有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は柳沢敦さんに登場していただきました。1996年に鹿島アントラーズ入団後、シドニー五輪、日韓W杯、ドイツW杯に出場するなど、日本代表でも華々しい活躍をした柳沢さんですが、一方で注目されるがゆえに厳しい報道に直面したのも事実です。2014年に現役引退後、現在は鹿島アントラーズのコーチを務める柳沢さんにプロ選手生活を回想していただきました。
あのときボールは急に来た……柳沢敦が振り返る現役時代の記憶
どれが一番辛かったのだろう。
2000年、アジアカップの決勝で途中出場したものの7分で交代させられた。
2002年、ワールドカップの前にはFWではなく右ウイングで起用される。
本大会では初戦で首を痛め第3戦で動けなくなった。
2006年、ワールドカップの前に右足を骨折する。
本大会ではクロアチア戦でゴールを外し、
その後の「急にボールが来たからビックリした」というコメントの一部が一人歩きした。
2007年、10年間在籍した鹿島を離れて京都へ移籍。
2011年、契約満了となった京都から仙台へと移る。
そして2014年シーズンを最後にユニフォームを脱いだ。
「オレが」という我の強いプレーよりも味方のチャンスを増やすスタイルだった。
それゆえに誤解を生みやすく、謂れなき非難もあったに違いない。
もともとあまり饒舌なほうではない。
辛く見えた過去を寡黙なストライカーは、
じっくり考えながら丁寧に答え続けてくれた。
そして最後にインターネットの上で見かける、
「サッカー選手のお嫁さんの理想は柳沢敦の嫁さん!!?」
という話について聞いてみた。
柳沢夫人が芸能の仕事をしているにもかかわらず、
移籍先に必ず付いていく仲睦まじい様子が評判となったものだ。
本人たちは知っているのだろうか。
柳沢はインタビュー中、ずっと真顔だったが
その質問では感情を隠さず、満面の笑みになった。
「急にボールが来た」の真意とは
僕のサッカー人生で辛かったこと……。僕はね……辛いことは……どれも同じように辛かったですね。やっぱり僕だけでは乗り越えることができないものもありました。そんなとき周りの人の助けがあって、乗り越えられてきた。……ホントに。他の人から見れば辛いことがたくさんあったと思われるかもしれませんけど、その中で支えてくれる人が多かったっていうのが、僕の人生ですかね。
フィリップ・トルシエ監督のとき、81分に途中出場して88分に交代させられたとか、右ウイングで使われたりとか……。あのとき、みんな心配してくれてましたけど、僕は監督を悪くなんて考えないんですよ。
結局、そういうのも自分の責任に感じるし、思考回路が自分自身のほうに行くタイプなんで……。あのとき、やっぱりトルシエ監督は僕自身のことを考えてくれていたからこそ、ということであって、決してパフォーマンスなんかじゃなかったと思うんです。
僕自身、やっぱりFWなんで、相手選手を背負いながら自分のゴールの方を向いてプレーすることが多かった。そのプレーに迷いがあったけど、サイドだと片方はラインですから、常に前向きにプレーできる。そんなイメージを持たせるというか、そういう意図があったみたいでした。
それに途中出場して、7分で交代というのも……。大事な試合でしたからね、アジアカップの決勝戦という。僕はあの大会、レバノンに入ってから長い間風邪でダウンしてて、そこで復帰して使ってもらったんです。緊迫した中の残り数分で、10分ぐらいあったかな。僕が入ったときには1-0で勝ってたんですよ。
そこで交代出場してから2回連続ミスして、そこで監督は早く見切りを付けたというか。僕自身のミスがそういう交代を招いたんです。けれど、監督は後で「自分のミスだ」って言い方もしてたし、「MFを入れるべきだった」っていうような説明をしてくれましたね。それでも僕はミスの連続がやっぱりそういう交代の引き金になったんだろうと思ってます。
2002年ワールドカップではグループリーグ3戦目のチュニジア戦の時に首が痛くて動けなくなって、トルコ戦も出場できなくなって……。ワールドカップは2002年の日韓大会のときは首がおかしかったり、2006年のドイツ大会の前は骨折してギリギリまでいけるかどうかわからなかった。
それでもやっぱりワールドカップに行かせてもらえたというところでは、僕は幸運なほうだと思ってるんです。本当にありがたいことだし、やっぱりなかなか出られるものではないと思っているのでね。そういうところに絡めてある意味、ラッキー、幸せだと思ってます。
2006年ワールドカップのときは、「急にボールが来た」という言葉を取り上げられましたけど、あれは加地亮がシュートしようとしていたので、そのこぼれ球に詰めようと動いていったところを、ボールが僕のところに来たという状況でした。
あれで勝てなかったということを言われたけど……。それが代表というものだし、それがワールドカップだなと思います。大きな舞台で、一つのミスだったり、一つのゴールだったり、それがその人の人生を大きく変えていくという……。そういう意味では本当に大きな大きな舞台なんです。
何かを恨むとかはなかったんです。よく、「持ってる」「持ってない」というのがありますけど、僕はある意味では「持ってる」し、ある意味では「持ってない」んじゃないでしょうかね。こういう世界にいると、起こってしまったことはどうしようもないんで、それを先にどう繋いでいくかという思考回路を持つようにしているんです。
辛かったときは、周りの人たちが助けてくれました。前に向かせてくれたというか……終わったことをいくら考えても何も解決しないですから。そういう意味では前に進んでいかなければいけないし、歩みを止めてはいけない。選手としてこれから先、どうしてくかというのを、みんながサポートしてくれましたね……。
それが鹿島というクラブ、選手、クラブスタッフ、また僕の近くにいてくれるような人たちだったり……そういう人たちが誰も僕を責めたりしなかったし……支えてくれてるという実感を持てて、だから自然と頑張らなければいけないという思いになりました。
特に何かしてくれるというより、そこに触れてこないというのが優しさだと思います。それが逆に辛いときもあるんですけど……頭の中をそのことじゃなくて違うものに向かわせるような、もうすでに次が始まってるよという態度ですかね。そういうところがあったので……またサッカーに集中できたかなって思います。
鹿島で繋がった縁が移籍の支えに
鹿島から移籍したときは、誰かに言われてしたわけじゃなくて、まず自分で決断したんで……自分の意志で移籍を選んだので。長い間鹿島にお世話になって、僕をサポーターも含めてずっと支えてもらって、そういう人たちと離れるというのは寂しい思いはもちろんありました。ただ、サッカー選手なんで、プロとしての決断をしなければいけないというのは常に思ってましたし……。
京都に行ったとき、選手としてこのままでいいのかという部分が移籍を決断する理由の一つでしたね。その時期、引退というか、サッカー選手を辞めるということも選択肢の中にあったんですけど、そういう中で、京都のコーチだった秋田豊さんを通じて加藤久GMを紹介していただいて、また新たなやり甲斐というか、サッカーの面白さをもう一回教えてもらったというか。そういう移籍でしたね。
「まだまだ老け込む年じゃないし、もう一花咲かせられるよ」って。そこで新たなクラブに出てみて、見える部分もあるし、「一緒にやろう」って言ってもらって、前向きなチャレンジの、プロとしての決断をさせてもらったというか。
仙台に移籍したときは、京都から戦力外という形になったんです。でも、そのときはサッカーをやめるつもりもなかったんですよ。そういったときに仙台が声をかけてくれて。監督に手倉森誠さん、GKコーチに佐藤洋平さんという元鹿島の人たちという存在もあった、常にそこには鹿島に関わった人たちがいたというもの事実だし、クラブを離れても鹿島との縁というのは、ずっと続いているという感覚を持っていました。
それに誠さんが超ポジティブな方なので。僕にはないというか、僕は割と悩んでしまうタイプで物事を深く考え込むというか、ネガティブな志向が強かったりするんですけど、全然、真逆な誠さんに出会えて、ある意味本当に勉強になりましたね。仙台での4年間というのは貴重な時間だったと思います。引退は、誠さんにはダメだって言われましたけどね。
引退は、ちょっと……まぁホントに、自分の頭の中で考えているイメージと、身体がそれに2歩も3歩も遅れていて……。自分が思うパフォーマンスというのはなかなかできなくて、それに対してすごくストレスを感じながらプレーしてたんで、自分で決断したというところです。
鹿島での最初の2年がその後のサッカー人生に繋がった
自分の忘れられないとき……一杯ありますけどね。一杯ありますけど、シーンというより、鹿島に入って2年ぐらいですかね……。先発メンバーに入ったり入らなかったり、出場機会というのはなかなか多くはなかったですけど、その中で2年目の最後の天皇杯で、やっと先発で使ってもらえるようになって。先発で初めて勝ち取った優勝というのが天皇杯だったので、そのときの充実感というのは今でも忘れられないんですよ。天皇杯のすべての試合が。
それが本当にタイトルの味だと初めて感じたというか。それまでもクラブは優勝してるんですけど、やっぱり出場時間が短いぶん、喜びというのもやっぱり出場時間に比例するような感覚があって。だからその天皇杯は充実した感覚がありました。
リーグ戦では1年目5得点、2年目8得点、3年目22得点だったんです。去年、鈴木優磨が8ゴールしましたが、そこはプレッシャーかけましたよ。そうしたら絶対に抜くと言ってた。そこは面白いですよね。彼自身も意識しながらプレーしてくれているし。
何というか、抜いてくれたらうれしいだろうなって。まぁ、今年まではアイツに強く言えるんですけど、自分も4年目からはゴールあんまり取ってないから、強く言えなくなるかな(笑)。
僕のプレースタイルは、チャンスメイクや守備への貢献というのがあって、そういうのを認めてくれる監督だったからこそ使ってくれたのかなと思います。「FWはゴールだけ取ってくればいい」というような、もちろんFWはやっぱりゴール取ってナンボなんですけど、でもそれだけを求めているような監督だったら僕はなかなか出場機会は与えられなかったんだろうなって。
高校卒業するときには13チームから声をかけてもらいました。で、正直、どこに行ったら自分にとっていいのかを判断するのはすごく難しかったんですけど、一つは鹿島を大好きだったというのが一番大きな決め手でした。入ってみて、本当にプロサッカー選手として大事なコトというのを、最初の2年、3年でみっちり教えてくれたクラブだったんで、それはホントに長いそのあとのサッカー人生に、つながる貴重な2年間だったと思います。だからこそこのクラブを選んでよかったなと思っています。
プロサッカー選手生活は楽しみしかなかったです。FWに対する報道は厳しかったかもしれないけど、そこはあまり過剰には反応しなくなってました。自分自身のプレーをまずしっかりと見極めて、自分が良いプレーできているのかどうなのか、自分が今いいコンディションにあるのかどうか、それが自分の頭の中のほとんどを占めていたので。だから外からの評価というのは自分の中では数パーセントでしかなかったですね。
自分が外部から、特にマスコミの方々からどう評価されているかというのは、あまり自分の頭の中を占めていませんでした。ただ、自分で正しい眼、正しい判断を持っていないと、自分が「これでいい」と思っていても違ってくる。そうでないと監督からの評価は得られない。
サッカーでいう監督というのは社会でいう上司だったり社長だったりするので、その人の考え方とか、求めるものを理解して、それに対して自分がどこまで出来ているのかというしっかりとした判断基準を持っていないと、違う方向にいってしまう可能性もあるんです。そこはすごく注意深く、いろんなことにアンテナを張っていました。
監督だけじゃないし、チームメイトもそうだし、すべての人たちとうまく。人間関係も、プレーも、よく理解して、お互いを理解するというのはすごく大切だと思います。だから僕は仲悪かった人っていなかったと思ってるんですけどね。相手はどう思っているかわからないけど(笑)。
昔は魚派、今は肉派…パスタも好きです
僕は好物が少し変わってきました。昔は魚派だったんですけど、今は肉派です。富山だから魚はうまいし、小さいときからよく魚を食べさせられていたんで、魚は今でも好きですよ。ただ、昔はどこかに食事に行くというと寿司が一番好きだったんですけど、今は肉ですね。
ステーキが好きですよ。脂身がないステーキですね。ソースをかけるよりも塩コショウのシンプルな味付けのほうが好みです。鹿島でいうと「1★POUND(ワンポンド)」という店がおいしいですね。家族で行っているので、店で会うかもしれませんね。
イタリアでもプレーしていたので、パスタも好きです。自分でも作ります。トマト系のパスタが好きなので、シンプルな。こだわりが強いんですよ。コクがあるより、酸っぱい酸味の強いソースが好きです。
トマト缶を使うんですけど、その中でもおいしいやつがあるんですよ。ただ、トマト系は嫁さんが担当、僕はカルボナーラ。本当は、クリーム系のパスタがあまり好きじゃないんですけど、テレビで紹介されていた生クリームを使わないカルボナーラのレシピを試しに僕が作ったらうまかったんですよ。それからカルボナーラを作るときは僕担当です。
インターネットで「サッカー選手のお嫁さんの理想は柳沢敦の嫁さん!!?」という話があるんですか? えっと――これですか――今、初めて見ました。どこかに行くときは常に一緒だというのは確かにそうですね。どこに行っても家族で移動するというのは基本でした。移籍になったときも、「まずは家探しを先にしてくれ」って言われます。
この文章、知らなかったです。……伝えておきます(笑)。
富山第一高等学校を卒業後、1996年に鹿島アントラーズへ入団。1998年には日本代表に選ばれ、W杯は2002年と2006年の2大会に出場した。
2014年にベガルタ仙台で引退。現在は鹿島アントラーズのコーチを務める。
1977年生まれ、富山県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。
http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/football/4041