内田篤人 悲痛と希望の3144日 / 了戒美子 【本】
ブラジルでの悔しさを晴らすのは、ロシアだと思っていた
2018年、長らく拠点としていたドイツから帰国し、古巣・鹿島アントラーズに復帰した内田篤人。2014年のW杯ブラジル大会では本田圭佑、長友佑都、香川真司らとともにチームを牽引したがグループステージで敗退。その悔しさを糧に、2018年のW杯ロシア大会を目指した。
だが、ブラジル大会前に負った右膝のけがに、その後の4年間はずっと苦しめられた。ロシア大会直前まで懸命にリハビリを行い、周囲の協力もあおぎ、なりふり構わずメンバー入りを目指したが叶うことはなかった。
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シーズン初戦の2月14日ホームのAFCチャンピオンズリーグ(ACL)グループステージ第1節・上海申花戦にフル出場、続くアウェイの水原三星ブルーウィングス戦には同行しなかったが、25日のJリーグ開幕節・清水エスパルス戦で再び先発し84分までプレーした。上海申花戦で太もも前の肉離れをしており、テーピングをしながらのJ開幕戦だった。
「痛いけど、もも前ってテーピングしちゃえば試合できちゃうんだよね」
試合でプレーはできるが、負傷を治すことを考えれば休むにこしたことはない。だが、なるべく多くの試合に出てワールドカップ(W杯)のためにアピールしなくては、ということが常に脳裏にあった。だが、このシーズンも復帰と負傷を繰り返した。膝蓋腱も大腿二頭筋腱も問題はない。ただ、試合が少し続き負荷がかかるとどこかで肉離れが起きることの繰り返しだった。
「お前が諦めてどうするんだ」後輩を励ましながら粘り続けた
それでもリハビリ仲間であり、”舎弟”と呼ぶ清武弘嗣と励まし合いながらW杯を目指した。
「キヨは何回もふくらはぎをやっていて、半分くらい心が折れていたから。『待て待て、がんばろうぜ』って言い合ってね。キヨって予選の時なんか(香川)シンジよりポジションとっていたこともあるじゃん。W杯まで3ヵ月になって、諦めてどうすんだよって。サッカー人生やっててW杯目指せるなんて、今後こんなチャンスあるか分からないぞ。だから、がんばろうぜ。やれることは全部やろうぜって言ってね」
清武にも内田にも互いの存在は支えになった。
「最後の最後まで俺もアツトくんも、W杯目指していました。俺は何回も諦めましたけどね。17年は4回、18年も4~5回は負傷離脱しているんですよ。でも、アツトくんが『オレは2年間プレーしてない中でまだ目指すんだから、お前が諦めてどうすんだ。4週間とか5週間の怪我を、確かに何回もしているけど、何を諦めてるんだ』って言ってくれて。『オレとお前は、最後に滑り込みだ、絶対』。俺が2月にふくらはぎをやった時でさえ、『最後の最後、5月14日に、35人決定だからとりあえず粘れ』っていう感じでしたよ」
「まず電撃メンバー入り」しかし予想だにしない”監督交代劇”
目指すは大逆転での電撃メンバー入りだ。日本代表メンバーは3つの段階を踏んで23人に絞り込まれることになっていた。まずは5月14日に国際サッカー連盟(FIFA)に35人の予備登録リストを提出する。このメンバーは非公表だ。ついで、18日に、30日に国内で行われる壮行試合・ガーナ戦のメンバー27人が発表される。この時点でメンバーに入っていなければ、基本的にロシア行きはない。最後はガーナ戦翌日にロシアに行く正式なメンバー23人が発表される。とりあえず27人に入れば、23人が発表されるまでの間に多少怪我を治せるという算段だ。2人は同じ目標に向かって、手を携えていた。
ところが肝心の日本代表は過去に例をみない緊急事態に陥っていた。3月の欧州遠征で振るわなかったことを受けて、4月にヴァヒド・ハリルホジッチ日本代表監督の解任と西野朗・新監督就任が発表された。
確かにハリルホジッチは、コミュニケーションの取りづらい監督であり、戦術の方向性も日本人に合っているのかという点でも批判の対象になった。つまりは、うまくいっているとは言い難かったわけだ。結果的に、この監督交代劇がまるでカンフル剤のように機能し、日本代表のスタッフや選手を含めた面々が一つにまとまった感もある。この監督交代は、受け入れられたということだ。
だが、内田にとっては難しい事態になった。たとえメンバーに入っていなくても、怪我をしていても、時にはデュッセルドルフを訪れるなどして内田を気にかけていたハリルホジッチが解任されたのだ。
「うーん、どうなるかなという感じになったよね」
というのが監督交代を受けた内田の感触だった。多くの日本代表メンバーとは違い、ほとんど代表に招集されていない内田にとって監督交代は痛手だった。
日本代表では、だいたい50人程度の怪我の状態やコンディションなどをウォッチしているそうだ。内田の場合はこれだけ怪我を繰り返していても50人枠には入っていたし議論の対象にもなった。だが、5月18日に西野監督が発表したメンバーには入らなかった。清武も入らなかった。
「27人に入れば23人が発表されるまでの間に怪我は治せるかもしれない。だから、27人にさえ入れれば(5月31日までの間に)どうにかなる気がしてたんだけどね……」
内田のW杯へのチャレンジは終わった。
内田は関係各所に電話を入れ、詫びを入れた。アントラーズ監督の大岩剛にも直接頭を下げた。
「すいません剛さん、メンバーに入ってなかったです」
大岩もあやまった。4月から5月にかけてJリーグでは5試合連続で先発出場している。起用することで、コンディションの問題がないというアピールに繫がれば、選出のための好材料になるのではという判断もあった。
「『内田の怪我はいける状態だと示して後押ししたくて、いっぱい試合に出しちゃったけど逆に怪我が重なって、俺の責任だな』って言ってくれて」
大岩の思いを知り、内田は監督室でぼろぼろと涙をこぼした。
鈴木満・強化部長も残念に思っていた。
「満さんはね、柳さん(柳沢敦)の時もそうだったけど、『うちは選手を代表に推したいから、ぎりぎりまで付き合ってやりたかったけど推し切れずごめんな』って」 内田と大岩や鈴木とのやりとりは、クラブハウス内で行われていた。当然メディカルスタッフたちの耳にも届く。 「メディカルルームに入っていったら、みんなものすごく申し訳なさそうな顔をしてるの。治してあげられなくてごめん、みたいな。『W杯出たかったのに、ごめんなー』って言うから、オレが『さあ、治療しようぜ!!』って言って終わり」
「やれることはやった。後悔はない」
清武とも連絡を取った。
「W杯、お互いダメだったな、って確認し合って。でも、あの時こうしていれば良かったというのは一切ないよ」
可能な限りの治療も受け、できるトレーニングは行い、取れるコミュニケーションは取った。内田は全てやり切った。
清武も同じ感想だ。
「結局、知らされた時に、『やれることはやりましたねー、後悔ないっすねー』っていう話はしました。でもね、アツトくんのホントの心の内は分からないですよ。連絡はずっと取り合っているけど、会ってないんで。でも、俺は結構スカっとしていましたけどね。やれること全部やったので。怪我が続いたこととか、パフォーマンス自体には悔いは残りましたけど、怪我に対しての治療やリハビリでやれることは全てやったので、後悔はしてないですね」
2人とも14年の悔しさを晴らすのは、ロシアだと思っていたが、叶わなかった。
◆監督室でぽろぽろと涙を流したあの日……内田篤人が振り返る「W杯メンバー落ち」の真実(文春オンライン)