いきなりサッカー日本代表デビューが実現した訳
「ボールを奪う部分が、自分の一番の特長だと思っています」
キャプテンの遠藤航に守田英正と、すでに日本からヨーロッパへ活躍の舞台を移して久しい、同じポジションの選手たちが続々と合流してくる。
「個人のレベルがものすごく高いし、自分もその基準に合わせられるように頑張るというか、そこに合わせないと生き残っていけないと思っていたので、毎日が死ぬ気でやっている感じでした」
ミャンマー戦までの3日間の合宿をこう振り返った佐野は、一方で「チャンスはそう多くない、と思っています」と、実績のない自分がそう簡単には公式戦に出場できないと覚悟していた。
しかし、サッカーは何が起こるかわからない。インサイドハーフの一角で先発し、28分には追加点となる豪快なミドルシュートを左足で決めていた鎌田大地が腰に痛みを覚えた。異変はすぐにベンチへ伝えられる。鎌田の代わりに後半からいくぞ、と告げられたのは佐野だった。
「本当に急でしたけど、自分としてもいい準備をしてきたので。もちろん緊張していないわけはないですけど、やるしかない、とにかくチャレンジしようと前向きな気持ちで試合に入れました」
過度の緊張を与えないための配慮か。森保一監督の指示は明快だった。指揮官から「楽しんでプレーしながら、ボールを多く触ってほしい」と伝えられた佐野は、後半のキックオフから1分とたたないうちにミャンマーの選手に体を激しく寄せ、ファウルなしでボールを奪ってみせた。それも2度も。
守備から攻撃に転じるスイッチを激しく、なおかつクリーンに入れる、自身の十八番としているプレーだけではない。今シーズンから所属する鹿島アントラーズで取り組んできた、ボールを奪った後に自ら速攻につなげていくプレーや、中盤で相手をはがすドリブルも惜しみなく披露した。
そして、冒頭でも記した積極果敢なミドルシュート。このとき、ベンチ前で戦況を見つめていた森保監督は満足そうな笑みを浮かべている。試合後の公式会見でも佐野に対してこう言及した。
J2でプロキャリアをスタート。昨年末に告白した病気
「相手のボールを刈り取る力、連続をしてボールを奪う、味方にボールを奪わせるという守備の部分での能力を随所で発揮してくれた。攻撃の部分でも起点になって守備から攻撃へのつなぎ役になるなど、普段から鹿島で見せてくれているプレーを代表でも発揮してくれたと思っている」
森保監督は8日の代表メンバー発表会見でこんな言葉を残している。
「今回選んだ26人の他にも、フルメンバーと呼べる力を持っている選手はまだまだいる」
直後に前述した伊藤、そして川辺駿とボランチの選手が相次いで怪我で辞退した。そのなかで森保監督が言及したフルメンバーの候補者リスト、しかもその上位に名を連ねていたからこそ、佐野本人をして「とにかく驚いた」と言わしめた追加招集が実現した。
もっとも、佐野はA代表どころか、年代別の日本代表でプレーした経験もなかった。もっとつけ加えれば、誕生日の2000年12月30日よりも2日遅く生まれていたら、つまり21世紀に産声をあげていたら、2001年1月1日以降に生まれた選手が対象になるパリ五輪世代に名を連ねていた。
岡山県津山市で生まれ育った佐野は、3年連続でインターハイと全国高校サッカー選手権出場を果たした米子北高をへて、2019シーズンからJ2のFC町田ゼルビアに加入。2年目の2020シーズンには、累積警告で出場停止だった1試合を除いて41試合で先発出場を果たしている。
名前をもじって「佐野回収」と呼ばれたボール奪取力は、数字の上でも証明された。昨シーズンのJ2リーグで、90分間の平均ボール奪取回数で1位となる20回を記録したのが佐野だった。
しかし、右肩上がりの軌跡は6月5日の大分トリニータ戦を最後にこつ然と途切れる。開幕から20試合連続で先発フル出場していた佐野は、10月23日の最終節までベンチにすら入らなかった。
町田からは疲労性腰痛と発表されていたが、実はオーバートレーニング症候群も患っていた。鹿島への移籍が発表された昨年末。町田の公式サイトで、佐野は感謝の思いを込めながら病気を告白した。
「このことを公表するかはとても迷いましたが、公表しようと思った理由は、たくさんの人たちのおかげで、自分は戻ってくることができたからです。そして、そのたくさんの人たちへの感謝の気持ちを伝えたいと思うと同時に、自分と同じ状況の人たちの力になりたいと思ったからです。(中略)同じ状況を経験したことがある方々とたくさんお話をさせて頂き、色んな素晴らしい活動があるという事も知りました。同じ経験をしていた人たちに救って頂いたように、今度は自分がサッカーや様々な活動を通して、元気や勇気を与えられるように頑張りたいと思っています」
J1への初挑戦となった鹿島でも、2月の開幕戦から中盤で「回収力」を発揮し、ワールドカップ代表経験者の岩政大樹監督から「今年中に日本代表入りを狙え」と背中を押され続けた。代表入りどころか及第点のデビューを果たしたミャンマー戦後には、あらためて感謝の言葉を口にしている。
「この1年ですごく成長できたと自分でも思っているし、こうして代表の舞台に立ってスタートを切れたのも、間違いなく町田や鹿島でのプレーであるとか、自分の周りの方々のおかげです。そうしたことに常に感謝しながら、これからもプレーしていくことを心がけていきたい」
年代別の日本代表に無縁で、日の丸を背負って共闘した選手もいないからか。コミュニケーションを取るのが、あまり得意なタイプではないと佐野は苦笑する。ミャンマー戦で67分から途中出場し、佐野と同じ時間を共有した守田も「彼はあまりしゃべらないですけど……」とこう続ける。
「職人っぽく、黙ってプレーするタイプじゃないですかね。今日は非常によかったと思います」
それでも3日間の練習と、後半の45分だけプレーしたミャンマー戦をへて、佐野の心には大きな変化が生じている。まずは当然のように、森保ジャパンに生き残っていきたい思いがより膨らんできた。
「そういう気持ちが高まりましたし、こうして国を背負って戦えるのは本当にすごいことだとあらためて思いました。責任やプレッシャーはありますけど、そのなかでもっと、もっとやっていきたい」
守田がアンカーに入り、自らはインサイドハーフでプレーした後に受けた衝撃も忘れられない。86分にMF堂安律が決めた5点目を、前線への浮き球のパスでアシストしたのは守田。自身の頭上をゆっくりと、そして堂安のもとへ正確に超えていったパスに佐野は感銘を受けた。
「ああいった勝負のパスは、プレーしていてすごくうまいと思いました。自分も大事な局面でああいうパスを出さないといけないと、試合中でも思ったくらいにすごかった」
何よりも後に続く選手たちに、こういう道もあると示したい思いに強く駆られた。
「(年代別代表に)選ばれるにこしたことはないけど、自分みたいに選ばれなくてもA代表に呼ばれて、プレーできると証明できたと思うし、もっと、もっとやっていけるとアピールしていきたい」
戦いの舞台は代替開催地のサウジアラビア・ジッダへと移った。内戦下でホーム戦を開催できないシリア代表とのアジア2次予選第2戦が、日本時間21日の23時45分にキックオフを迎える。そして、チームが現地入りしたのと前後して、鎌田の負傷離脱が日本サッカー協会から発表された。
リザーブのままミャンマー戦を見届け、休養十分の遠藤がシリア戦では満を持して出場するだろう。一方でデュエルキングを自負し、ボール奪取に長ける30歳の遠藤に続くボランチは、怪我などで招集されていない選手や予備軍を含めて、群を抜く回収力を誇る22歳の佐野しか見当たらない。
伊藤と川辺の代表辞退と、鎌田の負傷もあって果たしたA代表への追加招集とデビュー。数日間で激変した状況のなかで、自分自身に「初っ端こそが一番大事」と言い聞かせながら等身大のプレーを披露した佐野が、次回ワールドカップへ向かう森保ジャパンの道のりに大きな爪痕を刻んだ。
(取材・文:藤江直人)
【了】
◆佐野海舟が45分で感じた意欲。町田で育ち、病気を経て鹿島で掴んだサッカー日本代表【コラム】(フットボールチャンネル)