・オリベイラが監督に就任したチームは開幕から出遅れたが、9連勝フィニッシュで奇跡の逆転優勝を達成。2トップの一角を務めたマルキーニョスは、自己最多の14得点をマークした。

 08年、チームは開幕から白星を重ねてリーグ連覇を達成した。マルキーニョスは21ゴールを挙げ、得点王、ベストイレブン、最優秀選手賞の個人3冠に輝いている。前人未到の3連覇を成し遂げた09年は13得点を挙げ、11得点を挙げた10年限りで鹿島を退団。その後は横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸でもプレーしている。

 外国籍選手としては歴代最多、全体でも5位となるJリーグ通算152得点、9度の2ケタ得点をマークしたマルキーニョス。鹿島では田代有三や興梠慎三、高校を卒業したばかりの大迫勇也ともコンビを組み、自ら得点を狙うだけでなく周りを活かす献身的なプレーが印象的だった。

●2008年の基本先発メンバー

▽GK
21曽ヶ端準

▽DF
2内田篤人
3岩政大樹
4大岩剛
7新井場徹

▽MF
15青木剛
40小笠原満
8野沢拓也
10本山雅志

▽FW
18マルキーニョス
13興梠慎三



貴公子





レオナルド(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月5日
在籍期間: 1994年夏~1996年夏
J1通算成績:49試合出場/30得点


 レオナルドはサンパウロでクラブ世界一、ブラジル代表でも1994年のアメリカワールドカップで頂点に立っている。ジーコとフラメンゴでチームメイトだった縁もあり、1994年夏に鹿島に加入した。

 リフティングゴールはJリーグ史に語り継がれるゴールになるだろう。最初のタッチからシュートまで一度も地面に落とさずに相手DFをかわし、5回目のタッチで鮮やかにボレーシュートをゴールに突き刺した。

 96年夏、パリ・サンジェルマンからオファーを受けて移籍を決断。鹿島の在籍は2年間だったが、華麗なプレーに加えて端正なルックスは、サポーターの記憶に深く刻まれている。

●1995年の基本先発メンバー

▽GK
佐藤洋平

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
レオナルド

▽FW
長谷川祥之
黒崎比差支




世界一の右SB





ジョルジーニョ(ブラジル代表)
生年月日:1964年8月17日
在籍期間:1995年夏~1998年
J1通算成績:103試合出場/17得点


 フラメンゴからドイツに渡り、レバークーゼンとバイエルン・ミュンヘンでプレー。ワールドカップにはイタリア大会から2大会連続で出場し、94年のアメリカ大会ではブラジル代表の優勝に貢献している。

 鹿島に加入したのは95年、現役バリバリのブラジル代表がJリーグにやってきた。ブラジル代表では右サイドバックでプレーすることが多かったが、鹿島ではボランチが定位置だった。キックの精度が高く、クロスやロングフィードからチャンスを生み出した。

 所属した4年間で4つのタイトル獲得に貢献。初のリーグ優勝を成し遂げた96年には、年間最優秀選手賞とベストイレブンに選ばれた。12年には監督として鹿島に戻ってきたが、リーグ戦は11位に終わり、1年で退任している。

●1996年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
増田忠俊

▽FW
長谷川祥之
マジーニョ

【了】




◆鹿島アントラーズ、歴代最強外国籍選手5人。神様ジーコに続く、常勝軍団を作り上げたブラジル人たち(フットボールチャンネル)


◆鹿島アントラーズ指揮官ザーゴが見た日本人の新型コロナウイルス対策「だからイタリアとは違う」(GOAL)



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【欧州・海外サッカー ニュース】鹿島アントラーズ(Jリーグ)のザーゴ監督は、イタリアラジオ局のインタビューで日本人や古巣のローマについて言及した。


鹿島アントラーズのザーゴ監督が20日、イタリアのラジオ局『Tele Radio Stereo』のインタビューに応じ、日本の印象などについて語った。

現役時代は柏レイソルで1年間プレーしたほか、セリエAローマで活躍し、2001年に元日本代表MF中田英寿氏らとともにスクデットを獲得したザーゴ。1月から鹿島の指揮を執るブラジル人監督は、イタリアラジオ局のインタビューに応じると、新型コロナウイルスをめぐる日本の状況について自身の見解を示した。3月上旬から急激に感染が拡大し、2万4000人を超える死者を出したイタリアと比較している。

「世界各国と変わらず、ここでも今は難しい時期だ。ただこれまで被害が大きくなかったのは、日本では早くも1月からマスクの使用や手洗いを呼びかけたり、空港や駅など人混みを避けるように注意喚起したりしていたからだと思う。日本人はこういったことを徹底していた。だから、イタリアとは違う状況にあるのだろう」

また、ザーゴはローマに所属していた1998年から2002年を回想。当時を振り返った。

「当時は世界最強の選手たちがイタリアでプレーしていた。(ジョージ)ウェアや(オリヴァー)ビアホフ、(ガブリエル)バティストゥータ、(エンリコ)キエーザ、(フィリッポ)インザーギ、(アレッサンドロ)デル・ピエロ、(ダビド)トレゼゲ、(ジネディーヌ)ジダン。それに(ロベルト)マンチーニもまだ現役だった」

「私が最も手を焼いた選手を1人挙げるのは難しいが、最強だったのはおそらく(元ブラジル代表)ロナウドだろう。イタリアでは最高のプレーを見せていたね。それに(クリスティアン)ヴィエリも手強い選手だった。フィジカルが非常に強く、加えてスピードもあった。ボールを上手くキープするので、相手はイライラさせられたものだよ。もしかしたら彼が、最も手を焼いた選手の1人かもしれないね」




◆鹿島アントラーズ指揮官ザーゴが見た日本人の新型コロナウイルス対策「だからイタリアとは違う」(GOAL)

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