日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年5月2日水曜日

◆鹿島・椎本スカウト部長、引き抜いてきた選手を日本代表に多数輩出(サンスポ)





 J1鹿島の椎本邦一スカウト部長が1日、60歳の誕生日を迎えた。鹿島の前身の住友金属時代からクラブ一筋で、現職は24年間務めている。人材を見極める先見の明があり、初めてスカウトしたFW平瀬智行、DF池内友彦、FW柳沢敦の3人からこれまでに至るまで大卒15人、高卒32人を全国から発掘し、鹿島へと加入させてきた。

 1999年のFIFAワールドユース《現 U-20(20歳以下)W杯》ナイジェリア大会で準優勝した黄金世代と呼ばれた日本代表。その中心となったMF中田浩二、MF小笠原満男、MF本山雅志(J3北九州)、GK曽ケ端準、といったメンバーは椎本スカウト部長がクラブへと誘い、その後めざましい活躍を見せ、チームの中核を担うこととなった。

 FW大迫勇也、MF柴崎岳。DF昌子源、DF植田直通など、現在の日本代表にも同スカウト部長が引き抜いてきた選手を多数輩出。昨年は無名だったFW安部裕葵を瀬戸内高(広島)から獲得し、「掘り出しもの。われながらよく見つけたよ」と自画自賛。高卒2年目の安部は、いまでは攻撃の切り札として不可欠な存在となっている。

 「結局、縁だよな。赤い糸だよ」と椎本スカウト部長。たぐり寄せたその赤い糸は、チームの深紅のユニホームへと生まれ変わり、鹿島の伝統を継承していく。赤い糸をたぐり、今日も全国の“原石”を探し回る。

 椎本邦一(しいもと・くにひと)1958(昭和33)年5月1日生まれ、60歳。東京都出身。駒大から鹿島の前身の住友金属サッカー部へと加入し、31歳の引退後はコーチとしてチームを指導。鹿島となってからはユースで監督をした後に、スカウトの職務に就いた。現在、スカウト担当部長。


鹿島・椎本スカウト部長、引き抜いてきた選手を日本代表に多数輩出




◆【鹿島】柳沢、小笠原、内田、大迫、柴崎…A代表に16人を送り込んだ敏腕スカウト・椎本氏が60歳誕生日(報知)





 柳沢敦、小笠原満男、中田浩二、岩政大樹、興梠慎三、内田篤人、大迫勇也、昌子源、柴崎岳、植田直通…。鹿島のスカウトを23年間務め、幾多の人材を発掘してきた椎本邦一・強化部スカウト担当部長が1日、還暦となる60歳の誕生日を迎えた。常勝・鹿島を支える敏腕スカウトの横顔に迫った。(取材・構成 岡島 智哉)

 椎本氏が鹿島ユースの監督からスカウトに転身した1994年以降、獲得に携わった選手は47人。多くがチームの主力を担った。A代表にはその3分の1以上となる16人を送り込んだ。椎本氏の“眼力”は鹿島のみならず、日本サッカー界にも多大な貢献をしている。

 内田篤人や大迫勇也、柴崎岳など他クラブとの争奪戦を制して加入した選手が多くいる一方、興梠慎三、遠藤康、昌子源、安部裕葵など、それほど注目度が高くなかった選手を“一本釣り”で獲得したケースも多い。発掘の秘訣は自らの目と足。多い年で年間300試合を視察したという。

 「映像なんて見ない。自分の目よ。ヤナギ(柳沢)の時は富山に行って、直通(植田)の時は熊本に行って。他のチームがいい選手だといっても違うことはたくさんある。自分の目を信じること。ぶれずに。裕葵(安部)についてはこの前、協会の人が『どこから見つけてきたんですか』と。見つけてきたもない。見たんだよ(笑い)」。試合の視察だけでなく、学校関係者や選手の両親への挨拶などでも、必要とあらば全国各地を飛び回る。

 就任初年度に柳沢敦、平瀬智行、池内友彦の獲得に成功した椎本氏。しかし次年度はゼロ人。「振られた。(今でも)覚えてる。落ち込んだ。もう辞めようかなと思った」。しかしその翌年に小笠原満男、中田浩二ら、後に「黄金世代」と呼ばれる有望株を次々と獲得。「今考えたら、いつもいつもうまくはいかない。縁。赤い糸。最近そう考えている。失敗したら縁がなかったということ」と振り返る。

 全ての選手が大成するわけではない。獲得に尽力した選手が結果を残せないまま鹿島を去る際は、両親や出身校の先生に連絡をするという。「『ウチじゃ試合に出られなくて厳しいので、試合に出られる所に行かないとプロ生活が終わってしまいます。成功させてやれなくてすみません』と話します」。

 今季阪南大から加入し、デビュー戦となった第8節・名古屋戦でアシストをマークした次世代の主力候補・FW山口一真は、「椎本さんに救ってもらった」と語る。「周囲から“問題児”と言われてプロから声がかからない中で、しっかり自分を見てくれた」。

 クラブハウスにある山口のロッカーには「整理整頓」と書かれた貼り紙が張られている。身辺の整理が不得意な山口を思い、椎本氏が書きなぐったものだ。今でも「(試合に)出たら、とにかく積極的にやれよ」など“恩師”からの助言は尽きないという。椎本氏は「高校3年間、大学なら4年間、だめなやつはそこで辞めてるから。強い学校=キツくて厳しい。そこで一生懸命やってる。根っから悪いやつだったらやってないよ」とサラリと語った。

 60歳を迎えた椎本氏だが、「このまま第二の青春で、一年一年頑張ろうかなと思っている。何やりたいってのもない。この仕事も嫌いじゃないから」と意欲は尽きない。

 すでに2019年シーズンの新加入として「岳(柴崎)のようなゲームメーカータイプ。俊敏性もある。もともと二列目の選手なので、ボールもさばけてゴールにも絡める」と評する順大MF名古新太郎の加入が発表されている。「ウチに来た選手には成功して欲しい。本当にそう思う。試合に出たらうれしいもん」。“椎本チルドレン”は、これからも鹿島を支え続ける。


【鹿島】柳沢、小笠原、内田、大迫、柴崎…A代表に16人を送り込んだ敏腕スカウト・椎本氏が60歳誕生日



◆鹿島の名スカウトが育んできた24年間の縁と選手(スポニチ)





 今年、鹿島アントラーズのとある新人選手のロッカーに、一枚の紙が貼られた。「整理整頓、いつもきれいに」。手書きの文字の脇には、判子が押されている。「椎本」と。 

 鹿島の椎本邦一スカウト担当部長が、5月1日に60歳の誕生日を迎えた。

 大卒15人。高卒32人。「結局、縁だよな。赤い糸だよ」。下部組織からの昇格者を除いて、47人もの新人選手とクラブとの縁をつないできた。

 クラブで初めて、スカウトという仕事に就いたのは1994年の12月だった。駒大サッカー部から、選手として住友金属工業に加入。30歳で現役を引退した後は、指導者の道へと進んだ。それまで存在しなかったスカウトというセクションの立ち上げに伴い、クラブから声を掛けられたのが、鹿島ユースの監督を務めていた94年のタイミング。「とにかく試合を見て、顔を売らなきゃいけない」。数多ある名門高校、名門大学の監督たちの元に通うことから始まった。

 学校の指導者が選手に与える影響は何より大きい。クラブの窓口となる自身を信頼してもらえなければ、選手に話を通してもらうことも、選手の本当の性格や姿を伝えてもらうこともできない。「会社でいうと、セールス、営業。かっこいい言い方で言えば、ドラマじゃないけど、デカ」。地道に足で稼ぐ作業。なかなか顔を覚えてもらえず、名刺を2、3枚渡した先生もいた。「映像なんか見ない。信じるのは自分の目よ」。土日のたびに日本各地の試合会場を回った。選手権などの大会が始まれば、期間中はほとんど家を空けた。多い時は年間300試合も観た。スカウトを始める2カ月前の10月に生まれた息子を、自宅でたまに風呂に入れると泣かれた。今でも妻が繰り返し話す、忙しさを物語るエピソードだ。


 初めてスカウトした選手が加入したのは96年。FW平瀬智行、DF池内友彦、そして高校在学中から屈指の注目を集めていたFW柳沢敦の3人だった。出足は順調だったが、翌年の97年加入に向けてスカウトした選手には「フラれて」しまう。結果、新人の加入はゼロ。「落ち込んだよね。辞めようかなと思った」。そんな時でも、強化部長の鈴木満氏から掛けられた声は「しょうがないな」の一言だった。何かを押しつけることなく、クラブは職務に自由を与えてくれた。翌年の98年には、クラブの黄金世代、MF中田浩二、MF小笠原満男、GK曽ケ端準、MF本山雅志、MF山口武士、DF中村祥朗の6人を加入に導いた。


 スカウトする上で、大切にしてきたことがある。選手と話す機会があるときは決して、甘い言葉を掛けないこと。「ポジションを空けて待っている、とは言わない。厳しい世界だよ、ということは絶対に言う」。すぐに試合に出られることを誘い文句としているクラブもある一方で、あえてプロの世界のつらい現実を明かす。その上で、例えば高校生にならこう言う。「2、3年後、今(クラブに)いる選手とポジション争いできる能力があるから、声を掛けている」。

 FW大迫勇也に、MF柴崎岳。DF昌子源に、DF植田直通。FW興梠慎三に、DF内田篤人。日本代表の半数を形成できるのではないかと思えるほど、プロに導いた名選手は多い。「うちに来た選手には成功してもらいたい。試合に出て、活躍するとうれしいもん。(本人たちには)厳しいことしか言わないけどね」。けれど、華やかな結果を残す選手がいる一方で、試合に出られずに加入から3年ほどで移籍していく選手もいる。そのときは必ず、自ら両親と学校の先生に連絡を入れる。責任を持って、説明する。始めてから長い年月が経ったある時、プロを目指す選手の父母の間で「鹿島のスカウトから声を掛けられたら、大丈夫だよ」という声がささやかれていることを知った。自らを通じて、鹿島が選手を育てるクラブとして信用されていることが、何よりうれしかった。


 60歳の節目を迎えた今季。加入に導いた新人のFW山口一真は、阪南大時代、少々“やんちゃ”で知られていた。能力の高さは他クラブの強化担当者からも太鼓判を押されていたが、実際にオファーを出したクラブは鹿島だけだった。その時も、信じたのは自身の目だった。「サッカーを大学4年間、一生懸命やってるんよ。根っから悪いやつなら、やらないって。好きだからやれる。実際に話してみると、ちゃんと人の目を見て自分のサッカー観を語る。そういうやつって可愛い。どうにかしてやりたい。チャンスを与えてやりたいじゃん、っていうのがあった」。加入した山口は、見ている側が汗をかきそうなほど、いつもとにかく全力で練習している。私生活で抜けているところがあるのはご愛敬。ロッカーに張り紙をしたことを明かした時、椎本氏は「学校の先生みたいだろ」と子を愛おしむように言って笑った。


 選手を「獲る」という言葉は嫌い。選手には「選んでもらう」のだから。そして「選んでもらえる」のは、「クラブに魅力があるから」なのだから。「クラブとして25年間(目指すサッカーの)軸がぶれていないから、スカウトがやりやすい」とも感謝する。

 「これからは第2の青春で、1年1年頑張っていこうかな、と。この仕事、嫌いじゃないからね。だからこそ、ここまでできたと思うんだけど」。“引退”はまだ先。周りから「しいさん」と親しまれる名スカウトのもとで、これからも縁と選手は育まれる。(波多野 詩菜)


鹿島の名スカウトが育んできた24年間の縁と選手



◆人生預かるから心眼で選ぶ、鹿島の還暦職人スカウト(ニッカン)





 耳は、使わない。「ほかのチームが『いい選手だな』と言っても、そうかなと思うの、たくさんあるよ」。

 映像も、見ない。「映像なんか見ない。わざわざ見ないよ。だったら見に行くもん」。

 現場で直接、目の当たりにした自分の「眼」だけを信じる。そして、直感も。「いつも選手をパッと見たときに、そこで感じるか、感じないかをすごく大事にするんだ。だから自分の目を信じる。これは、最初のころはなかったけどね」。

 そうして発掘し、鹿島アントラーズに導いた選手は47人(大学出身15人、高校出身32人)。3分の1の16人は日の丸を背負ってピッチに立った。柳沢敦や小笠原満男、中田浩二、本山雅志に始まり、現在では内田篤人や大迫勇也、柴崎岳、昌子源ら-。彼らの国際Aマッチ出場試合数は計360試合に上る。誰もが名スカウトと認める。その椎本邦一(しいもと・くにひと)スカウト担当部長が1日、60歳の還暦を迎えた。「あっという間だね。まさか、こんなに長くやるとは思わなかった」。過ぎゆく濃厚な年月を思い返していた。


 鹿島ユースの監督を務めていた94年12月に、現職への声が掛かった。それまでスカウトは強化部の担当で、専門の部署はなかった。それを新設する、と。ただ、部員はいない。最初の2年間は1人だった。年に「300試合ぐらいは見たと思うよ」。

 家を空けることなど、しょっちゅうだった。直前の10月に第2子となる長男が生まれたばかり。たまに帰って風呂に入れると、大泣きされる。知らないおじさんだと思われていた。

 スカウトの仕事も同じだった。「(前身の)住友金属で選手はやっていたけど、そんなに強いチームじゃなかったし、代表に入っていたわけじゃないからね。最初のころは、顔を覚えてもらうのがなかなか…」。名刺を2、3枚渡した高校の先生もいた。無我夢中だった。

 最初に手がけた選手は96年の柳沢、池内友彦、平瀬智行の3人。やれる-。そうつかみかけた自信は翌年、いとも簡単に崩れた。97年の獲得者はゼロ。端的に「振られた」という。「正直、落ち込んだよ。もうやめようかと思ったもの」。救われたのは「しょうがないよ」という、強化部長の鈴木満氏の言葉。そこで思いを改めた。「縁なんだよね。赤い糸なんだ。失敗したら、縁がなかったんだ」。目に見えない赤い糸を信じるだけ。すると翌98年、小笠原、中田、本山と山口武士、中村祥朗の5人の有望株と、縁がつながった。ユース出身のGK曽ケ端準を加えた「黄金世代」の誕生だった。


 これまで縁あった47人のほとんどがリーグ戦の出場を果たした。挙げた総得点は547点。チームの全1489得点の4割近くを占める。携わった選手の活躍は、もちろんうれしい。興梠慎三や19歳の安部裕葵ら“無名”から見いだし、大成したときの喜びも大きい。だが、未出場のまま鹿島を離れた選手も、4人いる。「レギュラーになった子たちは良いんだ」。離れざるを得なかった選手たちの人生の方こそ、重く受け止める。

 「みんながみんな、成功するということもないからね。3年ぐらいやって試合に出られず、移籍しなきゃいけない子の方がすごく気になる。そういうときはちゃんと、親や学校の先生に連絡します。『成功させられなくてすみません』と」。

 そこには以前、ある親から言われた言葉がある。「私らはスカウトの人を信用して、スカウトの人に預けるんです」。選手の人生を預かる仕事-。スカウトの仕事を、そう受け止める。だから、入団前に甘い言葉はかけない。「厳しい世界だということは、絶対に言う」。その上で、力を認めていることを伝える。成功を収めた選手に共通しているのは「向上心。うまくなりたいという気持ち」。それをうながすために、褒めることはめったにしない。これからも変わらない。


 還暦は迎えた。だが終わりじゃない。まだまだ、鹿島に合った選手を見いだす楽しみを続ける。「だいたいさ、スカウトが表に出ちゃ、いけないと思っているんだよ。表に出るのは選手やスタッフ。そういうつもりでやってきたんだから」。だから「還暦取材」も最初は断ろうとしたという。それをクラブと番記者、双方の企て? によって引き受けさせられた“仕事”。「おめでとうじゃねえよ」と言う照れくさそうな姿に、やっぱり「おめでとうございます」と言いたくなる。

 ◆今村健人(いまむら・けんと) 1977年(昭52)、さいたま市生まれ。サッカー少年時代、セルジオ越後氏に股抜きされ、オウンゴールをさせられた。入社後、静岡支局をはさんで06年トリノ、12年ロンドン両五輪を経験し、大相撲担当も延べ6年経験。


人生預かるから心眼で選ぶ、鹿島の還暦職人スカウト



◆大迫勇也に新たな移籍先が浮上…ケルンは降格も大迫は1部残留か(ゲキサカ)





 ケルンに所属する日本代表FW大迫勇也(27)に、ハノーファーへの移籍が浮上した。ドイツ『キッカー』が報じている。

 28日、ケルンはフライブルクと対戦し、2-3で敗戦。2試合を残して17位以下が決定し、2011-12シーズン以来の2部降格が決まった。そのため、主力選手の流出は必至。今季わずか4ゴールにとどまったものの、24試合に出場した大迫も例外ではないとみられている。

 すでにブレーメンからの関心が報じられている大迫だが、同誌によると、ハノーファーも興味を示している模様。現在、ハノーファーは勝ち点36の13位でほぼ残留が決まっており、来季に向けた補強リストに大迫を加えたようだ。なお、同クラブには過去にMF清武弘嗣やDF酒井宏樹、MF山口蛍が所属していた。

 大迫は、2014年冬に鹿島アントラーズから1860ミュンヘンに移籍。同年6月にはケルンへと活躍の場を移した。そのケルンでの通算成績は119試合19ゴール。今季は公式戦31試合で6ゴール3アシストを記録している。


大迫勇也に新たな移籍先が浮上…ケルンは降格も大迫は1部残留か



◆【鹿島 vs 長崎】 ウォーミングアップコラム:普段は多弁な昌子源が「いまはなにを言っても意味がない」と話す理由(J's GOAL)






川崎F戦で2枚の警告を受け退場して以来、3試合ぶりに昌子源(写真)が戻ってきそうだ。昨年は全試合フル出場を果たしたベストイレブンの一人も今季は右脚の不調に悩まされ、つねにモモ裏のハリと戦っている。さらにチームは3勝3分5敗の15位と過去例のない低迷を続けている。その復帰には大きな期待が寄せられるが、普段は多弁な昌子も珍しく口が重かった。
「なにを言ってもいまは意味がないというか、なにを言っても口だけになると思う。結果がすべての世界だと思うし、しっかり結果を出したい」

チームに結果が出ない以上、必ずどこかに修正すべきポイントはある。ピッチの外から見えることもたくさんあったはずだ。しかし、それを探求するだけで勝点3が得られるなら、とっくに苦境を脱することはできている。それだけのことをしてきた自負があるのに、結果だけが付いてこない。だから苦しい。
「いま一番よくないのはなにかを変えることだと思う。変える必要はないと思うし、いままでどおりのサッカーをやったら勝てると思う。それが難しいと思うけど、やってるサッカーは悪くないと思う」

明治安田J1で昌子が先発した試合は7試合で5失点。出ていなかった試合が4試合で8失点であるのに比べると、1点以下に抑えることができている。
「サポーターを含めてみなさんを代表して鹿島アントラーズとして出るわけなので、代表して選ばれた11人、交代を含めた14人が、口だけじゃなくプレーで見せていきたいと思います」

なかなか得られない結果を求めて、昌子源はピッチに立つ。

文:田中滋(鹿島担当)


明治安田生命J1リーグ 第12節
5月2日(水)19:00KO カシマ
鹿島アントラーズ vs V・ファーレン長崎


【鹿島 vs 長崎】 ウォーミングアップコラム:普段は多弁な昌子源が「いまはなにを言っても意味がない」と話す理由


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