日刊鹿島アントラーズニュース
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2016年4月27日水曜日
◆仙台MF野沢、カズに並ぶ13年連続J1弾(ニッカン)
http://www.nikkansports.com/soccer/column/data/news/1637546.html
仙台MF野沢が史上9人目の13年連続ゴールを達成した。24日の神戸戦で今季初ゴール。鹿島時代の04年にJ1初得点をマークしてから無得点だった年はなく、J1の連続シーズン得点記録でFWカズらと並び歴代6位タイに進出した。ここまで大きなケガもなく、常にJ1の第一線で活躍してきたことを示す証しだ。
本職は攻撃的MFも、今季はFWで起用されている。登録はMFのままながらFWでの先発は今季2試合目だった。鹿島時代の07~09年にはリーグ3連覇に貢献した天才肌のパサーだが、ストライカーとしての能力も高く、FWでの出場が多かった05年には自己最多の10ゴールをマーク。FWにコンバートされたことで、今後さらにゴール数を伸ばしそうな気配が漂う。J1通算369試合67得点。34歳のベテランが11年ぶりに最前線に立ち、点取り屋としての能力を発揮しようとしている。
【石川秀和】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「データが語る」)
◆熊本入りした植田直通の涙と行動力。 小笠原「何でもする」に背中を押され。(NumberWeb)
http://number.bunshun.jp/articles/-/825570
これは4月4日、つまり熊本地震が発生する10日前に鹿島アントラーズの植田直通が語った言葉である。1994年生まれのアスリートを特集する取材の一環で、「今までの人生で最も印象に残っているニュースは?」と尋ねた。数秒の熟考後、彼はこう答えた。
「やっぱり、東日本大震災ですね。あのとき、僕はまだ高校生(大津高校1年)で、熊本にいました。九州は全く揺れなくて、大地震が起きたことを知ったのは夜、学校から寮に帰って、食堂でテレビを見たときでした。津波でたくさんの家が流されている映像を見て、ものすごい衝撃を受けて。これが本当に日本なのかと思ったことを、鮮明に覚えています。当時、被災地のために何かできないかという気持ちがあって、でも、まだ高校生である自分には、何もすることができなくて。それがすごく歯がゆかったんです。
高校を卒業して、被災地クラブのひとつである鹿島に加入しました。ここには、未だに震災によってぐにゃぐにゃになった道路があります。鹿島では、先輩の(小笠原)満男さんたちが軸となって『東北人魂を持つJ選手の会』として復興支援活動を行なっています。その姿を間近に見ていると、これは東北の人たちだけの問題じゃないと感じるんです。僕は九州人ですけど、同じ日本国民として何かできることはないか、何かしたいといつも考えています。
これまでのシーズンオフは、年代別代表の大会や合宿が入ってしまい、なかなか支援活動に参加できませんでした。でも、来年のオフはリオ五輪も終わっていますし、何らかの形で活動に参加できると思っています」
小笠原からかけられた「何でもする」。
このインタビューから10日後、植田は鹿島の選手寮のテレビで、自身が生まれ育った土地が激しい揺れに襲われる光景を目撃することになる。
4月14日、熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード6.5、最大震度7の地震が発生した。植田の故郷である熊本県宇土市も、震度5強の揺れに見舞われ、宇土市役所は半壊状態となった。植田はすぐに家族に連絡し、無事であること、避難を始めたことを知った。翌日、小笠原からは「手伝えることがあれば、何でもする。何でも言ってくれ」と言葉をもらった。
「戦士の顔」を崩さない植田が、カメラの前で泣いた。
熊本地震発生から2日後、ピッチ上では鋭い眼光で相手FWを威嚇し「戦士の顔」を崩さない植田が、テレビカメラの前で泣いていた。湘南ベルマーレ戦で3-0の完封勝利に貢献し、試合後のヒーローインタビューで「熊本出身の植田選手にとって、今日は特別な想いでのプレーだったと思います。胸の内を聞かせてください」と問われたときだった。右手で目頭を押さえ、約30秒の沈黙の後、「僕には、それ(サッカーで勇気づけること)しかないんで。頑張ります」とだけ声を振り絞り、カメラの前を去った。
高校時代の話をするときには、無意識に熊本訛りが出る男だ。苦しむ故郷のために、サッカー以外の面でも「何かをしたい」と思っていたのは間違いない。プロサッカー選手となった植田は、「何もできなかった」高校時代とは違い、すぐに行動に移した。
湘南戦の翌日、午前練習後にクラブの強化部に「熊本に行きたい」と直訴し、安全第一を条件に許可をもらった。オフだった翌日を含めて、1泊2日の強行日程だった。
植田の気持ちを汲み取った小笠原、選手会長の西大伍、若手の久保田和音、鈴木優磨、垣田裕暉も同行した。熊本空港は閉鎖されていたため、成田空港から福岡空港へ飛び、福岡空港からはレンタカー3台に飲料水など支援物資を詰め込んで、陸路で熊本入り。母校の大津高に隣接する大津中など、避難所を回って物資を渡した。
植田「今の世界が当たり前じゃない」
熊本から鹿島に戻った植田は、被災地を直接見て感じたことを、こう語っている。
「今の世界が当たり前じゃないっていうのは、すごく感じました。今こうやって鹿島のチームメイトたちと試合をやって、練習をやれているのが、当たり前じゃないというのもすごく感じたので、今できることを精一杯やっていくことを強く思いました。
まだ僕が行ったときは、地震発生からあまり時間が経っていなくて、被災地も慌しい状況の中で、避難所で寝る人もいれば、車で寝ている人もたくさんいて、収拾がついていない状況でした。物資が回ってないところもあって。今は物資も届き始めている状況ですけど、それを配る人がいないというか、ボランティアの人たちの人数も足りていないという話も聞きました。そういうところは僕にも何かできることがないかと思って、少しでも協力できるように、これからもやっていきたいと思います。
地元の熊本で被災している人がたくさんいて、テレビを観る状況ではないかもしれないけど、僕たち鹿島の結果というのはいつか届くと思っています。その結果を知って、“熊本出身の植田”が少しでも頑張っているということを伝えられればいいなと、僕自身思っているので、これからもしっかりと勝ちを積み上げて、良い結果を報告していきたいです」
敗戦に見せた、誰よりも悔しそうな顔。
1人のプロ選手として、まずやるべきはサッカーで結果を残すこと。被災地支援活動をすることで本業が疎かになったら、誰も喜ばない。それは、植田本人が強く認識している。だからこそ、熊本から戻って最初の試合となった4月24日の柏レイソル戦で0-2で敗れたとき、誰よりも悔しそうな顔をしていたのが彼だった。勝てば首位浮上の可能性もあった一戦での、痛恨の完封負け。ただし、首位・浦和レッズとは勝ち点3差の3位。直接対決もまだ残されている。
次こそ、良い報告を――。試合後、無言のまま取材エリアを過ぎ去り、駐車場へと向かう熊本男児の背中からは、自分自身へのふがいなさと、次戦への闘志が溢れ出ていた。
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