Jリーグは15日に開幕30周年を迎える。スポーツ報知では歩みを関係者が振り返る連載をスタート。第1弾は鹿島でプレーし、リーグの発展に貢献した“サッカーの神様”ジーコ氏(70)。後編は、“サッカーの神様”が大きな影響を受けたという日本文化が持つ「規律」「思いやり」の素晴らしさを語り、日本サッカーの今後30年に向けては「W杯の決勝に立つこと」とエールを送った。(取材・構成=内田 知宏)
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1993年Jリーグ開幕節の名古屋戦でハットトリックを達成したジーコはクラブを応援する誇りと動機をサポーターに与え、世界的選手のJ参戦の流れをもたらした。クラブに対してはプロ意識を植え付け、プロリーグの前進に大きく貢献した。ただ、与えたばかりではないとジーコは回想する。日本のサポーターからは、それ以上に、人生において重要なものを受け取ったという。
「日本に来て驚いたことは日本人は自己管理がしっかりしているところだった。規律正しくやり通す。このことを日本で覚えた。この精神があったからこそ、来日してから30年、アクシデントなく過ごすことができていると私は思っている。(ブラジルでは特に)アクシデントは野外、そして家の中でもあるかもしれない。自転車、自動車に乗っていても起こる。何も問題なくこられたのは、私が日本文化、環境に大きく影響を受け、過ごしたからだと思っている」
Jリーグは、子供も女性も安心して観戦ができる「世界一安全な試合運営」を目標に掲げ、実現に努力してきた。ブーイングが飛ぶことはあるが、決して身の危険を感じるような場所ではない。サッカースタジアムとして世界一「規律」や「思いやり」がある場所と言っていい。ジーコが忘れられない試合として挙げたのも、それを感じられた一戦だった。Jリーグ最後のプレーとなった94年6月15日の磐田戦(磐田)だ。
「Jリーグで最後の試合で相手はジュビロだった。記憶違いでなければ2―1で勝った。1点を決めた私が途中交代した時に、相手サポーターからも大きな拍手が起きた。試合後にはピッチを一周したが、ジュビロ・サポーターから再び大きな拍手とジーコ・コールをいただいた。鹿島側からなら理解できるが、自分のクラブの選手と同じように送り出してくれたのは、忘れられない思い出で、すごく珍しい出来事だった」
そんなJリーグでプレーしてきた影響もあるのだろうか。近年のサッカー界を見渡すと気がかりな点がある。
「サッカーは団体スポーツだが、最近は個人がすごくフォーカスされるスポーツになってきている。個人が、やたらと自分の記録を気にするのが見て取れる。何のためにグラウンドに立ち、プレーしなければいけないのかを考えていない。クラブのユニホームを着て、チームを強くするため、勝つためにプレーする。個人的なものは次だ。勝ったからこそ記録が生まれる。団体スポーツを個人のものと勘違いしてはいけない」
最後に次の30年、その先にJリーグがさらに進化するためのポイントを挙げた。
「下部組織全体の底上げになるのではないか。日本はここ30年を見ても、素晴らしいものを成し遂げた。カタールW杯を見ても分かる。ドイツ、スペインに勝って、1位で1次リーグを突破した。日本サッカーは良い方向に進んでいる。次の30年で日本の役割は、W杯決勝に立つことだ。そのためには下部組織の底上げ。下(育成年代)からの押し上げを、国内トップ選手に対してしていってもらいたい。そうすれば日本はもっと強くなる」(敬称略)=おわり=
ジーコという男
2012年、取材で滞在していたカタール・ドーハにあるホテルのロビーで偶然、ジーコに再会した。当時、イラク代表監督だったジーコに、不意に強く抱きしめられた。確かに6年ぶりの再会ではあったが、日本人の感覚からすると、それほどの交友関係ではなかったと断言できる。驚いた。鹿島、日本代表で見るジーコの周りは常に緊張感に包まれ、近づくのすら背筋を伸ばさなければいけない存在だったからだ。
翌日、イラクの練習に顔を出した。すぐにピッチ内に案内され、コーチに練習の指揮を任せたジーコとベンチに座っていろんなことを話した。部外者が練習中にベンチに座る光景など、長いサッカー取材でも見たことがなかった。取材するつもりが、ジーコからJリーグ、鹿島、そして日本協会の近況を問われる“逆取材”が圧倒的に多かった。
イラク協会と関係がうまくいかず、孤立していたと後から知った。日本人、日本サッカーが恋しくなったのかもしれない。ジーコにとっての「日本」は、そういう存在だと実感する出来事だった。(鹿島担当17年・内田 知宏)
◆ジーコ氏、日本人の規律正しさ人生に影響「次の30年でW杯決勝に」下部組織底上げを…Jリーグ30周年(報知)