日刊鹿島アントラーズニュース

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2023年5月9日火曜日

◆ジーコ氏、日本人の規律正しさ人生に影響「次の30年でW杯決勝に」下部組織底上げを…Jリーグ30周年(報知)



ジーコ


 Jリーグは15日に開幕30周年を迎える。スポーツ報知では歩みを関係者が振り返る連載をスタート。第1弾は鹿島でプレーし、リーグの発展に貢献した“サッカーの神様”ジーコ氏(70)。後編は、“サッカーの神様”が大きな影響を受けたという日本文化が持つ「規律」「思いやり」の素晴らしさを語り、日本サッカーの今後30年に向けては「W杯の決勝に立つこと」とエールを送った。(取材・構成=内田 知宏)

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 1993年Jリーグ開幕節の名古屋戦でハットトリックを達成したジーコはクラブを応援する誇りと動機をサポーターに与え、世界的選手のJ参戦の流れをもたらした。クラブに対してはプロ意識を植え付け、プロリーグの前進に大きく貢献した。ただ、与えたばかりではないとジーコは回想する。日本のサポーターからは、それ以上に、人生において重要なものを受け取ったという。

 「日本に来て驚いたことは日本人は自己管理がしっかりしているところだった。規律正しくやり通す。このことを日本で覚えた。この精神があったからこそ、来日してから30年、アクシデントなく過ごすことができていると私は思っている。(ブラジルでは特に)アクシデントは野外、そして家の中でもあるかもしれない。自転車、自動車に乗っていても起こる。何も問題なくこられたのは、私が日本文化、環境に大きく影響を受け、過ごしたからだと思っている」

 Jリーグは、子供も女性も安心して観戦ができる「世界一安全な試合運営」を目標に掲げ、実現に努力してきた。ブーイングが飛ぶことはあるが、決して身の危険を感じるような場所ではない。サッカースタジアムとして世界一「規律」や「思いやり」がある場所と言っていい。ジーコが忘れられない試合として挙げたのも、それを感じられた一戦だった。Jリーグ最後のプレーとなった94年6月15日の磐田戦(磐田)だ。

 「Jリーグで最後の試合で相手はジュビロだった。記憶違いでなければ2―1で勝った。1点を決めた私が途中交代した時に、相手サポーターからも大きな拍手が起きた。試合後にはピッチを一周したが、ジュビロ・サポーターから再び大きな拍手とジーコ・コールをいただいた。鹿島側からなら理解できるが、自分のクラブの選手と同じように送り出してくれたのは、忘れられない思い出で、すごく珍しい出来事だった」

 そんなJリーグでプレーしてきた影響もあるのだろうか。近年のサッカー界を見渡すと気がかりな点がある。

 「サッカーは団体スポーツだが、最近は個人がすごくフォーカスされるスポーツになってきている。個人が、やたらと自分の記録を気にするのが見て取れる。何のためにグラウンドに立ち、プレーしなければいけないのかを考えていない。クラブのユニホームを着て、チームを強くするため、勝つためにプレーする。個人的なものは次だ。勝ったからこそ記録が生まれる。団体スポーツを個人のものと勘違いしてはいけない」

 最後に次の30年、その先にJリーグがさらに進化するためのポイントを挙げた。

 「下部組織全体の底上げになるのではないか。日本はここ30年を見ても、素晴らしいものを成し遂げた。カタールW杯を見ても分かる。ドイツ、スペインに勝って、1位で1次リーグを突破した。日本サッカーは良い方向に進んでいる。次の30年で日本の役割は、W杯決勝に立つことだ。そのためには下部組織の底上げ。下(育成年代)からの押し上げを、国内トップ選手に対してしていってもらいたい。そうすれば日本はもっと強くなる」(敬称略)=おわり=


 ジーコという男


 2012年、取材で滞在していたカタール・ドーハにあるホテルのロビーで偶然、ジーコに再会した。当時、イラク代表監督だったジーコに、不意に強く抱きしめられた。確かに6年ぶりの再会ではあったが、日本人の感覚からすると、それほどの交友関係ではなかったと断言できる。驚いた。鹿島、日本代表で見るジーコの周りは常に緊張感に包まれ、近づくのすら背筋を伸ばさなければいけない存在だったからだ。

 翌日、イラクの練習に顔を出した。すぐにピッチ内に案内され、コーチに練習の指揮を任せたジーコとベンチに座っていろんなことを話した。部外者が練習中にベンチに座る光景など、長いサッカー取材でも見たことがなかった。取材するつもりが、ジーコからJリーグ、鹿島、そして日本協会の近況を問われる“逆取材”が圧倒的に多かった。

 イラク協会と関係がうまくいかず、孤立していたと後から知った。日本人、日本サッカーが恋しくなったのかもしれない。ジーコにとっての「日本」は、そういう存在だと実感する出来事だった。(鹿島担当17年・内田 知宏)





◆ジーコ氏、日本人の規律正しさ人生に影響「次の30年でW杯決勝に」下部組織底上げを…Jリーグ30周年(報知)





◆「神様」ジーコ氏が振り返るJリーグ30周年…「日本で初めて知った言葉」開幕節で決めたハットトリックの意味(報知)



ジーコ


 Jリーグは15日に開幕30周年を迎える。スポーツ報知では歩みを関係者が振り返る連載をスタート。第1弾は鹿島でプレーし、リーグの発展に貢献した“サッカーの神様”ジーコ氏(70)。このほど、茨城・鹿嶋市内で応じた取材の様子を2回に分けて紹介する。1993年の開幕節で3得点を記録したが「ハットトリックという言葉を初めて知った」と意外な過去を明かすとともに、ハットトリックの意味を説いた。(取材・構成=内田 知宏)

 ジーコもまた特別な気持ちでJリーグ30周年を迎える。「サッカーの神様」が鹿島の前身、住友金属蹴球団の一員として来日したのが91年。ブラジルのスポーツ大臣を辞任し、プロリーグ発足を間近に控える日本で現役復帰するというニュースは世界を驚かせた。途中、ロシア、トルコのクラブ監督を務める時期があったが、選手、総監督、テクニカルダイレクターとして鹿島、Jリーグの発展に貢献してきた。

 当時より体も大きくなり、顔には多くのしわが刻まれている。最近では膝の手術も受けた。それでも、ジーコが変わらぬ笑顔で振り返る。


 「来日した時、まだ住友金属は2部リーグに所属していた。私は、東京に住んでいて(茨城)鹿島(現鹿嶋)に通う生活を送っていた。(3時間ほどかけて通う)毎日が大変だった。自宅近隣でトレーニングするところがないかとグラウンドを探したが、見つけられない。日本では野球やテニス、ゴルフがサッカーより盛んに行われていた。トレーニングする場所は、野球場しかなかった。野球場でトレーニングしていたら『ボールが飛んでくるから危ないぞ』と言われ、気をつけながらトレーニングした思い出がある。それが(日本代表監督の任期満了で)2006年に一時的に日本を離れる時には、同じ場所にサッカーグラウンドが10面以上造られていた。国内でサッカーが浸透したことを感じた。サッカーが子供たちにとって、一つの選択肢になったんだ」


 Jリーグに多くのものをもたらした中で「プロ意識」を植え付けたことは、ジーコの功績といえるだろう。スナック菓子、炭酸飲料を口にする選手を激しく叱責(しっせき)したことは有名な話。選手、スタッフが夜な夜な外出しないよう遠征先のホテルロビーに立ち、門番を務めることもしばしばだった。強くするために、労苦を惜しまなかった。今も鹿島は他クラブの手本だ。そして、迎えた名古屋との開幕戦で5―0の快勝。ジーコはハットトリックを達成した。


 「日本に来てからハットトリックという言葉を初めて知った。私が現役でプレーしていた時に、ビッグプレーヤーが複数得点するのは当たり前で、3点取ることの重要性はブラジルではなかった。英国ではプレゼント、ご褒美があったかもしれないが、ブラジルではそこまで聞く言葉ではなかった。フラメンゴ、ブラジル代表でもハットトリックを決めていた。3点取ること自体は、大事な意味をなさない。個人の結果はそこまで重要だとは思っていない」


 ただ、Jリーグの第一歩という点、世界に向けた発信という意味では重要だったと語る。


 「Jリーグが発展していく上では、大事な意味があったのではないかと思っている。(日本サッカーリーグ)2部から唯一Jリーグに加わった。(人口)4万人のクラブがJリーグに参戦する。注目されていた。小さい町のクラブを、サポーターたちが信じてくれて、満員にしてくれた。つくってくれた。その中でハットができたことが大事だった。アントラーズの歴史を、あそこからスタートできた。大事なハットトリックだったと私は思う。そして、相手には(元イングランド代表の)リネカーがいた。世界からみたら、リネカー対ジーコ。国外からも注目されていた。その時にハット(を決めたこと)は、世界的にみても意味があったと思う」


 クラブを応援する誇り、動機をサポーターに与えた。サッカー文化の第一歩だ。そして、世界に発信されたニュースをみて、その後世界的な選手がJに参戦するという流れにも影響を与えたハットトリックだった。=敬称略=(後編に続く)

 ◆ジーコ(本名アルツール・アントゥネス・コインブラ)1953年3月3日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。70歳。71年からフラメンゴ、ウディネーゼ(イタリア)などで活躍。ブラジル代表として78、82、86年のW杯出場。代表通算71試合48得点。89年に引退し、90年に母国のスポーツ大臣就任。91年に辞任し、住友金属蹴球団(現鹿島)のオファーを受ける形で現役復帰して94年までプレー。愛称は「神様」。2002~06年、日本代表監督を務めた。家族は夫人と3男。172センチ。

 ◆鹿島―名古屋の開幕戦VTR ジーコが前半だけで2得点。後半に入ると、アルシンドが8分に3点目。同18分にジーコがリーグ初のハットトリックを達成。さらに1分後にアルシンドが5点目を決め、5―0で名古屋を粉砕した。




◆「神様」ジーコ氏が振り返るJリーグ30周年…「日本で初めて知った言葉」開幕節で決めたハットトリックの意味(報知)





◆4連勝の鹿島、C大阪戦の勝因とMOMは!?【J1リーグ2023】(FOOTBALL TRIBE)



関川郁万


2023明治安田生命J1リーグ第12節の各試合が、5月6日、7日に開催された。今節の結果により、横浜FCに3-0で勝利したヴィッセル神戸が首位をキープ(勝ち点26)。2位には京都サンガに4-1で勝利した横浜F・マリノス(勝ち点24)、3位はガンバ大阪に1-0で勝利した名古屋グランパス(勝ち点23)となっている。

ここでは、J1第12節でセレッソ大阪相手に1-0で勝利し、リーグ戦4連勝で5位に浮上した鹿島アントラーズ(勝ち点19)に注目。試合ハイライトと勝利の要因を解析し、同試合で最も活躍した選手、マンオブザマッチ(MOM)を選出したい。


C大阪VS鹿島:試合ハイライト


J1第12節、セレッソ大阪VS鹿島アントラーズの試合は、C大阪のホーム「ヨドゴウ桜スタジアム」で行われた。両チーム共に連勝から上位陣への食い込みを狙う。試合開始から雨が降る厳しいコンディションでのゲームとなる。

立ち上がりから一気にアクセル全開の両チーム。球際での激しいぶつかりあいが続く中で、ファーストチャンスは鹿島に。前半6分、MF樋口雄太がフリーキックをゴールに直接狙うも、C大阪の壁にあたり枠外へ。C大阪もボールを鹿島陣地へ運ぶことを試みるが、雨の影響で下でのパスが通りづらく、なかなか自分たちのペースで攻撃を進めることができない。

後半開始時、雨が降り続けピッチコンディションがさらに悪化する。難しい状況で活きてくるのが飛び道具だ。後半1分にMFディエゴ・ピトゥカがゴール前30mからのミドルシュート。惜しくもゴール左上へ外れたが、局面を打開するには有効な手立てであった。

下でのパスを諦めなくてはいけない局面も増え、ロングボールの頻度が増えていく。なかなか両チームゴールまで迫ることができない。チャンスは再び鹿島。後半8分、FW垣田裕暉のスルーパスに、抜けたFW鈴木優磨がゴールへ向かう。しかしタッチのズレでシュートまで持ち込めず。

後半22分、ようやく同試合唯一の得点が生まれた。MF樋口のコーナーキックのボールを、ファーサイドで待っていたMFアルトゥール・カイキがヘディングで折り返す。折り返した先にいたDF関川郁万がゴールに押し込み先制。この日も空中戦で力を発揮し続けた関川が、攻撃でもチームへ貢献した。

C大阪は反撃を試みるも、後半26分にMF上門知樹の退場もあり、数的不利の状況となる。そのまま試合は動かず、鹿島が1-0で勝利し、4連勝を飾った。


ポイントはボールへのアプローチ強度


同試合で目立ったのは、鹿島の選手全員のボールに対するアプローチ強度の高さである。特に今節のようなピッチコンディションであれば、余計に必要とされる要素だ。C大阪の選手たちがフリーでヘディングできたシーンがなかったほどに、攻撃の選手たちも含めて強度が高かった。

前半だけを見れば、C大阪の選手たちもルーズボールに対し厳しく寄せていた。ファールも多く、肉弾戦なっているシーンも見られた。しかし後半になると、C大阪選手たちの強度が落ち、一方で鹿島選手たちの強度は落ちることがなかった。

C大阪のチャンスシーンといえば、後半17分のMF香川真司によるペナルティーエリアラインからのシュートぐらいだろう。しかし、このシーンでもMFピトゥカが確実にシュートブロックに入っており、香川のシュートが枠内を捉えていたとしても、ピトゥカがブロックしていたと思われる。結果、元日本代表の10番香川はシュートを大幅に外し、それほど同試合における鹿島選手たち全員の執着心は強かった。


MOMは関川郁万


同試合のマンオブザマッチ(MOM)にはDF関川郁万を選出する。C大阪のロングボールを跳ね返し続けたこと、そして難しいアウェイゲームを制する得点を決めたこと、この2点が選出理由だ。

ロングボールを跳ね返し続け、C大阪の攻撃陣を空から抑え込んだことは大きい。同日のようなピッチコンディションであれば、ロングボールが増えてくるのは自然なことである。そのロングボールの処理をミスすると予期せぬ事態が起こるのも怖いところである中、関川の対応は見事だった。

また、鹿島にとっては引き分けで勝ち点1を得ることが出来れば良しとする場合もありえた。その判断を覆したのが関川の決勝点だった。C大阪全選手の足が止まっているなか、関川の体だけがボールを見ていた。試合を通じて、ボールに対するリアクションが良かった証拠である。




◆4連勝の鹿島、C大阪戦の勝因とMOMは!?【J1リーグ2023】(FOOTBALL TRIBE)


◆地元出身 兄はJ1鹿島の兄弟Jリーガー 日の丸をつける19歳・佐野航大選手【全力ファジライブ 岡山】(岡山放送)



佐野海舟(の弟佐野航大選手)






全力ファジライブです。J2優勝、J1昇格を目指すファジアーノ岡山の選手の思いや横顔に迫ります。今回は、高卒2年目の地元出身選手です。

(岸下恵介アナウンサー)「全力ファジライブ、きょうはこちらの選手です」
(佐野航大選手)「佐野航大です。よろしくお願いします」

津山市出身、高卒2年目のミッドフィルダー、佐野航大選手(19)。3歳上の兄はJ1の鹿島に所属し、兄弟ともにJリーガーとして知られる佐野選手は、ゴール前のアイデアやテクニックが持ち味。2023シーズンは2ゴール(第14節終了時)を記録しています。

3月には、U-20日本代表に選ばれ、ウズベキスタンで行われたアジアカップでベスト4、5月20日から始まるU-20ワールドカップへの出場権獲得に大きく貢献しました。2023シーズンさらなる飛躍が期待されています。

■U20アジアカップについて

(佐野航大選手)
「同世代のJ1で活躍している選手だったりとか、そういう選手と一緒にできるっていう。これまで何回か海外遠征をしてきたんですけど、U-20ワールドカップ出場がかかった大会でプレッシャーはあったんですけど、自分なりにしっかり楽しんで、いろんなものを吸収して帰って来られたかなと思います」

■津山ホルモンうどん

(佐野航大選手)「夏とかでオフで(津山に)帰ったりしてバーベキュー、友達とか家族とした時はシメはホルモンうどん」
(岸下恵介アナウンサー)「僕らで言うと観光に行ったときとかに津山ホルモンうどんを食べるんですけど、シメで食べるんですね」
(佐野航大選手)「そうですね。僕ん家だけですかね?分からないですけど。鉄板があるので、それでホルモンうどんを作ってシメるっていう感じですね」
(岸下恵介アナウンサー)「ご自宅に鉄板あるんですか?」
(佐野航大選手)「そうですね、何か物置みたいなところを改造して自分が(県外の)高校に行っている間にお父さんが何か作っていました」

■今季の目標

(佐野航大選手)「2年目は去年よりさらに飛躍して結果を残せるシーズンにしたいですし、U20ワールドカップもあるので、そこでしっかり活躍して世界からも注目されるようなシーズンを送りたいと思います」

「FIFAU-20ワールドカップアルゼンチン」の日本代表メンバーに、ファジアーノからは佐野航大選手と坂本一彩選手が選ばれました。2人は5月10日、代表に合流する予定だということです。国際舞台での2人の活躍に期待しましょう。





◆地元出身 兄はJ1鹿島の兄弟Jリーガー 日の丸をつける19歳・佐野航大選手【全力ファジライブ 岡山】(岡山放送)



◆【データが語る】上田綺世が2本のPKを決めて20得点到達 信頼深めて4月からPKキッカー(ニッカン)



上田綺世


<ベルギー1部リーグ:ウェステルロー3-5セルクル・ブリュージュ>◇中位プレーオフ第2節◇7日◇ウェステルロー

セルクル・ブリュージュのFW上田綺世(24)がPKで2ゴールを決めて今季リーグ20得点に到達した。得点ランキング首位のヘントFWカイパース(21得点)に1点差と迫った。後半27分までプレーし、試合は5-3で勝った。

上田はチームのエースとして当然のようにペナルティースポットにボールをセットした。前半18分の1本目のPKは左へ、同ロスタイムの2本目はGKの逆を突いて右に蹴り込んだ。

加入1シーズン目。ゴールという結果を残し続けたことでチームから完全に信頼を得た。4月からPKキッカーも任されるようになり、そこからPKだけで4点を追加した。4月23日のレギュラーシーズン最終節、ワーレゲム戦で失敗が1本あったものの、今季は通算5本中4本成功。他の選手は計3本の試行で失敗が2本あった。

欧州1部リーグで日本選手がPKだけでシーズン4得点は、98-99年のセリエAでペルージャのMF中田英寿が記録。中田も移籍1季目でチームの中心選手として活躍し、シーズン2桁得点を達成した。今回の上田の1試合2本のPKはエースの証し。上田が無得点だった試合でチームは3勝7分け10敗と大きく負け越しているが、得点した試合は11勝5分けと16戦負けなしとなった。









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